エピローグ そして人生は続いていく
政志さんと結婚してから、私の人生は更に劇的に変わった。
絶望に沈んでいた時間は嘘のように消え失せ、それが幸運に変わって返って来たのではないかと思う。
「奇跡なんか信じてなかったのにね…」
「どうかした?」
「ううん、なんでもないわ」
キャンピングカーを運転する政志さん。
バックミラーの優しい視線は、私とチャイルドシートに座る3歳の娘を見つめていた。
「…かわいいな」
「本当に」
ぐっすり眠る私達の宝物、最愛の娘愛佳。
誰の子供であってもかわいいと思うけど、やっぱり我が子は別格。
ましてや、愛する人との子供は特に。
「まるで夢みたい」
「僕もだ、まさか本当に娘を授かれるなんて」
政志さんも私と同じ事を考えていたんだ。
5年前、結婚を決めた私達は直ぐ不妊治療を始めた。
とはいっても、政志さんに異常は見つからなかったので、治療は私だけだった。
当然不安はあった。
『大丈夫ですよ』お医者様の言葉を信じ、私は治療に専念する事を決めた。
会計事務所の仕事も極力控え、体調管理に集中した。
その甲斐が実り、治療を始めて3か月後に生理が再び始まり、1年後に自然妊娠で愛佳を授かる事が出来たのだった。
「お義父さん達は?」
「もう着いてる頃だと思う」
車は私達がこれから住む新居に向かっている。
そこで私達家族は両親と同居を始める。
これは政志さんたっての願いでもあった。
『ほっておくと、また美愛は仕事で無理をしますから。
お義父さん、お義母さん、宜しければ一緒に暮らしませんか』って。
そんな無茶はもうしないのを知ってるのに。
本当は私の父が最近身体を壊したので、環境の良い場所で暮らして欲しかったから。
政志さんらしい心配り、自分の両親を早くに亡くしたからだろう。
「少しばかり遅くなりそうだ、思ったより手間取っちゃったな」
結婚生活は政志さんの住んでいたマンションから始まった。
政志さんは知り合いの不動産会社で働き始め、私は以前の事務所を残したままにして、日々の業務は空いてる部屋にパソコン環境を整え、続けて来た。
今年娘が保育園に通うのを期に元の事務所へ引っ越しを決めた。
荷物は1足先に新居へ向かっている。
最後の掃除に手間取ってしまい、出発が予定より少し遅くなってしまった。
「大丈夫よ、それより安全運転お願いねパパ」
「パパか…」
政志さんは目を細める。
托卵されていた娘、紗央里さんには、お父さんと呼ばれていた。
だからだろう、愛佳にはパパと呼ばせている。
「さあ着いた」
「お疲れ様」
午後3時に、ようやく到着した新居。
といっても、そこは私が営んでいた会計事務所が入居しているビル。
ヒビだらけだった吹き付け塗装は、潮風に強い最新の外壁タイルへと一新され、新築のビルにしか見えない。
ビルの専用駐車場には引っ越しのトラックが2台停まっており、その隣にキャンピングカーを駐車する。
こんな大きな車は本来停められないが、問題はない。
なぜなら、このビルと一緒に駐車場ごと購入したからだ。
「さてと…荷物の搬入を手伝って来るよ」
運転席を降りる政志さん。
私も眠っていた愛佳をそっと起こした。
「ママ着いたの?」
「ええ、そうよ」
「クーとロークも?」
「もう先に着いてるわよ、可愛い子供達と一緒に」
「わーい!」
両手を上げて喜ぶ愛佳。
娘にとってクーちゃんとロークは生まれた時からずっと一緒だからね。
「お疲れ、美愛」
「お父さん、身体は大丈夫?」
愛佳の手を繋いで車を降りると、お父さんは駐車場で待っていてくれた。
「大丈夫だ、やはりここは良いところだな」
「そうでしょ」
お父さんは嬉しそうに深呼吸をする。
空気もいいし、なにより環境が素晴らしいんだから。
「おじいちゃん!」
「愛佳!」
娘はおじいちゃんに飛びつく。
やはり元気な姿が嬉しいみたい。
「おばあちゃんは?」
「先に部屋で待ってるよ、あと犬達もな」
「おじいちゃん、犬じゃなくってクーとロークだよ」
「そっか、そうだったね…」
「お父さん、先に愛佳と行ってて私も後で行くから」
「ああ、それじゃ行こうか」
「うん!」
愛佳の手を引くお父さんの後ろ姿に目頭が熱くなる。
こんな親孝行の出来る日が来るなんて思わなかった。
お父さんが身体を壊したのも、きっと私が心配掛け続けたからだ。
「来たわね澤井さん…じゃなかった桧山さん」
「井川先輩、なんですその頭?」
そこには捻り鉢巻をした先輩の姿があった。
「荷物の搬入を手伝ってたのよ、それと私はもう井川じゃないから」
「そうでしたね、斎藤先輩」
「よろしい」
先輩は4年前に再婚した。
相手は私もよく知る人物、だって私が勤めていた事務所の所長だから。
所長はずっと先輩が好きだったそうだ。
でも先輩が結婚して諦めていたが、離婚したので猛烈にアプローチをしまくったと聞いている。
所長がずっと独身だったのには、そんな理由があったとは知らなかった。
結構な遊び人だったのに、意外だ。
