第百十七話
図書館を出る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。閉館時間まで粘って調べものをしていたのだから当然だ。全身をずっしりと重い疲労感が包んでいるのは、こんなに労力を割いたのになんの成果も得られなかったせいである。
イリュリアの図書館は蔵書数や種類が豊富で、たいていの調べものならばここで済む。
おかげでエルフ料理のレシピ本以外にも、部外者お断りが当然のエルフの里に滞在したという貴重な旅行記、それからエルフ自身が書いたエルフという種族についての研究など、様々なエルフ関連の書物に出会えた。
この数時間で、とてもエルフに詳しくなった気がする。明日急にエルフの里におじゃますることになったとしても、彼らを不機嫌にさせずに済みそうだ。
エルフ料理についての記述がある本が大量に見つかったので、私はリルムと手分けをして調べた。その結果「フィアンポローネ」という単語が出てきたが、それはエルフの里で冬に大勢で食べたという探検家の記述のみだ。味や具については、リルムが私に伝えたようなことしか書かれていない。
困った。
とても困った。
いったいフィアンポローネとはなんなんだ。
「エルクラートさぁーん、疲れましたあー」
私が抱えている包みの中からリルムの声がする。さすがに外で落として汚したりといったトラブルは避けたいので、移動中は布で包んでいた。
「絵も疲れるのか?」
「気疲れってやつです。ねえねえ、なにか美味しいもの食べに行きましょうよー。私、昨日エルクラートさんが行ってたお店がいいです」
しょげたように下を向いていたリルムの耳が、ピンと立つ。彼女の声を聞いているだけで、そんな姿が目に浮かぶ。
「なんだ元気じゃないか。食事がなくても大丈夫そうだな」
「ええっ! やだー! ご飯食べたいです! ご飯ご飯ーっ!」
「分かったから少し黙っていてくれ。私が一人二役でひとり言を言っているように見える」
モンテッサンの絵の具で描かれた絵が喋り、飲み食いまでするなんて世間では知られていない。絵から本人が生えてくるなんて話も聞いたことがない。
モンテッサンも予想していなかったであろう膨大な魂を絵に込められたからか、それともリルム自身が錬金術師としての知識を活かして絵の具に細工をしたのか。
真実は不明だが、リルムは約六百年分の寿命を持つ者として、こうしてやかましく存在していた。
リルムが黙ってくれたので、夜になり再び冷え固まった雪道を歩きながら夕食について考える。
今から帰って作るのは充分可能だが、楽がしたい。それに時間のわりにあまり実りのない労働をして疲れた自分を、美味いもので慰めてもいいんじゃないかと思えてきた。
ブーツの底が凍った雪を踏んで、静かな夜道でざりざりと音を立てる。
家の食料を思い出しつつ手早く作れる料理を思い浮かべる頭と、分かれ道で繁華街へと向かってしまう足。
今夜は足の勝利で決まりだ。
そうとなれば、向かうのは金の小鹿亭だな。他の店に興味がないわけではないが、落ち着いたカウンター席を使えると分かっている金の小鹿亭の方が、リルムにも目立たず食事をさせやすい。それにリルムも金の小鹿亭に行きたいと言っていた。
二日連続で金の小鹿亭に行くなど滅多にないので、わくわくしてきた。今夜はなにが食べられるのか。マルセルの料理は私にとって娯楽でもあるので、楽しみで仕方ない。
ちらちらと雪が舞う繁華街は、あちこちの店から漂う匂いが混ざり合い、なんとも美味そうな空気に満ちていた。既に酒が入っている者がいるせいもあるが、道行く人々の顔も明るい。談笑も聞こえてきて、まだなにも飲み食いしていないというのにふわふわと愉快な気分になってくる。
そんな気持ちで視界に小鹿を模した金色の看板を捉えたものだから、私はつい小さく微笑んでしまった。
金の小鹿亭のドアは、小鹿の住む森をイメージしているかのような瑞々しい若葉色に塗られている。すっかりなじみのそのドアを開けると、美味そうな匂いを纏った温かい空気と客たちの明るい話し声がわっと溢れてきた。
今日も繁盛している。
賑わうテーブルの間を縫うようにして料理を運んでいるのは、マルセルの妻オリヴィアだ。マルセルに似たころんと丸い体型に明るい笑顔がチャームポイントの彼女は、見ていると心が安らぐ。
いつもの笑顔で迎えてくれるオリヴィアや、声をかけてくれる常連。彼らに応えながら、店の奥にあるカウンターへと向かう。
大きな茶トラの老猫がだらりとくつろいでいるカウンターの中で、マルセルはせっせとチーズの盛り合わせを作っていた。カウンターの奥にはキッチンがあるが、火を使わない簡単な前菜はカウンターのすぐ内側でも作られる。酒を準備するのもここだから、マルセルは特別なことがなければいつもここにいた。
「おや、エルクラートさん。珍しいですね」
「きみの料理を食べたいとせがまれてね。客を連れてきたよ」
にこにこと快く迎えてくれたマルセルにそう言い、絵の包みを解いてカウンター席に置く。もちろん固定魔術をかけるのも忘れない。
「リルム、夕食にしよう。出てきてくれ」
声をかければ、絵からにゅっとリルムが生えてきた。繁華街で酒場を営んでいるのだからたいていのことには動じなさそうなマルセルも、さすがに驚いたようだ。「ひいっ」なんて小さな声を漏らしている。
「錬金術師のリルムだ」
「初めまして」
マルセルに紹介すれば、リルムがぺこりとお辞儀をした。
「ああ、どうも。店主のマルセルです」
まだ顔には驚きの色を残しながらも、マルセルがなんとか笑顔を浮かべる。
「へえ、エルクラートさんの彼女さんって、絵だったんですね。昨日来たとき、紹介してくださればよかったのに」
「違う。リルムと私はそういう関係ではない」
そんなマルセルとの会話に、リルムが食いつく。細長い耳をぴぴぴと小刻みに震わせながら、リルムは鼻息も荒く私を見てきた。
「エルクラートさん、お付き合いされてる方がいるんですか! どんな方なんですか? やっぱりエルクラートさんの彼女さんだけあって、ちょっと変わってますか?」
リルムは他人の恋愛事情について、非常に興味があるタイプのようだ。なぜ皆人の恋愛にそこまで興味を持てるのか。
「絵は空腹を感じないのだったな。今夜は飯抜きでいいか?」
「やめてください! ご飯食べたいですご飯!」
私の言葉に、リルムは慌てた声を上げた。さすが食い意地の権化である。
「エルクラートさんは、まずはオニオンスープですね」
すっかり平静を取り戻したマルセルの言葉に、リルムの細長い耳がぴくりと大きく動いた。エルフの耳は感情で多少動きはするが、リルムほどぴょこぴょこ激しく動く者はそういない。
「私もオニオンスープ食べたいですっ」
言うと思った。
「だそうだ。二つくれるか」
「かしこまりました」
続いて飲み物の注文を取ってくれるマルセルに、ホットワインとシードルを頼む。普段はビールを頼むのだが、ずっと図書館で頭を使ったせいか甘いものが欲しかった。
ちなみにシードルはリルムの注文品だ。錬金術の勉強をする為に里の外で暮らしていて、味を覚えたそうだ。




