第百十九話
マルセルが教えてくれた森は本当に遠かった。それなりの距離に加えて積雪である。街道は冬でも往来があるので雪が踏み固められていたものの、森を目指して道を逸れてからが大変だった。
森までの道は人が通った形跡など皆無で、もっさりと雪が積もっていた。浮遊魔術で私たちの体を浮かべるといった方法で越えようにも、距離が距離だ。往路の途中で魔力切れを起こすのが目に見えている。そうなれば復路を帰還魔法で楽できなくなってしまう。
そんなわけで、魔法で雪を熱してある程度溶かし、残った雪を踏み越えて森を目指した。
食事休憩を挟みつつの往路は予定よりも時間がかかり、夜も明けぬうちに出発したというのに、森に着く頃には若干日が傾き始めていた。
「本当にこんなところに鳥なんているのか」
私の隣で額の汗を拭いながらぼやくのは、赤ら顔を更に赤くしているオリバーだ。
もとはといえば、この話はオリバーが私に絵を押しつけたところから始まっている。リルムの事情を簡単に話して、オリバーをフィアラニール狩りに巻き込んだ。フィアラニールの血抜きは大仕事なので、手伝いが欲しいとマルセルに言われていたからだ。
「こういうところだからいるんですよ」
マルセルは疲れを滲ませるどころか、やる気で目が輝いている。道中聞いた話によると、マルセルは食材を求めて自ら狩りに出かけるのも珍しくないそうだ。オリバーも私も狩りの経験はないので、頼もしいかぎりである。
ちなみに私はというと、既に体力が限界に達していた。こんなに歩き続けるなんて滅多にない。
オリバーも一応魔法は使えるが、魔法が不得手なドワーフの類に漏れず彼の魔法は頼れるといったレベルではない。ゆえにここまで雪を溶かし続けたのはほとんど私の魔法なので、それも疲れの原因になっていた。
「皆さん、頑張ってください!」
私の背中からは、リルムの元気な声が響く。両手が使えた方がいいと思って、今日は絵を背負ったのだ。
リルムは捕まえたフィアラニールを運搬する係だ。絵の中はけっこう広いそうなので、そこにフィアラニールを収納して運ぼうという作戦だ。リルムは絵としての重さしかないのだから、絵にフィアラニールを収納しても重さは変わらないはずだ。
たぶん。
きっと。
そのはずだ。
荷物が少ない方が帰還魔法で使う魔力も少なくて済むので、そうであって欲しい。
私の膝上ほどにまで積もった雪を魔法で溶かしながら、マルセルの先導で進む。
無音の森の中、周囲の気配を探りながら歩いてニ十分ほど経った頃だろうか。振り向いたマルセルが、口に人差し指を当てた。私たちの間に緊張がはしる。
雪の重みで枝が折れそうなほど曲がりながら垂れ、小さなつららをいくつもつけた針葉樹の枝葉の向こう。ぽっかりと開けた場所に、それはいた。
うっすらと青みを帯びた、ふかふかの羽毛。すらりと長い首の上には、シャープな鳥の顔がついている。足はさほど長くない。しかし子供の胴ほどもありそうな太さで、のしのし歩きながら立派な鉤爪を見せつけている。粉雪を舞い上げるそよ風に、金色の細く長い尾羽がそよそよとなびいていた。
私の身長の三倍はありそうなその大きさに、思わず息を呑んだ。
いくらなんでも大きすぎないか? ジャックフロストは大きな魔物ではない。もしかして野生の鶏とやらが馬鹿みたいに大きいのかと考えて、そんなはずはないと小さく頭を振った。そこまで大きさが違うのなら、普通は交尾なんてしないんじゃなかろうか。私は生物学者ではないから詳しくは知らないが、素人の想像ではそうなる。
じゃあなんでフィアラニールはこんなに大きいんだ。
あれか、突然変異か。
マルセルが「繁殖能力はない」と言っていたから、可能性はある。
うん、きっとそうだ。