「所長は?」
「娘と一緒に喫茶店で息子を見てるよ。
本当に親バカで困っちゃうわ」
「ハハハ…」
喫茶店のテラス席から手を振る子供さんを抱いた所長。
隣に座っているのが先輩の娘さんだろうか。
所長と娘さんの仲が良好なのはなにより。
先輩は3年前に48歳で息子さんを出産した。
私と一緒にクリニックへ通っていたが、単なる付き添いだけじゃなく、まさか自分の為だったとは…
「まあ50歳で父親になれたから、分からないでもないけどさ。
そんなに嬉しいものかね?」
「先輩…」
そんな事言ってるけど、超高齢出産で、子供を作るなんて身体の負担は大変だった筈だ。
本当は所長を愛してるクセに、素直じゃないんだから。
「にしても、凄く立派になったわね。
あのオンボロビルが、信じられないわ」
「オンボロって…」
確かに古いビルだったけど。
「外観だけじゃなくって、エレベーターまで設置するなんて」
「5階建てですから、階段はちょっと」
部屋の行き来にエレベーターは必須。
「最上階が新居で、その下が両親の部屋でしょ?
キッチンとか、内装も凄かったわね」
しっかり内部をチェックしたのか。
ちなみに2階は変わらず私の事務所で、3階は暫く空けておく。
1階の喫茶店は家賃も据え置きで変わらず入って貰ってる。
「ええ政志さ…夫の伝手で」
「知ってたけど、本当に凄い人脈ね。
どれも一流じゃない」
「そうなんですよ」
夫を褒められて悪い気はしない。
先輩が持っていた空き地に作られたマンションも、政志さんの人脈をフルに使い、市場より3割近く安い値段で建てられた。
しかも、一流の建築業者が施工したのだから凄い。
「で、旦那さんこっちでの仕事は決まった?」
「この近くの不動産会社に就職を決めました。
このビルもそこの所有だったんです、なんでも古くからの知り合いだそうで、一応役員待遇で」
「やっぱり凄い人だね」
「そう思います」
本当にそう思う。
普通は一度キャリアを捨てたら、もう終わりなのに政志さんは違った。
昔の伝手を頼っただけで、みんな再就職の応援をしてくれた。
「これからだね」
「ええ、しっかり稼がないと」
「仕事回すわよ」
「望むところです」
気合を入れなければ。
ビルの購入や、リフォームでお互いの貯金はほぼ底を着いたんだから。
「でも程々よ」
「わかってますって」
同じ轍は踏まない。
だって私には守るべき娘、家族が居るんだから。
「大体の搬入終わったよ」
「お疲れ様です」
汗を拭きながら政志さんがやって来た。
簡単な搬入だけ済ませたら、整理は明日以降にしよう。
「久しぶりね桧山さん」
「これは斎藤さん、今日はありがとうございます」
政志さんが先輩に頭を下げる。
まだ数回しか会った事ないのに、名前をしっかり覚えていたのね。
「元気してるかしら」
「お陰様で」
「そう…」
笑顔の先輩だけど、少し複雑そうだ。
だって別れた旦那の浮気相手が、政志さんの元妻だったなんて。
その事は政志さんに教えてない。
先輩の元旦那、出棚満夫の家族は既に崩壊した。
家は外為取引で作った莫大な借金の支払いで取られ、満夫は自己破産をして姿を消してしまった。
おそらくは出棚の本家が、これ以上一族の恥を晒さないように、海外にでも隔離したんじゃないかと先輩は言っていた。
元妻の史佳は貧乏暮らしに耐え切れず、一番に出棚家から逃げ出した。
しかし一度着いた浪費癖が抜けず、今度は自分が借金を作り、マルチ商法に手を出して捕まったそうだ。
それも、自分の両親まで借金漬けにして。
現在は公判中だが、実刑は免れないらしい、本当にバカな人。
連れ子は…なんか違法薬物で捕まったらしいが、出棚家の面汚しとかで行方不明になったとか、詳しくは先輩も知らないみたい。
最後は托卵されていた娘さん。
言ってしまった言葉は取り消せないけど、思春期の反抗期は私にも覚えがある。
理由もなく親を避けてしまうんだよ。
そこに母からの洗脳が加わったら、普通の判断なんか無理だ。
でも政志さんの心境を考えたら、赦されないけど…
「…そろそろ帰るわね、で子犬だけど」
「少し待ってて下さい」
政志さんが走って行く。
今日はクーちゃんが3か月前に産んだ子犬の一匹を先輩に譲る。
産まれた子犬は全部で4匹、父親はもちろんローク。
「どの子にしますか?」
「そうね」
連れて来た子犬に先輩は悩んでいる、どれも可愛いからね。
一緒に着いて来た愛佳は少し寂しそう。
でも幸せにしてくれるよと、説得したら分かってくれた。
先輩の人柄を愛佳も知ってるから。
「クーちゃん待って!」
母の焦った声が聞こえる。
クーちゃんとロークの散歩をしてる間に決めて貰おうと思っていたのに。
母が離してしまったリードを引きずったまま走って来たクーちゃんは子犬じゃなく、喫茶店のテラス席に居た一人の女性に飛びついた。
勢いで尻もちを着いた女性の顔をクーちゃんが舐め回して…
「やっぱり紗央里か…」
「まさか…」
この子が紗央里さんって事なの?
