Necessary Evil 【とある公安刑事の罪】
ご閲覧ありがとうございます。
公安の「正義」のために他人を裏切り切り捨ててきた冷徹な公安刑事が、自らの罪と向き合う話です。
BL なのかブロマンスなのか、よくわからない立ち位置です。
BLを期待して読んだ方にはちょっと物足りないかもしれないけど、逆にBLが苦手な人からしたらBL味をがっつり感じでしまうかもしれない……
とりあえず、精神的にも肉体的にも強い成人男性が、実は精神的にめちゃくちゃ苦しんでる、みたいなネタすごく好きなので書いてみました!
榊原孝之は他のシリーズにもたくさん出てきているので、よかったら見てください!
暴力表現、流血描写あり。グロはないです。
土砂降りの雨が、ぼろぼろのトタン屋根を叩き続ける。
冷え切った空気が静かに澱む、錆びれた廃倉庫の中で、その雨音だけが響いていた。
倉庫の壁側で、頭上で腕を纏めるような形で拘束されている、一人の男を静かに眺める。
殺したくて、殺したくて、堪らなかった男が、今、目の前にいる。
いつでも殺せるような、無防備な姿で。
薄汚れた壁にもたれかかりながら眠っている男は、時折り苦しげな声を小さく上げる。唇の端から垂れている血は、すでに渇いているようだ。端正で整った綺麗な顔面には、苦しげな表情が浮かんでいる。
────こいつは、悪魔だ。
速水はぎゅっと、拳を握った。
この男の正体は、榊原孝之。警察庁警備局公安課所属の公安刑事。“なんでも屋”の男から渡された報告書の写真には、この男が、人の良さそうな、柔和な笑みを浮かべて写っている。
弟は。
優也は。
この男の、偽りの笑みに騙された。そして殺された。
報告書を乱雑に、錆かけの机に置いて、視線を目の前の榊原に移す。
顔も身体も傷だらけで血だらけ。警察官として、無様な姿を晒しているのに、その顔面には、“知性”と“冷徹”の輪郭が十分過ぎるほど残っていた。
俺は必ず、この男の化けの皮を剥がしてやる。
そして、この男に自分の罪を自覚させ、懺悔させ、無様な姿を晒してやる。
それが、俺に課された責務だ。
────待ってろ、優也。
────兄さんが必ず、お前の無念を、晴らす。
地面に転がっている鉄パイプを拾い上げ、ぎゅっと掴む。
弟の声が、聞こえた気がした。
鉄と肉が、激しくぶつかる。
「あ゛ッッ! が、は……っ!」
鉄パイプを何度も振り下ろしてやれば、榊原は苦しそうな呻き声をあげる。口から溢れる血は、薄汚れた地面に赤い水溜りを作っていく。
しかし榊原は、呼吸を整えると、口元に弧を描いてこちらを見つめる。あの報告書の写真のままの、柔和な笑みだった。
「どうやら僕は、随分と君に恨まれている、ようだね……弟さん想いの、君に」
榊原が更に口角を上げる。これは決して挑発ではないのだろう。
あくまでこの男の平常だ。こんな状況であっても、この男は飄々と、他人事のように、余裕の皮を被ったままだった。
優也を殺した時も、きっとこうだったのだ。この男にとって優也はただの駒で、不要になれば切り捨てて良い、取るに足らない存在。
だからあの日も、榊原は、助けを信じ耐え続けた弟を、簡単に見捨てたのだろう。
「恨む? ああ、そうだな。これは恨みだ。ただ、それだけではない」
榊原が眉を顰める。何が言いたい? という意味を込めて。
「たしかに俺はお前を恨んでいる。弟を切り捨てたお前を。ただ、人を裏切り、不要になったらゴミのように捨てる。そんなことをするのはお前だけではないだろ。これは公安警察という組織全体のやり口だ」
「…………だから、僕を殺して公安という組織そのものへも復讐するってこと? はは、無駄だよ。僕を殺したとしても、公安という組織は決して揺らがない。僕も君の弟さんと同じで、結局は“ただの駒”に過ぎないからね」
