百十三話
「バクさん、このスクランブルエッグ、とってもとろとろで美味しいです!」
「それはなによりだよ。あと私の名前はエルクラートだ」
「はい、エルクラートさん!」
翌朝の食卓。猫の悪夢入り紅茶をのんびり味わう私の向かいでは、これでもかというほど笑顔のハイエルフが元気に朝食を食べていた。空腹を感じないと言っていたわりに、よくもまあ毎食そんなに食欲があるものだ。
「きみの名前はなんというんだ?」
「私ですか? リルムといいます。エリクシルの研究をする為に本体から分割された魂ですけど、本体と同じリルムって名前です」
「ほう」
食い意地の張ったハイエルフの女――リルムが、面白いことを口にした。
エリクシルというと、かつて多くの錬金術師たちが研究していた万能薬だ。
そんな都合のいいものは結局完成しなかったものの、研究の過程で様々な薬が開発され、それらは今でも使われている。錬金術を学んだ者の中には、病院の中や近所に工房を持ち、薬師として生計を立てる者も多い。
存在しないとされる万能薬を研究していると言うリルム。
しかも彼女は長命なハイエルフでありながら、わざわざその魂を本体と絵に分けたそうだ。研究に費やせる寿命という時間が短くなるだけの行動に思えるが、なぜそんな真似をしたのか。純粋に気になった。
「魂を分割して研究すると、どんなメリットがあるんだ?」
問えば、口の端にスクランブルエッグをつけたままのリルムがすぐに答えてくれる。
「私が二人に増えるので、研究が倍のスピードで捗るんです。調合できる量だって倍ですよ! しかも絵の私は絵の中に工房があるので、調合スペースの確保だって簡単です」
「そんなに急いで研究しなければならない理由でもあるのか?」
「そりゃあもう。里の皆が私の薬を待ってますから。ところで」
ようやく口の端についたスクランブルエッグに気づいたようで、リルムがそれを拭う。
「サルフェールの里は、ここから遠いんでしょうか?」
リルムの口から出た名称が、私が持つ記憶の遺産に引っかかった。
サルフェールはエルフの里のひとつだ。
人間が起こした鉱害による水質汚染が原因で滅びた里として、有名である。
その被害はひどく、亡くなったエルフたちは皆髪や眉といった体毛が全て抜け落ち、青紫色に変色した全身を大小のぶよぶよとした黒い腫れ物が埋め尽くし、特徴的な耳が無ければ、とてもではないが眉目秀麗で知られるエルフとは信じられない姿だったという。
サルフェールの犠牲により、鉱石の採掘はどんな場所でも必ず専門家であるドワーフの指導のもと対策がとられるようになった。その土地の状態に最も精通しているのは、現地で採掘を生業としているドワーフである。
人間たちの中にはドワーフが権力を占有しているとして反発する者もいるが、それも少数だ。ドワーフたちの実績が黙らせているのである。
「きみはサルフェールに住んでいたのか?」
「はい。今サルフェールは大変なんですよ。体中にすっごい気持ち悪い腫れ物ができる奇病が流行ってて、大人も子供もどんどん死んでるんです」
リルムの話しぶりからして、サルフェールが全滅したとは知らないようだ。
「でももう大丈夫! 私、皆を治せる薬を完成させたんです。これさえあれば皆助かります。早く渡さないと」
「リルム」
「エルクラートさん、お願いします。私をサルフェールの里に連れていってください。もちろんお礼もさせていただきますから」
「リルム、サルフェールは全滅した」
どう言葉を選んだところで、伝わる内容は変わらない。回りくどいことをせず、私ははっきりと事実を告げた。私とリルムの間の空気が、パキッと凍りつく。
「サルフェールは全滅した。人間の採掘作業による鉱害でな。そしてそれは、今から四百年以上昔の話だ。きみが救いたいと願う者は、ひとりも残っていない」
「嘘。嘘ですよそんなの」
「きみがこうして里の外にいるのが、何よりの証拠だ。里も本体のきみも無事であるのなら、絵のきみが人里で売り飛ばされているわけがない」
「そんなのっ……私が盗まれたからかもしれないじゃないですか!」
悲鳴のような痛々しい声で反論するリルムに「その可能性はあるな」と言ってやりたい気持ちは、私にも多少ある。しかし事実をごまかしたところで、リルムにとって状況が好転するわけがない。
「分かった。ならば出かけよう。きみの里が滅んだという揺るがぬ証拠がある場所へ行くぞ」
店を休むことになるが、この言い合いを宙ぶらりんのまま放置するよりましだ。
すっかりおとなしくなったリルムが朝食の残りをもそもそ食べ終えるのを待って、片付けをする。外套を羽織り、絵を布で包むと、私は絵を抱えて出発した。
あそこならば、サルフェールについての記録が必ずある。
***
正確な記録とは、残酷な現実の証明にもなる。
図書館でサルフェールについての記述を片っ端から確認したリルムの落ち込みぶりは凄まじかった。絵から生えて食事をねだっていた元気な姿はどこへやら、髪の毛一本すら絵から出さずに、完全に沈黙してしまったのだ。
そんなわけで私は、図書館に併設されたカフェでただの絵を相手に茶を愉しむ変人となり果てていた。ミルクティーもタルトタタンも二人分注文したので、店員の青年が少しばかり不思議そうな顔をしていたのをまだ覚えている。
しかしリルムに出てきて食べろと言うわけにもいかない。
魂を分割してまでおこなった研究で救おうとした者は、皆亡くなっていた。そんな現実を突きつけられてすぐに立ち直れるほど強靭な心の持ち主など、そういないのだから。
元々溢れ出すほどの悪夢を見ていたリルムだが、彼女の新たな悪夢を増やしてしまったかもしれない。だがいずれ判明してしまう事実だ。
静かな窓辺の席で、ミルクティーを口にする。ここのミルクティーは牛乳のふっくらした味わいに茶葉の濃厚な香りが溶け合っていて、とても美味い。あらかじめ甘めに調味されているのだが、それが調べものや読書で疲れた体にしみわたる。おすすめのケーキも頼んでゆっくりするのが、図書館に来たときのお決まりの休憩時間だ。
大きな窓から中庭を見る。秋の終わり頃までは季節の花々が楽しめるそこも、冬の今は一面白く覆われ、雪がちらついていた。




