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第2話 否定された女

ロークよ…

 海岸からほど近くに建つ雑居ビル。

 ここは5階建てなのに、エレベーターか無い。

 だから入居しているのは、2階の私が経営する会計事務所と、1階の喫茶店だけ。


 だけど私はここが、この町が気に入っている。

 街の中心部から離れていようと、買い物に不便だとしても。


 裏切りに傷ついた心を癒すのに、最高の所…


「…ん」


 東向きの窓から差し込む朝日に目が醒める。

 突っ伏していたデスクから身体を起こしカーテンを開くと、陽の光に反射する眩しい海岸線が見える。

 時計は朝の7時。

 午前2時まで起きていた記憶はある。


「寝落ちしたみたい…」


 クライアントの決算書類作成に、つい力が入ってしまった。

 まだ提出までは時間があったのに、時間に追われていた頃のクセが抜けてないみたい。


「…お腹空いたな」


 昨夜は夕飯を食べなかった。

 つまり15時間何も食べてない、どおりでお腹が減る訳だ。


「いつものモーニングといきますか」


 背伸びをしてから顔を洗う。

 軽いメイクを済ませ、相棒に声を掛ける。


「おはようローク」


 ロークはケージの中で嬉しそうに尻尾を振る、元気そうでなにより。


 散歩の準備を済ませ、ロークを抱えて下に降りる。

 体重が12キロもあるから大変な作業。


「行きましょう」


 砂浜の海岸をゆっくり歩くと、寝ぼけていた身体が覚醒していくのを感じる。

 心地よい潮風、澄んだ空気、疲れが洗い流されていく。


 30分の散歩を終わらせ、ビルに戻る。

 喫茶店でいつものモーニングを注文してから、テラス席に腰を降ろした。


 私の足元でロークは大人しくお座りをしている。

 ここはペットOKの喫茶店。

 テラス席から見える眺望はSNSでも有名で、休日には長い列も出来るが、今日は平日だから空いていた。


 鞄からローク愛用のシーツと、携帯型の犬用食器、そして餌を取り出した。


「さあ食べなさい」


 ロークは美味しそうに餌を食べる。

 モーニングが運ばれて来たので、私も朝食を始めよう。


「いつまでも元気でいてね、ローク」


 3年前、あなたに会えてなかったら…私は…


 不意に襲う眠気。

 まだまだ若いと思っていたが、私も30代なかばを過ぎたから体力の衰えは当然か…


 私が元夫の武能和人と出会ったのは、今から8年前。

 勤めていた大手会計事務所が主催する懇親会だった。


『澤井さんは会計士の資格をお持ちなんですか、凄いですね…』


『そんな、大学時代にたまたま取っただけで』


『謙遜しないで下さい、澤井さんは素晴らしいです』

 人あたりの良さそうな武能に褒めちぎられ、私はすっかり舞い上がってしまった。


 当時の私は27歳。

 恋人も作らずに、仕事に打ち込んで、気づけば周りの親しい友人達が次々と結婚して、少し焦っていた。


 名刺の交換から私的な交流が始まり、やがて食事、そして半年後には交際へと発展していった。


『美愛さん結婚して下さい』


『…はい』

 武能のプロポーズに応え、私は奴の妻に。

 これが地獄の始まりとも知らず…


 奴の実家は会計士事務所を3代に渡って営んでいた。

 しかし会計士は居らず、和人と父親が持つのは税理士の資格のみ。

 加えて、二人共お世辞にも腕が良いとは言えなかった。


『すまない美愛、実家を手伝って貰えないか』


『…分かりました』

 勤めていた事務所に未練はあった。

 所長達からも慰留されたが、和人を支えたい一心で、私はキャリアを捨て、必死で奴の事務所を支えた。


 新しい顧客も発掘したし、古くからの客にも沢山の提案をした。

 そのおかげもあり、事務所の売り上げは2年で3倍に伸び、新規に従業員も雇う迄成長した。


『そろそろ子供が欲しいのですけど…』


『もう少し待ってくれ、まだ経営が安定してない』


『そうよ、今貴女に抜けられたら、家の事務所は大変になるわ』


『すまんな美愛さん』

 なんとか30歳までに子供を、そんな願いは和人と義両親によって止められてしまった。


 給料は事務所の会計を任せていた義母から夫婦の通帳に振り込まれていた。

 勤めていた事務所の給料より、安い金額と分かっていたが、それでも義実家の為にと頑張った。


 必死で、必死で…


 そして遂に私は過労で倒れてしまった。


『どうするんだ?

 あの女が倒れたら今の仕事を…』


『まあいいじゃない、役立たずの嫁は置いといて、仕事は下請けにでも回せば』


『そうだな、もう用済みだよ。

 早く佐知と再婚を…』


 深夜、目覚めた私の耳にリビングから聞こえた義両親と和人の会話に目眩がした。


 佐知とは、新しく事務所に入った伊藤佐知の事だろう。

 距離が近いと思っていたが、まさかデキていたのか。


 義父は私を『あの女』と言った。

 義母は私を『役立たずの嫁』と。

 和人は私に『もう用済み…』


 そっと寝室に戻り、今後の事を考える。

 もう和人とやっていくのは無理だ、当然この事務所も辞める。


 なにより離婚の慰謝料を頂かねば。


 2ヶ月で数々の証拠を集め、三人のクズを事務所の応接間に呼んだ。


『すみませんが実家に帰らせて頂きます』


『何を突然…』


『美愛さん、あなたどうしたの?』


『おい美愛、何を言うんだ』

 バカの言葉に耳を貸さず、私は証拠を突きつけた。


 義父と義母は事務所の金を横領して買った外車。

 そして、和人の浮気…


『大人しく慰謝料を払えば、これらは公にしません。

 もし聞き入れなければ、裁判も視野に』


『クソアマが!』


『役立たずが生意気ね!』


『お前みたいな仕事しか能が無い女を貰ってやったのに!』


 他にも浴びせられる罵詈雑言の数々。

 不思議な程、頭は冷静だった。


『録音致しました。

 更に慰謝料が増えましたね』


 奴等は何も言わなくなり、私の結婚生活は無残な終わりを迎えた。


 2000万の慰謝料と引き換えに私は5年の時間と、ストレスにより生理が止まってしまった…


「お客様…」


 小さな声、誰?


