第百十一話
料理をしながら一瞬目を離していただけでオムレツを完食した絵だ。なにか起きては困ると思い、私は常に絵をそばに置くよう心掛けた。食事中、睡眠中、仕事中。全ての時間において、私のそばにはハイエルフの絵があった。
さすがに浴室の湿気にあてるのはよくないと思い、入浴中は浴室のすぐ外に置いているが。
ああそれからトイレもだ。生きている絵に用を足しているのを見られるのは耐えられないので、外に置いた。
もちろんただその場に置いておくのは不安だったので、絵をどこかに置くときは必ずその場に固定する魔術をかけた。これさえかけておけば侵入者が絵を盗むことも、絵がひとりでに動いてどこかへ行ってしまうこともない。オリバーは絵が動くとは言っていなかったが、念には念をというやつだ。
絵の態度は相変わらずだ。私の目を盗んで、目の前に置かれた料理を食べる。おかげでまるで懐かない動物を飼っているような気分を味わえた。
絵を預かってから五日が過ぎたが、いまだ絵は喋らない。
ちなみにオリバーが言っていた悪夢は私も見た。どす黒い大小の腫瘍だらけの生き物が、何事かを呻きながらしがみついてくるといった悪夢だ。一匹や二匹ではない。闇の中から湧き続けて、視界がそいつらでいっぱいになるほどだった。
これでは客の手元に絵として戻されても、処分されるのは時間の問題だろう。
それも哀れに思うし、夢喰いをしなければ永遠にこの絵と暮らさなければならない私もかわいそうで仕方ない。
そう、困る。
なにが楽しくてこんな厄介な絵の世話をしないといけないんだ。
そんなわけで、私は次の手段へと出た。
***
「エルクラートさん、それは?」
「モンテッサンの絵の具で描かれた絵だ」
「へえ、これが」
持ち出した絵と共に訪れた金の小鹿亭。カウンター席に腰かけた私の隣に置いている絵を、マルセルが珍しそうに覗く。
「魂が入ってるといっても、見た目は普通の絵なんですね。もっと生々しい質感があるのかと思ってました」
「画家の作風次第かもしれんがな」
モンテッサンの絵の具は、作風によって効果が変わりはしない。極端な話、幼児の落書き程度の絵でも効果を発揮する。
「エルクラートさん、絵画がお好きだったんですか」
マルセルの言葉に、私は首を横に振った。自宅にも絵は飾られているが、それは私が買ったものではない。私が持つ記憶の遺産を作り上げた先祖たちの中の誰かが買ったり、譲り受けたりしたものだ。
私は絵を見て「綺麗だ」といった並の感想は出てきても、「なんとか派の特徴を受け継いだ画家の誰それさんらしい作風で云々」という詳しい話はまったくできない。
「この絵は預かりものだよ。事情があって、こうしてそばに置いておく必要があるんだ」
「おやまあ。まるで子守りみたいですね」
「そんなものかもしれんな」
外出の際も絵を持ち運びしているのだから、たしかに子守りに近い気がする。いつものオニオンスープを用意してくれたマルセルに、そんな返事をした。
もっとも、今夜絵を持ち出したのは単に監視する目的以外もあるのだが。
「今日はなんにしますか? いいヒラメが入ってますよ」
「それなんだが」
マルセルに薦められたヒラメに惹かれる心を制して、言葉を続ける。
「今日のメニューで、エルフが好みそうなものはあるか?」
「エルフですか? そうですねえ……」
マルセルはそんな言葉を漏らしたが、言うほど悩みはしなかった。ほとんど待たずに答えが返ってくる。
「それならアマエビはどうですか? うちに来るエルフのお客さん方はアマエビ好きな方が多くて、よく食べるメニューがあるんですよ。作りましょうか?」
「頼むよ」
「任せてください」
自信満々の笑みを浮かべると、マルセルはカウンターの奥にあるキッチンへと消えていった。
マルセルを待つ間、普段なら彼の飼い猫である茶トラの大きな老猫に「そのつまみに入っている魚をよこせ」と迫られる。しかし今日の老猫はおとなしい。二等辺三角形の耳は隙なく店内の様子を窺っているものの、カウンターの端でうずくまったままで動く様子はない。
それもそのはず。
今日マルセルが用意してくれたつまみは、老猫が愛するような魚料理ではない。
牛モツの煮込みだ。
寒い時期になるとマルセルが作る牛モツの煮込みは唐辛子をたっぷり使っているが、ただ辛いばかりではない。
タマネギやニンジン、冬トマトがたっぷりのソース。
丁寧に下処理をされてまったく臭みのない、ぷりぷりの牛モツ。
