第百九話
私の言葉を受けて、オリバーは疲れた様子で語り出した。
「この絵の魂抜きにとりかかるようになってから、悪夢を見るんだ。夢の内容はいつも同じ。体中気味の悪い腫瘍だらけのやつらが、俺にまとわりついてくるんだ。逃げても、あいつらはあらゆる場所から出てくる」
オリバーが深いため息を漏らした。
「そんなだから寝不足でな。仕事中も居眠りしては同じ夢を見て、どうしようもないんだ」
そう言って、すぐにため息をつく。オリバーがここまでまいっているのは初めて見た。
「その悪夢が絵のせいだとして、なぜ喰らうのがきみの悪夢ではなく絵の悪夢なんだ?」
「この絵自身が、悪夢は己のせいだと言ったんだ」
絵が喋っただと? 寝不足が続いて幻覚でも見始めたのかと疑ってしまったが、そうではなかった。
「魂が抜けないんだよ」
オリバーの声が震えている。
「この絵はただ魂を塗り込められたものなんかじゃない。意志あるものとして生き、魂を抜かれるのを拒否している」
モンテッサンの絵の具で描かれた絵画は一時的に温もりを持つが、それだけで『絵が生きている』とは言い難い。なにより意思を持った絵が存在するなんて話は、私の記憶の遺産にも見当たらない。
だがオリバーも、職人通りでは古参の魔道具職人だ。その豊富な経験があるのだから、見当違いの話をする確率は極めて低い。
「オリバー。きみほどの職人が『魂が宿っている』というくらいなのだから、他にも理由があるんだろう? 聞かせてくれ」
「……絵に塗り込められた魂を量ってみたら、約六百年分の魂が残っていると分かったんだ。モンテッサンの絵の具でそんなに大量の魂を塗り込めた絵なんて、見たことも聞いたこともないからな。何かの間違いかと思って何度か量り直したよ。だがその結果はどれも同じだ。間違いない」
オリバーがごくりと息を呑む。
「この絵には約六百年分の魂が宿っていて、描かれているハイエルフは絵の中で生きているんだ」
「それはもう魂抜きを諦めた方がいいと思うんだが」
オリバーのもとに絵を持ち込んだのがどんな客かは知らないが、魂を強引に抜いて六百年の寿命が残っている者を殺そうとするやつはそういないと思う。
私の言葉に、オリバーはゆっくりと頷いた。
「もちろん魂抜きの依頼は断るつもりでいるが、その前におまえさんにこの絵の悪夢を喰らって欲しいんだ」
オリバーの依頼を断れそうだと思ったのは、私の気のせいだった。私の気持ちを知ってか知らずか、オリバーは話を続ける。
「こいつが言うことにはな、俺に悪夢を何度も見せているのは本意ではないそうだ。こいつ自身が悪夢を見続けていて、それが俺に影響してしまっているんだとさ」
モンテッサンの絵の具の魂抜きについて詳細は知らないが、根の深い悪夢を見ている者から影響を受け、同じ悪夢を見るようになったという話はたまにある。
悪夢はそれを見る時間の長さに比例して存在が膨らみ魂を浸食するのだが、ドワーフやエルフといった何百年も生きる長命な種族の場合、長い間見続けた悪夢が膨みすぎて本人の中に収まりきらなくなり、周囲に影響を与えてしまうのだ。
「こいつを客に返したところで、客が俺のように悪夢を見始めるのも時間の問題だ。そうなれば最悪、こいつは焼き捨てられる可能性だってある。これだけのいい絵だ。せっかくなら大事にしてもらいたいなと思ってな」
絵に塗り込められた人物が不憫だからとかそういう理由からではなく、素晴らしい絵が世から失われるのを嘆くオリバー。実にドワーフらしい感性だ。彼のそういうところは嫌いではない。
「というわけでだ、エルクラート。こいつの悪夢を喰らってくれ」
「待てオリバー。大事なことを忘れている」
「なんだ?」