この中で唯一本物のフィアラニールを知るマルセルが平然としているからには、眼前のフィアラニールが普通なのだ。なんにせよ、今すぐ答えが分かる問題ではない。あまり深く考えないでおこう。
私はフィアラニールの尋常ではない大きさについて考えるのをやめた。
フィアラニールについての思考を放棄した私が見ている前で、マルセルが使い込まれた弓に矢を番える。フィアラニールがこちらに気づいている様子はない。
マルセルが弓を引き絞り、今まさに鋭い一射が……といったそのとき。
「ぶえっくしょおおおおい! へくしょい!」
「あああーーーーーっ!」
オリバーの豪快なくしゃみが響いた。驚いたマルセルの悲鳴と共に、矢が放たれる。矢はフィアラニールの目元を掠め、どこかへと飛んでいってしまった。
「おいオリバー!」
「仕方ないだろう! さっきから息をするたびに鼻毛が溶けたり凍ったりして鼻がむずむずしてたんだ!」
「おまえの鼻毛事情なんぞ知るか!」
レベルの低い言い合いをする私とオリバーの間に、マルセルの切羽詰まった声が割り込んでくる。
「うわあああこっちに来ます! 逃げてーっ!」
そんな声で我に返り、私はフィアラニールを見た。
巨鳥はクケケケッと低い声で鳴きながら、こちらを睨みつけていた。
立派な鉤爪がついた極太の足で雪を蹴り上げ、一直線に突っ込んでくるフィアラニール。
突進を避けようとすぐ脇の雪に飛び込んだ私の上を、フィアラニールが起こした猛烈な突風が掠める。肌に突き刺さるような痛みを感じて頬に触れれば、薄氷が頬を包んでいた。風が掠めた外套も凍り、動けばパキパキ音を立てて薄氷が剥がれ落ちる。
ジャックフロストを親に持つ怪鳥は、とんでもない能力を有していた。
ただ突進を避けるだけでは助からない。早くなんとかしなければ。
頬を魔法で温めていると、マルセルの声が響いた。
「フィアラニールはとても好戦的なので、一発で仕留めるのがセオリーらしいです!」
「そういうのは先に言ってくれ!」
マルセルも突進を避けようとして、雪に突っ込んだようだ。お互い雪まみれになりながら言葉を交わす。
その間にも、フィアラニールは向きを変えて再び突進の姿勢をとっていた。こちらは雪で身動きが取れないというのに、身軽なやつだ。
「エルクラートさんピンチですか? 応援します!」
「ちょっと黙っていてくれないか」
背負った包みの中から響く、リルムの陽気な声。その甲高い声がフィアラニールにとってはこれ以上ない刺激になったようで、クケケケッと唸りながら私に顔を向ける。
雪を掻く太い足。
まずい。突っ込んでくる気だ。
「待て、落ち着け。いや落ち着いてもいられないか」
当たり前のことを口にするあたり、私は軽く混乱している。
フィアラニールからすれば、のんびりしていたところを襲われたのだ。襲撃者に「落ち着け」と言われて応じられるわけがない。
こちらを睨むフィアラニールから目が離せない。
どうしたらいいんだ。
思考停止してしまった私めがけ、巨鳥が向かってくる。
ああ、これは死んだな。
そう思った瞬間。
「うおらああああああっ!」
野太い声がして、襟首を掴まれた私は放り投げられた。ぐるぐる回る視界の中で見たのは、突っ込んできたフィアラニールを真正面から受け止めようとして、勢いよく吹っ飛ばされたオリバーの姿だ。
ドワーフは非常に筋肉質なその体が示すとおり、とても頑丈だ。ちょっと突き飛ばされたくらいでは怪我なんてしないと思う。
私を受け止めてくれた雪だまりに腰まで刺さったまま、フィアラニールの突進から助けてくれたオリバーに感謝する。フィアラニールが起こす風に触れると軽く凍るので、オリバーも表面が凍っているはずだ。ここから抜け出せたら溶かしにいってやろう。