ソースと牛モツの味をひとつにまとめるミックスハーブの風味。
そして、酒が欲しくなる絶妙なニンニクに、アクセントのキリッとした辛味。
つまみとして出されるものなのに、おかわりしたくなるくらい美味いのだ。
昔どうしても我慢できず、マルセルにこの牛モツ煮込みでパスタを食べたいとねだったことがある。あれは最高の体験だった。旨味を限界まで閉じ込めたようなソースがもちもちのペンネに絡んで、いつまでも食べていたくなるくらいだった。たまに思い出しては、うっとりしてしまう。
ああ、思い出したら余計に腹が減ってきた。
今冬も食べられることに感謝しつつ牛モツ煮込みを口にして、感動で心がじんわり震えた。美味い。パスタが欲しい。パンじゃ足りない。パスタでがっつり味わいたい。
モツ煮込みをじっくり味わってから、オニオンスープを一口。今夜も雪がちらついているので、スープは熱々だ。ふうふうと息を吹きかけて飲めば、丁寧に作られたコンソメととろけるタマネギの甘味が、温もりとともに体の奥に染み込んでいく。
幸せすぎて、私もとろとろタマネギのようにとろけてしまいそうだ。
今夜も来てよかった。
そうやって心身を満たす幸福感に包まれながら、のんびりとオニオンスープを完食した頃。
キッチンにこもっていたマルセルが戻ってきた。待っていましたと言わんばりに、カウンターの端にいた老猫がむくりと起き上がる。たぶんこいつは、さっき私とマルセルがアマエビの話をしていたのを理解している。
「お待たせしました。アマエビのカルパッチョです」
マルセルが提供してくれた一皿は、セルクルを使ったようでアマエビが美しい円柱を形作っていた。淡い色合いのアマエビにはピンクペッパーとハーブがちりばめられていて、華やかだ。皿に敷かれたソースは透明感のある黄色で、爽やかなオレンジの香りが漂っていた。
「では、さっそく」
香りからして爽やかそうなソースと共に、アマエビを口に含む。
軽い塩気とともに、オレンジの香りが口の中に広がった。ソースは果汁を煮詰めたものではなく、絞った果汁をオリーブオイルに混ぜたものらしい。オレンジの瑞々しい風味が、とろりとしたコクのあるアマエビによく合う。
後味は心地よく、次の一口が欲しくなった。これは美味い。
「エルクラートさん、次もビールでいいですか?」
「いや、白ワインが欲しい。任せてもいいか?」
「ええ。ちょうどいいのがありますよ」
ビールを飲み干した私の前でテキパキとワインを用意してくれながら、マルセルが口を開く。
「エルフのお客さん方はとろっとした食感が好きで、生のアマエビが人気なんですよ。温かいものを食べるときは、卵料理ですね。卵を半熟で仕上げて欲しいという方が多いです」
「なるほど。とろっとしたものか」
絵に卵料理は毎日与えていたが、とろみのある食材はほとんど与えていなかった。アマエビか。市場で簡単に手に入るものだから、与えてみるか。卵料理ももう少しゆるめに仕上げた方が絵の反応を引き出せるかもしれない。
マルセルのおかげで勉強になった。
そんなことを考える私の視界の中で、動く影がひとつ。
「だめだ。きみにはやれん」
「なあおう」
姿勢を低くしてそろりそろりと皿に歩み寄っていた老猫を押さえる。ちょっと太めの前肢を伸ばしてじたばたあがく姿は愛らしいものだが、だからといってお裾分けというわけにはいかないのだ。
オレンジが使われたソースに、エビ。
猫が死に至る可能性があるものがたっぷりの料理なのに、ほいほい食べさせるわけにはいかない。
「ありがとう、いい勉強になったよ」
「いえいえ。エルクラートさんの彼女さんって、エルフだったんですね」
違う。私はエルフと付き合った経験なんてない。しかしマルセルはいい情報を得たとばかりに、丸い顔に満面の笑みを浮かべてとても楽しそうだ。
「うちに彼女さんを連れてくるときは、事前に教えてください。アマエビと卵、たっぷり用意して待ってますから」
「その予定は永遠に入らないから、安心して通常営業に励んでくれ」
マルセルの勘違いをしっかり否定すれば、別の質問が飛んでくる。それが分かっていたから、私は彼の言葉を軽めに受け流した。
そんな私が押さえつけていた老猫が、ぬるりと抜け出して床に降りる。
ピンと尻尾を立て、まあるい尻をもちもち揺らしながらテーブル席の方へと向かう老猫。ダイエットをやめた影響か少々サイズアップした気がする後ろ姿は、絶対に客から魚が貰えるという自信に満ち溢れていた。




