百十二話
「……ん、バクさん、あの……て……きてく……」
深夜。耳元でさわさわとした声が聞こえた気がして、私は目を覚ました。
「起きてください、お願い」
聞き覚えのない、若い女の声だ。私はひとり暮らしなのだから、こんな声が聞こえるはずがない。侵入者かと考えたが、防犯用にと家や店に張り巡らせている魔術は無反応だ。それに侵入者なら、わざわざ私を起こさないか。
ならばこの声の主は誰だ。
声の正体が気になったものの、眠い。相手が何者であれ、こんな時間に私を起こしにかかっている時点で面倒事の予感がする。幸い私はまだ目を開けていないから、気づかぬふりをして寝直すという選択肢も選べた。
「バクさん、バクさん」
相変わらず聞こえる、さわさわとした声。絶妙な邪魔さで睡眠妨害になる音である。
このまま無視を続けた結果、寝ている間に危害を加えられて死ぬなんて事態になってはたまらない。
非常に不服ではあったが、私は起きることにした。寝返りをうち、目を開け、ベッドサイドにあるランプに魔法で火を入れる。
柔らかな灯りに姿を浮かび上がらせたのは、蜂蜜色の髪から細長い耳が覗いている女――あの絵に描かれていたハイエルフに似た女だった。
いや、本人か?
ハイエルフ自体珍しいのに、絵と同じ紫色のヘアバンドにマントなんて服装をしている確率は極めて低い。
例の絵は、ベッドのそばに置いた椅子に固定している。そちらを見て、なにが起きているか理解した。
私の顔を覗き込んでいたハイエルフの女。その体の腰から先がパン生地のように伸びて、絵の中へと続いている。
ハイエルフが絵から生えている。
そう表現するのが近い。
「起きてくれましたね!」
絵から生えているハイエルフの女が、表情を輝かせた。
「あのですねバクさん、お願いがあるんです」
「その前に確認されてくれ。きみはあの絵に描かれたハイエルフで間違いないか?」
「はい!」
エメラルドのように深い色の瞳を持つハイエルフは、元気に返事をした。
「あの、それで、さっそくで申し訳ないんですけど、私のお願いを聞いてはいただけないでしょうか」
「叶えると確約はできないが、ひとまず話を聞こうか。全てはそれからだ」
やっと絵が喋ったのだから、無視するわけにもいかない。私はこいつを喋らせるべく日々料理を作り、食べさせてきたのだから。
それに美味いものを見せつけた後で食事抜きという目に遭わせたら喋るのではと考えたのも、私自身である。
気を抜くと閉じてしまいそうな両目をなんとかこじ開けて、絵から生えているハイエルフを眺める。ハイエルフは切羽詰まった様子で口を開いた。
「バクさん、私まだお夕飯いただいてないんですけど! お夕飯をいただけないでしょうか!」
ハイエルフの目は真剣そのものだ。こいつは大真面目に夕食を欲している。
「絵も空腹を感じるのか?」
「いえ、それは……絵なので、空腹は一切感じないです」
だろうな。食事が必要なのだとしたら、私に絵を預けに来たオリバーが絶対になにか言っている。
ハイエルフの細長い耳が困ったように下を向いたが、すぐに元気にぴょこんと跳ねた。拳を握り、力強い視線を向けてくる。
「でもバクさんは今まで毎日美味しいご飯をくれました! それなのに今夜はお店でなんだか美味しそうなものを食べてたのに、くれなかったです……。お店の料理をとは言いませんが、せめていつもみたいに美味しいご飯ください! ご飯! ごーはーんー!」
このハイエルフ、空腹を感じないくせに食事を欲してうっすら涙まで浮かべているぞ。ハイエルフというと天に届きそうなほどプライドが高いという印象を持っていたのだが、人前で食事をねだって泣くこともあるのか。
