第百七話
「エルクラートさん、昨日はどこかへおでかけだったんですか?」
「うん? うん、ああ、そうだな。ちょっと友人のところへ行っていた」
ビールを注いでくれたマルセルに、そんな返事をする。
「店に来たのか?」
「ええ。またそのうち行かせてもらいます」
「待っているよ」
マルセルはうちの店の常連だ。なんでも私の夢喰いは肩こりに効くそうで、夢喰屋に用事があるときはうちに来てくれていた。
ギヴンのシチューはたしかに美味かったが、ああいうものを食べるとなぜかマルセルのオニオンスープが恋しくなる。
そんなわけで、本来の一日の仕事を終えた私は金の小鹿亭へと来ていた。
夜は一枚羽織りたくなるようなひんやりとした風が吹くので、少し熱めで出されたオニオンスープがとても美味い。くたくたのタマネギと一緒に、私まで溶けてしまいそうだ。もしもそうなったら、それはそれで幸せそうではある。
「ところでマルセル」
「なんでしょう」
「あいつはいったいどうしたんだ?」
私の言うあいつとは、カウンターの端でこちらに背中を向けて丸くなっている大きな茶トラの老猫だ。魚が大好きなこの猫は、いつもなら魚料理を恵んでくれる客はいないかと、カウンターから店内を観察している。
もちろん私が魚料理を頼めばそばに来て一口くれとせがむし、マルセルが用意してくれたつまみが魚料理ならそれまで欲しがる。
ちなみにあげたことは一度もない。
絶対にだめだ。マルセルの料理はとても美味いが、酒飲みが食べる為の味つけがされている。猫の体にいいわけがない。
そんな私にマルセルが出してくれた今日のつまみは、サーモンのマリネ。つやつやのサーモンの切り身は、老猫が思い切り欲しがりそうな類のものだ。
それなのに。
老猫はこちらを見向きもせず、カウンターの端で大きな毛玉を演じている。
「ああ……」
マルセルが沈んだ声を出した。
「ダイエットの為におやつを減らしてるって、夏頃から言ってたじゃないですか」
「言っていたな」
あの老猫用にサバの水煮という裏メニューが存在していたと、あのとき初めて知った。だからダイエットの話はよく覚えている。
「お客さんたちも協力してくれたおかげで少しばかり痩せたのはよかったんですけど、今度は先週あたりからああやっていじけるようになっちゃったんです」
「……マルセル、なにか魚の水煮を作ってくれないか。私のおごりだ。あいつにやってくれ」
「ふえっ」
マルセルが素っ頓狂な声を上げた。そりゃあそうだ。私があの老猫に今までなにもあげたことがないのを、彼も知っているのだから。
カウンターの端に鎮座する毛玉に生えた一対の耳が、きゅっと鋭い動きでこちらに向けられる。以前から思っていたが、おそらくこの猫はある程度魚についての話を理解できる。
「エルクラートさん、本気ですか?」
「本気だ。いつもやかましいほど魚をせがんでくるやつにああやって毛玉のふりをされていたのでは、気持ち悪くて落ち着かん。あいつがストレスで体を壊す前に、なにか魚を食べさせてやってくれ」
マルセルの表情がきらきらと輝く。たぶん今頃、壁に向けられた老猫の顔もきらめいている。
「ありがとうございます、さっそく作ります! あっ、エルクラートさん。今日の料理選びは俺に任せてください。とっておきのを作るんで! 大丈夫、うちのおごりです!」
弾けるような元気のある声で言うと、マルセルは残像が残るんじゃないかと素早さでひゅっとキッチンに引っ込んでいった。
本当はマルセルも、愛猫を甘やかしたかったんだろうな。分かる。猫は可愛いから、つい甘やかしたくなる。まして共に暮らしていれば、その愛情は私が想像もできないほど強いのだろう。
ペットの死に関する悪夢を食べて欲しいという客はたまに店を訪れるが、誰もがその存在を忘れないように、苦しみが和らぐ程度、ほんの少しだけ悪夢を食べてくれればいいと口にする。マルセルにとってのこの猫も、きっとそういう存在だ。
なにやら視線を感じるなと思えば、いつの間にか老猫は私の方へと向き直っていた。まるで子猫のような顔をして、くりくりとした丸い目で私を見ている。
「なんだ。なにか言いたいのか」
魚に関する言葉以外は分からないだろうなと思いつつも話しかけてみれば、
「みゃおう」
老猫はどっしりとした体に似合わぬ愛らしい声でひと鳴きした。
まさか、礼を言っているのか?
いや、まさかな。
でも、このタイミングでの返事だ。もしかしたら本当にそうなのかもしれない。
私は猫語が分からないし、この老猫だって人語を完全に理解しているわけではない。それでもなんだか言葉が通じているような気がして、つい話しかけてしまう。
「今日は特別だ。次はないからな」
「みゃあん」
甘えた声で返事をする老猫の姿に、少しばかり笑いがこぼれた。




