第百六話
「ああもう、ほんと酷い目に遭ったわ」
私が旅立ちの日に贈った懐かしい旅装束姿で、クーアが大きく息をつく。相変わらず小柄だが、これでも彼女にかけられた魔法はちゃんと解いた。
魔術空間の中で食べた夕食は子供の体に合わせた量だったので、体が元に戻ったとき真っ先に感じたのは、服がビリビリに破けた羞恥心よりも空腹感の方が大きかった。
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私たちがいた廃墟はどこか小山の上だったのだが、とてもではないが真夜中に見知らぬ山を下山する気にはなれない。そんなわけで私が作った魔術空間の中で朝になるのを待ち、下山してきたところだ。
ラッテの中から出てきたのは、私たちだけではなかった。ギヴンたち使用人も誰一人欠けずに出てきた。仲間意識があるわけではないが、さすがに山中に捨て置いたりはせず、共に私の魔術空間で過ごして下山してきた。
ラッテという魔術空間の中から出てきたのは、人だけではない。皆の私室に保管されていた各々の持ち物も無事に出てきた。キールとクーアが持っていた旅の荷物も無事だ。ラッテが捕らえた者たちの私物を処分しなかったのが幸いである。
もちろん私の服もあったので、もう破れかけのパンツ一枚きりの姿ではない。
皆にかけられていた子供になる魔法を解きながら話を聞いたところによると、ラッテに捕まえられた年代は、見事にばらばらだった。私たちのように最近捕まった者はまだいいが、ギヴンのように三十年も前に捕まった者となると、世の中や近しい者がかなり変化していて暫くは戸惑いの日々だ。
それでも皆がそれぞれ周囲を頼るなりして、どうにかしていくしかない。
それに苦労は多いかもしれないが、あの魔術空間で自分自身についてもよく分からないままこき使われ続けるよりはましだと思う。これからは毎晩シチュー以外のものが食べられるのだ。
麓の村に到着して、下山パーティは解散となった。
「ここまで来れば、もう大丈夫そうだな」
「おう。エル、ありがとな」
朝市の入り口で確認すれば、キールが私のよく知る微笑みと共に頷く。私が彼を助けた礼なんて、その程度で充分だ。私はキールが無事であればそれでいいのだから。
「クーア」
「なあに?」
帰還魔法を使う前に確認しなければならないことがある。焼きたてのパンの匂いにでもつられたのか周囲をきょろきょろと見回していたクーアに声をかけた。私を見てくれる彼女の顔はフードでほとんど視認できないが、クーアは透視魔法で私をちゃんと見ていると思う。
「私と一緒に帰るか?」
本当ならば、キールとクーアがその足でイリュリアに辿り着いてくれるのが旅の終わりとしては理想である。だがそれは、私が勝手に思い描いているだけのものにすぎない。
それにクーアも、手紙には綴らなくても本当は旅が辛いと感じているかもしれない。もちろんそうではない可能性も同じくらい存在している。
だから私は、彼女に直接確認した。
私の前で、彼女がすぐに口を開く。
「ううん、まだキールと旅をするわ」
強がっているふうでもなく、実に自然なあっさりとした口調で、クーアははっきりと言った。
「もっと色々なものを見て、経験を積んで、それからあなたのところに帰る。あたしがあなたと暮らす為には、それが必要だから」
「ほう?」
「だからエル、あの家であたしをちゃんと待ってて。あたしは必ずこの足で、あなたのところに帰るわ」
フードから覗くクーアの口元は微笑んでいた。傷ついた獣のような強がりを見せていた頃とは、雰囲気がまったく違う。もちろん世間を知らぬ小娘の舐めくさった態度でもない。
もっとしなやかな、惚れ惚れとする美しい強さがそこにはあった。
「分かった。ならば気を付けて行け。拾い食いはほどほどにな」
「拾い食いなんてしてない!」
飛んできた鋭い蹴りをかわし、帰還魔法を発動させる。
「ではな」
クーア自身が決めた道なのだから、どんなものよりもそれが一番いい。
我が家の寝室へと導いてくれる魔力の渦に、私は身を任せた。
***
帰宅して最初にしたのは、バクのローブをクローゼットに戻すこと。
次にしたのは、キッチンで毎朝の紅茶を淹れることだった。
丁寧に淹れた紅茶に垂らすのは、虹色の蜂蜜のような猫の悪夢。ティースプーン一杯を垂らせば、ほろ苦いカラメルのような香りがふわりと広がった。
数日家を空ける場合、私は茶葉と猫の悪夢を必ず持ち出す。けれども今回はまさかこうなるとは思わなかったので、猫の悪夢入り紅茶の香りがとても懐かしい。
さすがに昨晩から空腹だったので、紅茶だけでは全然足りない。
ブレッドを切り分け、チーズもどきな人間の悪夢を乗せて、塩コショウを振る。魔法で呼び出した火で炙ってから、本物の蜂蜜をかけた。
もうすぐ読み終りそうだった旅行記をお供に、誰のリズムにも合わせなくていいのんびりとした朝食を愉しむ。私はとてもマイペースなので、集団生活には向かない。
朝食を終えると、家の裏口に配達されていた牛乳を回収して食糧保存庫に入れた。暑い盛りでなくてよかったな。おかげで牛乳を傷ませずに済んだ。
またゆるゆると眠気がこみ上げてきたので、寝室へと向かう。こだわり抜いて購入した寝心地のいいベッドに潜ると、私はすぐに夢を見始めた。
夢の中で私は、庭のネムノキによりかかってうとうとしていた。春のように柔らかな風が頬を撫でる。さわさわと揺れる枝葉の音が心地いい。
それだけならよく見る夢なのだが、今日のネムノキは少し違った。
ほんのり温かいのだ。
くっついていれば、まるで誰かに優しく抱かれているような安心感を覚える。
ふと、誰かの声が聞こえた気がした。私を愛称で呼んだようなその声に、目を開ける。見回してもそばには誰もいない。けれども私の心をぽっと温かくしたその声の主は、とてもそばにいるような気がした。
きっとこうしてネムノキのそばにいたら、また名前を呼んでもらえる。
そんな期待を胸に、私は再び目を閉じた。