先輩の娘さんを長い間見てなかったから、違う人だったなんて気づかなかった。
「さっきから俺を見ていたな」
「気づいていたの……」
「ああ」
「…帽子被って、マスクしてたのに」
「そんな物て隠せるものか…14年も一緒に暮らしていたんだぞ」
クーちゃんを抱きしめる紗央里さん。
さすがの先輩も気まずそう、きっと遠くから見せるだけのつもりだったんだ。
所長は…息子を抱いて空気になってる。
とりあえず愛佳を離さないと。
「お姉ちゃん大丈夫?」
「うん…大丈夫だよ」
「泣かない泣かない」
愛佳は紗央里さんの頭を撫でた。
「ありがとう…」
紗央里さんが泣き出す。
どうしたらいいの?
「美愛、少し散歩してきていいかな」
「ええ…」
どうやら政志さんに考えがあるみたい。
「行こう」
「でも…」
「いいから、さあ」
政志さんは紗央里さんを立たせ、お母さんから散歩バッグを受け取る。
クーちゃんと紗央里さんを連れ夕闇の海岸へ消えて行く。
後は追わない方がいいだろう。
愛佳とロークを母に預け、私は子犬と先輩を連れて喫茶店のテラス席に座った。
「あの子…ずっと悔やんでるの」
「みたいですね」
きっと政志さんをアンタ呼ばわりした事だろう。
「なんで人間って取り返しのつかない事をやってしまうのかね?」
「さあ…」
私も被害者側だったから、理解出来ない。
「私にはなんとなく分かる」
「所長?」
「あなたが?」
「私だって、何度君を奪い取ろうと思ったか知れない。
あんな奴より、俺のものになれって」
「そうだったの…」
「まあ、出来なかったがね。
普通はそうだ、後で後悔するのが見えてる」
所長、そんな事考えてたんだ。
全く知らなかった。
「ただいま」
日が沈み、空に満月が浮かんだ1時間後、クーちゃんのリードを持った紗央里さんと、その後ろから政志さんが帰って来た。
「ありがとう…お父さん」
「ああ、元気で」
「うん…ごめ…」
「もう謝らなくていい」
「う…うん…、それじゃクーも元気で」
歯を食いしばり、クーの頭を撫でる紗央里さん。
一体どんな会話がされたんだろう。
紗央里さんはそのまま先輩の車に乗り込み、出てこなくなった。
「じゃ行くわね」
「子犬ありがとう」
先輩と所長も車に戻っていく。
愛佳は一緒にお見送りをするとやって来た。
「バイバーイ」
元気に手を振る愛佳。
やはり後部座席の窓は開かない。
「紗央里!」
政志さんの大きな声に紗央里さんは後部座席の窓を開けた。
「な…なんでしょうか…」
「子犬を頼む、いつかクーに会わせてやってくれ」
「分かった!分かったよ!
きっと来るからね!!」
紗央里さんの叫び声を残し、車は消えて行った。
「パパ、あのお姉ちゃんって誰?」
「…昔の、そう昔の知り合いだよ」
「あなた…」
政志さんはゆっくり愛佳を抱き上げる。
紗央里さんを赦せる日がくるのだろうか、それは私が考える事ではない。
「大丈夫だよ」
「何がなのパパ?」
「パパの人生は幸せだ。
それはママと愛佳が居るからなんだ」
「うん愛佳も!」
「私も!」
政志さんの右腕を掴む。
この幸せは永遠、お互い不幸を乗り越えて掴んだ、決して壊される事のない人生の宝物。
月明かりに照らされた私達の長い影は、これから歩んで行く新しい人生の道標のように見えた。
おしまい!




