第百五話
すっかり魔術空間が消え去ると、周囲の光景はとたんに古びたものになった。
倒れていたメイド姿のラッテが、さらさらと崩れ始めた。あっという間に崩れて、砂の山になる。魔術空間が壊れるほどの衝撃に耐えられなかったのだ。彼女がまた誰かをあの場所に引きずり込むようなことはもうない。
「ラッテ、ラッテ! おいラッテ!」
開きっぱなしのドアの向こうから、イオリのそんな声がかすかにしていた。その声に苛立ちを覚える。
部屋の中央の泉を見る。枯れ果てたそこには、イオリのせいで死んでしまったリヴィーの皮があった。それを拾い上げ、部屋を出た。
地上に出ると、そこは私が予想していたとおりあの廃墟だった。星空の下、魔術空間から追い出されたイオリがラッテを呼び続けている。
「イオリ、リヴィーの死体があるぞ」
私の声に、イオリの声が止んだ。
「おまえのせいで死んでも自然に還れず、ただの皮になってしまった哀れなリヴィーだ。見るといい」
持ち出したリヴィーの皮を広げ、幹に浮かんだイオリの顔に見せつける。
「これのどこが『眠っているだけ』なんだ。ウンディーネが本来住まう魔力が豊富な清流の一滴すらないこの場所で、どうやったら彼女がよみがえるんだ?」
「貴様がラッテを壊さなければ、私が蓄えた魔力で彼女を満たせるはずだったんだ! そうすれば、いつか彼女はっ」
「それはいったいいつになるんだ。おまえが木になってラッテの中に引きこもってから、少なくとも八十年は経っているぞ」
「……八十年、だと?」
イオリの声が弱々しい。
ドリアードは木だけあって、環境さえよければひとつの個体が何百年も生きる精霊だ。そんなドリアードの体を奪い時の流れから隔絶された魔術空間で暮らしていたイオリの時間感覚は、相当狂ってしまっているようだ。
ちなみにウンディーネはというと、その命は循環する水のごときものである。短命だが何度も生まれ変われるのだ。
イオリが恋したウンディーネの寿命など、最初から短かったのに。
それなのにこんなところに閉じ込め、生まれ変わりすらさせないとは。鬼畜にもほどがある。
「おまえが体を横取りした精霊がドリアードでよかったな。その体があれば、切り倒されないかぎり何百年もここで孤独を味わえるぞ」
「待って、ちょっと待てバクの少年。分かった。もうリヴィーをよみがえらせようとは考えない。だからラッテを修理させてくれ」
「そのラッテなら」
イオリの言葉をさえぎったのは、キールだった。
「さっき砂になったよ」
キールの言葉に、イオリはただ言葉にならない細い呻きを漏らすばかりだ。
イオリの樹皮に右手をかざし、くるくると反時計回りに回す。取り出す夢の種類はあまりにも多すぎるが、イオリが枯れると困るのでからっぽにはしない。生き続けて、いつか他人の都合で命を奪われる理不尽な最期を味わわせたいと私が願うからだ。
私は絶対的な正義を常に振りかざす権利を持つ者ではないが、それでもイオリがのうのうと生きるのは許しがたい。なんの罪もないウンディーネの命を永遠に奪ったイオリには、苦しんでもらわないと気が済まなかった。
「キール。夢を取り出す間私を守ってくれ。私のローブをクーアが持っているから、それを盾代わりにするといい。反射魔術をかけてある」
「あいよ」
抵抗するイオリがしょぼい雷撃魔法を放ってくるが、それはキールがばさばさ振る私のローブであっさりあしらわれる。
「エル、全部取り出しちゃって。なんにも残さなくていいからね」
そう声をかけてくるのはクーアだ。
「全て取り出したら枯れてしまう。誰かに切り倒されるまで生かしておいてやろうじゃないか」
生きている間は孤独。
解放されるのは、誰かに思い切り痛めつけられたとき。
リヴィーの仕返しとしては全然足りないと思うが、燃やしてしまえばイオリの苦しみがひと思いに終わってしまうので、こうするのがいい気がする。
イオリから立ち上るのは、まるで水蒸気のような無臭の煙だ。ドリアード特有の匂いも混ざっていないし、なにか他の種族の夢の匂いが混ざっているわけでもない。
もうイオリは、どの種族でもない。
夢が無味無臭の種族というのはいないからおかしいと思ったが、そういうことか。
別にイオリが失神しようが死ななければそれでいいのでどんどん夢を引きずり出せば、イオリはみるみる元気を失って攻撃が減ってきた。暗い色の幹に浮かんだ顔がだらしなく弛緩してなにかもごもご喋っているが、よく聞き取れない。
これくらいでいいか。
周りを見れば、取り出したイオリの夢は分厚い雲のように私を覆っていた。そばにいるはずのキールたちの姿がさっぱり見えないほどだ。
変態の夢に包まれているというのも気色悪いので、煙状の夢を収束させる。
とんでもない量を食べる覚悟をしていたのだが、イオリの夢はたったひとつきりの果実になった。リンゴに似ているが、雪のように白い。
イオリの年齢は知らないが、ひとりの魔術師が生きてきた時間を思えばあまりにも少ない量に感じられた。
もしかしてイオリの夢はあまりにも大量過ぎてまだまだ取り出しきれていないのかと思いつつ、果実を一口かじる。歯ごたえのいいそれを咀嚼すれば、イオリが初めて照明魔術を覚えた日のことがふわりと脳内に浮かんだ。光を生み出せるのが面白くて、納屋で魔力が尽きるまでずっと使っていたのか。可愛い一面があったのに、なぜこんな身勝手な変態になってしまったんだ。
無味無臭の果実をもう一口かじると、今度はラッテの設計図という膨大な情報が流れ込んでくる。
間違いなくイオリの記憶の遺産は、夢としてこの果実に凝縮されていた。
食べる量は少ない方が助かるので、さっさと喰らってしまう。元々が夢であるからには全て食べられるので、もちろん芯まで全て喰らった。
リヴィーに関する変態的な記憶から魔術師として蓄えてきた知識まで、私の記憶の遺産となる。代わりにイオリは私が手に入れたものを全て失ったので、もうこれでラッテのようなアガシオンを作ることもない。
イオリは日常をぼんやり過ごすだけの、人畜無害なただの喋る木だ。なぜ自分がここにいるのかも分からず、廃墟で生きていくといい。
「ところでエル、あたしたちいつまで子供の姿でいなきゃいけないの?」
クーアが訊いてきた。準備をしてから戻ろうと思っていたのだが、待ちきれないのかもしれない。
「体にかけられている子供になる魔法を解けば、いつでも元に戻れるはずだが……」
「だが?」
「子供服のまま体を元の大きさに戻してもいいのか?」
「……あっ!」
クーアはギリギリ着ていられるかもしれないが、私は確実に服が破ける。しかもビリビリに。
「きみが他人の裸にそこまで興味があるとは思わなかったよ。変態は身近にいるものだな。待っていてくれ。まずは私の体で魔法を解けるか試してみよう」
「いい! 今はいい! 着替えてからにして! やめてー!」
澄んだ秋の夜に、クーアの絶叫と私の服が盛大に破ける音が響き渡った。