「夢喰屋は、第三者の言葉で夢喰いをしない。この絵の悪夢を私が夢喰屋として喰らう為には、絵自身が夢喰いに了承しなければならないんだ」
「それなら心配せんでいい」
オリバーが即答する。
「おまえさんに暫くこいつを預ける。そのうち喋るだろうから、了承を得てくれ」
「なんだと?」
「噛みついたりはしないから安心しろ。頼んだぞ」
そう言って、オリバーは絵を差し出してきた。
うわあ、持ちたくない。六百年の命を宿して悪夢を見ている上に喋る絵なんて、受け取りたくない。
光というものを描ききった絵は見事な出来栄えだ。それを大切に扱ってもらうために悪夢を喰らってやって欲しいというオリバーの気持ちも分かる。だが面倒事に巻き込まれるのを承諾できるかというと、それはまったくの別問題である。
だがオリバーはもう私に任せる気満々のようだ。受け取りをためらう私の気持ちなんて置き去りにして、オリバーはロッキングチェアから立ち上がる。彼がいなくなった椅子には、件の絵だけが残されていた。
「それじゃあ頼むぞ、エルクラート」
「おい待て、うちは料金前払いだぞ」
「本人から夢喰いの承諾が得られていないじゃないか。そいつとの話がまとまったら、あとで金額を教えてくれ」
ポールハンガーから回収した黒い外套を羽織り、オリバーがさっさと店を出ていく。ドワーフは体型こそずんぐりしているが、筋肉質な彼らは基本的にとても機敏だ。のんびり屋が多いバクの私が止める間もなく、オリバーは風のように店を出ていってしまった。
静かになった店内で、ロッキングチェアに置かれた絵を覗き込む。どう見てもただの絵だ。喋る気配もない。
なにかと世話になることの多いオリバーの頼みだからどうにかしてやりたいという気持ちはあるのだが、いったいどうしたものか。絵と会話なんてした経験がないから、今の私の胸中は戸惑いやめんどくさいといったものばかりが渦を巻いている。
この絵はどう扱ったら喋り出すんだ。
悩みながら持ち上げた絵は、自分は生きているのだと主張するように人肌の温もりを宿していた。
***
「きみは肉も食べられるのか?」
夕食を作ろうとキッチンに立ち、そんな問いをする。問いを向ける相手は、食卓に備えつけの椅子に置いたハイエルフの絵だ。
うん、自分でもちょっと馬鹿じゃないのかとは思う。
しかし喋ってもらわないと困るのだ。会話が成立しなければ、夢喰いの了承を得られない。そうなれば、私はいつまでもこの絵と暮らさなければならない。
そう、悪夢を見せてくる絵とずっと一緒に暮らすのだ。
嫌すぎる。
早くオリバーに返してしまいたい。
そんなわけで、私は己に半ば呆れながらもこの行動に出たのだ。
「まったく食べられないのか?」
森に棲むエルフたちも肉は食べるのだが、彼らはどちらかというと野菜が好きである。
だがハイエルフは普通のエルフたちと同じ食事でいいのかというと、私もそれは分からないのだ。聖域に実っている木の実しか口にしないとも、そもそも食事らしい食事をしないとも言われている。もしそんな説が真実ならば、食べ物で釣って喋らせるという私の作戦は完全に失敗だ。
耳を澄ませてみるが、絵が喋る様子はみじんもない。魔法で呼び出した温風が循環している室内ではランプの灯がふわふわと揺れるばかりで、私以外の生命の気配は存在していないように感じられた。
もしかしたら、借りてきた猫のようなものかもしれない。
突然知らない場所に連れてこられて、警戒しているから喋り出さない。それは充分に考えられた。
ならば、まずはここが安全な場所であるとアピールする必要がある。
「嫌いなものがあったら、早めに教えてくれ」
聞こえているのかいないのか分からない絵にそう言葉を投げると、私は調理にとりかかった。




