第六十八話『選択』
「ねえ、リン。あなたは、元の世界に帰りたい……?」
「えっ……?」
「私なら元の世界に返すことができるわ。」
ティレは微笑んでそう言った。そして、再びティレは少し悲しそうに目を伏せる。
「本当は、あなたにそう少し時間をあげたかったのだけれど、あなたが早くにここを出ていくって聞いたから……ごめんなさい。無理やり決断を迫る形になってしまったわ。」
「いえ、そんな……」
そもそも自身で元の世界に帰れるとか、この世界に残り続けるなどを選べるとは微塵も思っていなかったのでその方が驚きである。ティレは本当に優しいんだなと思った。だからこその誰でも受け入れるというあの国民性があるのかもしれない。
「待つわ。ゆっくり考えて欲しいの。……もし、あなたが元の世界に戻りたいと言うのなら、これを食べて欲しいの。」
そう言って、ティレは真っ赤なさくらんぼこの世界ではdropと言われるものを取り出した。
(食べたら元の世界に帰れるのかな……?)
ティレは時々、dropを持った姿で描かれることが多い。dropを使うことで神様としての力のようなものを使うことができるのだろうか。
そんなことは今は考えることではない。私は今決断をしなければならない。うんうんと悩むそぶりを見せてみるが、心の中ではもう答えが決まっているようなものだった。元の世界に未練がないわけではない。母や父、妹や友達にもお別れの挨拶はしていないし、父や母が私にかけたお金は全て無駄になったということになる。大学に行くための塾代、食費、学費はバカにはならない。
でも、この世界に来てから、そのようなことを思い返してはずっとロジェさんにお金の迷惑ばかりを考えてきた。しかし、ロジェさんのお金の心配はさほどしてはいなかったのも大きいが、何より、お金よりも私が大事だとはっきりと言ってくれた。
元の世界ではお金のことばかりを考えて心が苦しくなって、消えていなくなりたい、迷惑ばかりかけているなどのネガティブなことばかりを考えていたが、この世界に来てからしばらく経ってからは、子供達への授業はどんなことをしたら喜んでもらえるか、今日のご飯はなんだろうなどのワクワクすることを考えられるようになっていた。暖炉の前でゆっくりぼーっとする時間も取れるようになった。精神的に軽くなったような気がする。そんな状況に罪悪感がないと言ったら嘘になるけれど。
何よりも、日本語話者としてロジェさんの役に立てていることが一番嬉しかった。研究をしていく中で、ロジェさんはずっと「リンのおかげ」と言ってくれた。そのことが何よりも嬉しかった。私が私としてちゃんと役に立てていることそれが一番嬉しかったのだ。
ティレが不安そうにこちらを見つめていた。顔には悲しげな表情が浮かんでいる。
「私はここに残りたいです!」
そう私がはっきりと言うと、ティレは嬉しそうな顔をして、泣きそうになりながら微笑みを浮かべた。
「そう、よかったわ。」
そう言ってティレは私に近づいて言った。
「もう、お別れの時間ね。リン、顔をこちらに近づけて?」
そう言われ、一瞬戸惑ったが、ティレの言う通りティレの方へと顔を近づける。
「これで良いですか……?」
ティレにそう聞くと、ティレは何も言わずにふふっと笑い声を少し立て、私の額にキスをした。その行動にさらに戸惑っていると、ティレは私をゆっくりと優しく抱き寄せてこう言った。
「リン、あなたの旅路が平和で在らんことを。uii amire zer.」
「amire?ですか?」
「ええ、私の国の言葉で『あなたを愛しています』よ。」
そう言って、ティレは私をゆっくりと腕の中から離した。
「元気でね!また、会いましょう!」
ティレがそう言った途端、私は体が風に思いっきり吹かれ、空間が歪み、追い出されるような感覚に陥った。
「あれ?なんで?」
私はなんとも言えない消失感に駆られた。カジェタノさんが
「rinn?」
と言って、不思議そうな顔をしながら、私を呼んだ。私は今何でここに足を止めているのかが分からなかった。
(誰か、大事な人を忘れている気がする。さっきまで、挨拶をしてから、何をしていたんだっけ……)
私がそこにしばらく止まっていたい気持ちに駆られたが、ロジェさんの姿がかなり遠くなっている。私は神父さんに
「bine!」
と言って手を振った後、カジェタノさんと合流し、ロジェさんの元まで追いつけるように、それでいて雪で転ばないようにと早足でロジェさんのところまで向かった。