私が思い込んでいたよりも、ずっと親しみやすそうな種族かもしれない。
まあ、個人差という可能性はあるのだが。
「食事を出せと言われても、今は真夜中だ。空腹を感じないというのなら、朝まで待てないか?」
「待てません!」
相変わらず勢いよく即答しながら、ハイエルフは言葉を続けた。
「バクさんがくれるご飯は、毎日の楽しみなんです。我慢なんてできません。私をこんな体にしたのはバクさんなんですから、ちゃんと責任とってください!」
ハイエルフがその白い頬をぷくっと膨らませる。
「人聞きの悪いことを言うな。そもそもきみは今までどこかで食事をもらっていたのか?」
「いえ、全く。私に食事をくれたのは、バクさんが初めてです」
「だったら我慢できるだろうに。私がきみを預かる以前の暮らしに戻るだけだよ」
「無理ですっ!」
ハイエルフがぶんぶん頭を振る。肩に届くくらいの蜂蜜色の髪がばさばさと広がり、私の鼻先をかすめた。その刺激についくしゃみをしてしまう。
「いいですかバクさん? お夕飯は夜食べるからお夕飯なんです。夜のうちに、今夜のお夕飯をくださいっ」
「もう夕食ではなく夜食の時間だよ。諦めたまえ」
「夕食の後に食べるのが夜食です。つまり夕食を食べないうちは、夜食は永遠にやってきません」
ハイエルフが当然といった様子で力説しているが、単に驚くほど食い意地が張っているやつの言い分にしか聞こえないのはなぜだ。
本来であればやっと絵が喋ったのだから美味いこと誘導して夢喰いの話を済ませるべきだ。
そうは分かっていても、なんだか相手をするのが面倒になってきた。
こいつが喋るのは確認したんだから、また後で喋らせたらいいか。これだけ食い意地が張っていれば、食べ物で釣れば喋る気がする。
よし、寝よう。
睡眠欲のままに瞳を閉じる。
「バクさん寝ないで! 起きてくださーい!」
ハイエルフの甲高い声がぎゃんぎゃん響いているが、眠れないことはない。先ほどの耳元でさわさわした声よりも無視しやすいくらいだ。
それに眠るのは得意だ。任せて欲しい。
「ご飯くれるまで諦めませんからね! ずーっとずーっと叫びますよ!」
ゆっくり呼吸を続ければ、ふわふわとした心地よさが私を包み始めた。徐々に眠りの海へと沈んでいく。
もう少ししたら、このやかましい声の届かぬ場所へと行ける。
そう思ったのだが。
「バクさーん! 起きて! ごーはーんー! ご飯くださーい!」
あろうことか、なんとハイエルフは私の頬をつねった。
強制的に眠りの海から引きずり戻されただけではなく、それまで私の中に漂っていた眠気が全て吹っ飛ぶ。
「おいおまえ!」
飛び起きた私の前で、ハイエルフがビクッと肩を震わせる。バクの金の瞳に怯えたと思える。しかしこいつが恐怖を味わおうと、私には関係ない。
「私がもっとも嫌いなのは、寝室での睡眠を邪魔されることだ! 分かったら二度と邪魔をするな! 次は灰も残らぬほど焼き尽くすぞ!」
預かった絵だなんて知ったことではない。たいたいオリバーは勝手に置いていったのだ。私が責任を持つ必要など最初からない。
むしろ既に一度起こされているのだから、今すぐにでも焼き払ってしまいたい。
殺気立つ私の前で、絵から生えたハイエルフはがくがくと震えていた。こいつにも血の気というものがあるらしい。元々色白ではあったハイエルフだが、血の気がすっかり引いてしまったその顔は、まるで紙きれのようだ。
「あの、ごめんなさい。そんなに怒ると思わなくて。その、ちょっと冗談で」
「きみは冗談で真夜中に他者の頬をつねって無理矢理起こすのか? 自分がされて不快に思わないから私にしたのだな?」
