第百十四話
ミルクティーがすっかり空になった頃。
かちゃり。
食器が鳴る小さな音が聞こえて、はっとした。見れば、絵から生えたリルムがタルトタタンを食べている。なんて図太い神経の持ち主……いや、違うか。
リルムは錬金術師。つまり学者である。感情としては打ちのめされたとしても、事実を受け止め咀嚼するだけの冷静さがあると思えた。
あっという間にタルトタタンを完食したリルムが、冷めたミルクティーを一気に飲み干す。ふう、と一息ついた彼女は思いのほか落ち着いた表情をしていた。
「絵の中っていうのは季節や天体が巡らないので、生活上の時間の経過が分かりにくいんです。私自身絵だから、寝食の必要もありませんし。それでも一応時計はあるんですよ? ほら、ここ」
リルムが絵の一部を指す。そこには茶色い置き時計と思しきものが描かれていた。
「一定の時間を計らないといけない実験も多いですからね。でもそれだけです。実験に夢中になればなるほど、大きな時間の流れを忘れて、切り離されてしまうみたいですね。自分を二人に分けるとき、そんなの考えもしませんでした」
空になったティーカップを両手で包みながら微笑むリルム。その姿は少しばかり寂しげだ。
「エルクラートさんは、ハイエルフと言う種族の生涯がどんなものか知っていますか?」
「精霊に近い存在だと耳にしたことはあるが、その一生がどんなものかは知らないな。そもそもハイエルフに関する情報は、エルフの里の外にはほとんど伝わっていないんだ」
私の言葉を受けて、リルムがひとつ頷く。
「エルフたちにとって、ハイエルフは宝物のような存在ですから。ほとんどの里にたったひとりしかいないのでとても大切に扱われますし、部外者と接することもほとんどないので知られていないのは当然です」
ティーカップを包むリルムの手に、きゅっと力がこもる。
「エルフの里の奥にある『聖域』。そこに生える神木がその生涯においてたったひとつだけつける実から産まれるのが、私たちハイエルフです。ハイエルフは里の宝であり、守護者。寿命をまっとうした後は神木へと姿を変え、またたったひとつだけ実をつけ、新たなハイエルフを産む」
小さく息をつき、リルムが言葉を続ける。その傍白のような言葉に、私はじっと耳を傾けていた。
「私はサルフェールの聖域で産まれました。サルフェールのエルフたちを守るのが使命だった。だからエルフたちを守り、生活をより豊かにしようと、皆に無理を言って里を出て、錬金術を学びました。でも、肝心なときにまったく役に立てなかった。私にはもう、守るべき民も、帰る場所も、なにもない」
沈んだ声色のリルムだが、泣き出す気配はない。気丈なことだ。
そんな彼女が、私の名を呼ぶ。
「私は、なぜエルクラートさんのところにいるんですか?」
「きみの魂抜きを依頼された職人が、私のところに絵を持ち込んだんだ。ドワーフの職人を覚えているか? きみから溢れ出した悪夢の影響を受けていたやつだ」
そう話せば、リルムはピンときたような顔をした。悲しげにしゅんと下がっていた細長い耳が、少しばかりぴんとする。
「オリバーさんですね。彼の工房で話した覚えがあります。私の悪夢をなんとかしてくれると言っていました」
「そうだ。それで彼がきみを連れてきたのが、夢喰屋である私のところだったんだ」
「なるほど」
夢喰屋という職業は古くからある。人里に出た経験のあるリルムは、特に説明せずとも分かってくれたようだ。
これくらい落ち着いていたら、夢喰いの話を持ち出しても問題なさそうだ。
そう判断し、私は彼女がなにか言うより先に口を開いた。
「オリバーが調べたところによると、きみの寿命はあと六百年ほどあるそうだ。その寿命の件もあるし、きみ自身がこうして意思を持ち、会話もしていることから、オリバーはきみの魂抜きをしないつもりだ」