「ちょっと…少し待ってくれ」


 次に聞こえた男性の慌てた声、そして聞き慣れた犬の鳴き声…


「ちょっとローク!」


 それは男性が連れた犬の腰にしがみつくロークの姿だった。


 無理矢理剥がそうとするも、興奮したロークはマウンティングを止めない、こんな事は初めて。


「ほら、オヤツだよ」


「…あ」


 男性がポケットから小さな何かを差し出すと、ロークは離れて、それをむさぼり食う。


「すみません!本当に申し訳ありません!」


「いえ、不用意に近くへ座った私も悪いですから」


「そんな…私がお客様ともっと離して案内していれば…」


 なんだか謝罪合戦になってしまった。

 しかし一番悪いのは私で間違いない。


「お怪我はされておりませんか?」


「大丈夫です、僕もクーも」


「クー?」


「この子の名前です」


「そうでしたか」


 クーちゃんって言うんだ。


「その子は?」


「ロークです」


「ロークちゃん…いやローク君ですね」


「はい…男の子です」


 確かに家の子はオス、しかも去勢してない。


「同じコーギーだから親近感が湧いたんでしょうね」


「ですかね…」


 それはあまり関係がないと思う。


「ローク君は尻尾があるんですね」


 確かにロークには尻尾がある。

 本来コーギーには立派な尻尾があり、生まれてから切っていたのは有名な話。


「ブリーダーから購入しましたから」


「そうですか、クーはペットショップですから。

 でも尻尾が有ってもコーギーは可愛いですね」


「ええ…ですね」


 私に気を使っているのが痛い程分かってしまう。


「そんなお気を落とさず、気にしてませんから」


「すみません…」


 こうなっては朝食どころではない。

 急いで席を立ちロークのリードを掴み、男性に一言…


「わ!」


「こらローク!」


 今度は男性のポケットに飛びつくローク。

 必死で臭いを嗅いでいる。


「これが欲しいの?」


 男性はポケットから小さな塊を取り出した。


「それは?」


「鶏ささみを乾燥させた物です。

 それに特製のパウダーを」


「特製パウダー?」


 鶏ささみを乾燥させたオヤツは知ってるけど。


「牛肉を焼いて乾燥させたのや、他にさつまいもなんかも、粉末にして」


「へえ…そんなの売ってるんだ」


「いえ手製ですよ」


「そうなんですか、凄いですね」


 私も自分でロークのオヤツを作ったりするけど、ここまで凝ったりしない。

 男性のクーちゃんに対する愛情を強く感じた。


「良かったらお分けしましょうか?」


「そんな、悪いですから」


「だって」


「あ…」


 ロークは男性のポケットを舐め回している。

 涎で男性のズボンが大変な事に…


「すみません!ズボンを弁償致します!」


「いいですって、犬を飼ってればよくありますよ」


「しかし…その格好のままでは」


 涎だらけで帰らせる訳にはいかない。

 でも洋服屋なんか、近所にないし…


「大丈夫です、車に着替えがありますから」


「そうでしたか」


「ついでですから、来て下さい。

 車にオヤツもあるので」


 こうなったら断れない。

 喫茶店の会計を済ませ、私は男性の後に続いた。


「少し待ってて下さい」


「凄い…」


 喫茶店から歩く事20分。

 そこに止められていたのは1台のキャンピングカー、これほど立派なのは初めて見た。


「杉並ナンバーか…」


 まさかここで見るとは思わなかった。

 忌まわしい記憶。

 アイツらが横領した金で乗っていた、杉並ナンバーのベントレー。


「どうされました?」


「…いえ知り合いの車と同じナンバーで」


「そうだったんですね。

 3年前、引っ越す直前に購入した車で、今は違う所に住んでるんです。

 変更が面倒で杉並ナンバーのままなんですよ。

 別に杉並ナンバーに愛着はなくって…」


「なくていいです!」


「え?」


「すみません!私ったら」


 さっきみた夢のせいだ。

 思い出される罵倒の言葉…息が…まさか過呼吸?


「どうされました!」


「い…いえなんでもありません」


「なんでもないはずありませんよ!」


「本当に…大丈夫…」


 気づけば、私はキャンピングカーのベッドに寝かされていた。


「ここは?」


「車の中です、ご安心下さい何もしてませんから」


「は?え?」


「本当に何もしてませんから!」


 必死で男性は否定する。

 そんなの疑ってないのに。


「信じますよ」


「本当に?」


「ええ、私に何かあったらロークが黙ってませんから」


 ロークは私に危険が迫れば必ず助けてくれる。

 まあ、家の前を人が通るだけでも吠えるんだけど。


「だってさローク君」


「ローク…」


 またロークはクーちゃんにマウンティングを…


 私と桧山政志さんとの出会いは、こうして始まったのだった。


次は閑話。

出棚サン!

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二人とも伴侶とその家族に恵まれなかった口か。
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