「ごめんなさい」
これ以上向き合っていても、ハイエルフは「ごめんなさい」としか口にしないだろう。お互い無駄な時間を過ごすだけだ。
「夕食が食べたいと言っていたな。いいだろう、食べさせてやる」
私はベッドから抜け出ると、固定魔術を解いて絵を部屋から持ち出した。
「バクさん、私ご飯いらないです! だからひどいことしないで!」
「遠慮するな。好きなだけ食べるといい」
大股でキッチンに向かい、ランプに火を灯す。ぼろぼろと涙を流すハイエルフが生えたままの絵は、食卓の椅子に魔法で固定した。
相変わらずハイエルフはなにか喋っているが関係ない。人を無理矢理起こすほど夕食が食べたくて仕方ないというのなら、食べさせるまでだ。
キッチンに入り鍋で湯を沸かす間に、野菜を入れているカゴからカリフラワーを取り出す。切り分け終わる頃には湯が沸騰していたので、塩を入れてカリフラワーを茹でる。
絵に食事を与えるようになってから普通のチーズを買っておいたので、カリフラワーの茹で上がりを待ちながらたっぷりすりおろす。怒りというものは寝起きの体でも爆発的な力を発揮させるようで、チーズはすぐに粉雪のような姿へと変わった。
まだ少し時間があるので、赤唐辛子を細かく刻む。
柔らかく茹で上がったカリフラワーの水気を切り、ボウルに入れて形がなくなるまで潰す。フォークで潰せるほど柔らかなカリフラワーに怒りをぶつけてしまったが、そのおかげでカリフラワーは綺麗に潰れた。
潰し終えたカリフラワーに、たっぷりの粉チーズに溶き卵、パン粉、それから赤唐辛子を少し入れる。よく混ぜてタネを作ったら、フライパンにオリーブオイルを多めに入れて温め、揚げ焼きにしていく。
こんがりと焼けたら、フリッテッレの完成だ。
「熱いから気をつけて食べろ」
皿に山盛りにしたフリッテッレを、ハイエルフの前に置く。ハイエルフがおどおどとした様子で、私とフリッテッレを交互に見た。
「バクさん、これ」
「きみが夕食を食べたいと言ったんだ。残さず食べるんだな。……ああ、毒なんてくだらんものは入れていない。安心しろ」
洗い物をする為に、キッチンへ戻る。暫くして聞こえてきたのは、
「もっちもちのふわっふわで、すっごく美味しいです!」
そんなハイエルフの弾んだ声だった。
大きなカリフラワー一株を使ったからかなりの量があったにもかかわらず、私が調理器具を片づけている間にハイエルフはすっかり食べ尽くしてしまっていた。様子を見るべくテーブルに戻った私が見たのは、口の周りを油でテカテカにしながら幸せそうに微笑むハイエルフだ。
揚げ焼きの油分を気にする気配がないということは、こいつが食べられるものはけっこう幅広いのかもしれない。
「バクさん、ごちそうさまでした! とっても美味しかったです!」
「それはなによりだ」
空になった皿を回収して洗い、明かりを消して絵を持つ。空腹にならないからには満腹にもならないのだろうが、さすがにこれだけ食べさせておけば、ハイエルフも朝までおとなしくしていると思う。
「あの、バクさん」
寝室まで歩く間に、ハイエルフが声をかけてきた。
「どうしてご飯を作ってくれたんですか?」
「食べさせろと騒いだのはきみじゃないか」
「それはそうなんですけど」
なにか言いたげなハイエルフの絵を寝室の椅子に固定して、私自身はベッドに潜る。ああ、やっと眠れる。
寝心地のいいベッドで目を閉じ、ゆっくり呼吸をして意識を鎮めていく。
今度こそ私は、快適な眠りの海へと沈んでいったのだった。
更新再開は3月23日(月)の0時更新分からです。よい三連休を!