「でも私を絵として所有していた方は、魂抜きを望んでるんですよね?」
「そうだ。オリバーはその客を説得するつもりでいる」
なんでも依頼されるままにこなすのではなく、ひとつひとつの依頼について考え、最善の道を探るのがオリバーという職人だ。
そんな彼の仕事に対する姿勢は好ましかったから、私も魔道具関連の話はオリバーを頼ったし、彼が頼み事をしてきたからにはなんとかしてやりたいと思っている。
「きみが悪夢を溢れさせて客先で不当に処分されないようにと、オリバーはきみの夢喰いができないかと私のところに来たんだ。私ならば、紐づいた記憶を失わぬように悪夢の一部だけを喰らうのも、二度と思い出さぬように喰らい尽くすのも、可能だ。しかし、きみの夢喰いをするにあたって、オリバーではどうにもできないことがある」
「と言いますと?」
リルムが小首を傾げる。夢喰屋の存在は知っていても、利用したことはないのかもしれない。
「どんな悪夢だとしても、夢喰屋は第三者の言葉では夢喰いをしない。きみの悪夢をどうにかするには、きみ自身の了承が必要なんだ。どうする? 夢喰いがお望みであれば、きみがこれからの時間を過ごすにあたって必要なだけ悪夢を喰らおう」
「これからの、時間……」
リルムがうつむいてしまう。
いくらハイエルフが何千年も生きる長命な種族といっても、使命もなく生きる六百年は長すぎると感じるのかもしれない。その時間、悪夢を手放して暮らすのか、それとも悪夢ではあるが里のエルフたちの思い出とともに暮らすのか、悩まないわけがない。
リルムが返事をしないかぎり絵は私が預かるだろうから、熟考するのがいい。
そう声をかけようとしたら、リルムが顔を上げた。
「オリバーさんに私の魂抜きをお願いできないでしょうか」
「なんだと?」
寝食の必要がないとはいえ、寿命が残っていて意思を宿している絵画のリルム。その魂を絵から抜いても、他に宿せるわけではない。抜かれた魂は消滅する。
つまりリルムは、死ぬ。
少なからずショックを受けている私の前で、リルムは実にあっさりとした口調で言葉を紡いでいく。
「オリバーさんのところで魂抜きを拒んだのは、薬を皆に届けなきゃと思っていたからなんです。でもサルフェールが滅んでしまったのなら、もうその必要もありません。私も薬が完成しているのだから、これ以上なにか研究をしたいとも思いませんし」
リルムの言い方は軽く聞こえるが、もしかしたら魂を分割する作戦を実行するにあたって、こういう終わり方を覚悟していたのかもしれなかった。
リルムは食い意地が張っているばかりの存在ではない。錬金術師だけあってか、頭の回転が速い。成功と失敗を両方とも視野に入れて行動していても不思議ではなかった。
「私を絵画として所有したい方がいるのなら、魂抜きをしてもらった方が気が楽です。長い時間を無為に過ごすくらいなら、眠りたい。だって本体の私も、きっともうこの世にはいないんですから」
「それで本当に後悔しないか? 答えを急くわけではないから、もう少しゆっくり考えたまえよ」
声をかけてみるが、リルムは首を横に振った。蜂蜜色の髪がさらさら柔らかそうに揺れる。
「私はこうしてエルクラートさんとも話ができますし、いろいろ食べますけど、結局は一枚の絵なんです。どうせいつかは魂を消費しきってただの絵になるんですから、そのときが早まるというだけの話ですよ」
「そうだとしてもだ。きみの魂抜きは、それをするオリバーにとってはひとりのハイエルフを殺すに等しい行為なんだ。意思ある存在として言葉を交わした者を殺せと、オリバーに言えるのか?」
「それは、その」
リルムが言い淀んだ。
ひとりで勝手に死ぬのなら私もなにも言わないが、魂抜きを願うリルムはつまるところオリバーに自分を殺させようとしているのと同義である。口を挟まずにはいられなかった。