ふふ、と榊原は笑う。自嘲が込められたような笑みではなかった。ただ淡々と事実を述べているだけのように見える。この男は、まるで自身が駒であることに、何も感じていないのだろう。そういうものだ、とあっさり受け入れている。
酷く、不気味だった。
この男も。この男にそう思わせている、“公安”という組織も。
だからこそ、終わらせなければならない。この腐った組織を、俺がこの手で。
「勘違いするな。俺は、お前の死なんかが、公安警察という組織への復讐だなんて思っていない」
「へぇ?」
「俺にはもう一枚、切り札がある────お前らが管理している公安協力者のリストだ」
榊原の目が、ほんのわずかに、左右に揺れた。
俺はニタリと笑ったあと、続ける。
「お前ら公安は、民間人を言葉巧みに騙して“公安協力者”にしてるんだろ。自分たちができないような高リスクのスパイ活動、潜入捜査、そんな命懸けの仕事を、罪のない民間人に押し付けている。成功すれば手柄を自分のものにし、失敗すれば我関せずと切り捨てる」
「民間人のわりには随分公安に詳しいんだね。頑張って調べたって感じかな」
「優也も、公安協力者だった。────榊原孝之、お前のな」
榊原はふっと鼻を鳴らした。そして一呼吸置いて、口を開く。
「そのとおり。彼は僕の協力者だったよ。そして僕のためにいつも一生懸命働いてくれた。だから僕としても、彼を失ったことは────“損害”だった」
「ふざけるな! 何が“損害”だ‼︎」
反射的に、拳を振り下ろしていた。
何度も、何度も。
二度とふざけた口を聞けないようにしてやる。
「……ぅ、く……ぁ」
何発殴ったかなんてわからない。ただ激情に駆られるまま、殴り続けた。
榊原は口元を血で真っ赤にして、ぐったりと項垂れている。胸が上下に動いているから、死んではいないようだ。
────まだ、死なれたら困る。
弟の苦しみは、決してこんなものではない。
もっともっと苦しくて。喉が張り裂けるほどの悲鳴を何度も上げるほど痛くて。絶望のどん底で、信じていた男に裏切られ、そのまま死んでいった。
だからこの男にも、弟と同じ苦しみを味わってから、死んでもらわないといけない。
「俺は、お前たち公安のやり方を、世間に公表してやる。公安協力者の存在、その協力者を都合の良い駒として散々利用し、不要になったら切り捨てる、そんな非道な手段を使っていると。もう二度とこんな卑劣なやり方ができないよう、俺は公安協力者リストも世間に公表するつもりだ」
「ぅ、……それ、は…………困るな」
榊原の笑顔が引き攣る。その表情に僅かな焦燥が浮かぶ。
それを見て俺は口元を歪めた。
苦労してリストを入手した甲斐があった。この男の目の前で、リストをネット上にばら撒く。榊原孝之が守ってきた公安警察という組織が、音を立てて崩れる瞬間を、見せつけてやる。
榊原の絶望する顔を想像すると、笑いが込み上げてきた。無音の倉庫内に渇いた笑い声が響く。そんな俺の様子を、榊原は軽蔑するような目つきで見ていた。
俺はまた、目の前の男に視線を移す。
「なぁ、榊原。お前は……弟のことを、どう思っていた?」
「どう……って、……はは、…………そうだね……真面目で、正義感が強くて…………それで、人に頼られると断れない、責任感の強い子だった、かな。……だから僕に利用された」
榊原の黒い瞳がこちらを見つめる。そして、目を細めた。
「いい子だった、よ。…………最後まで、教団を裏切るか、迷うくらいに……ね、……」
ぎゅっと、胸が締め付けられる。
俺たちの両親は、小学生のころに事故で死んだ。だから、俺たち兄弟は、“希望の光”という宗教団体の施設で育った。俺たちにとって、教団は、家族だった。
まだ二十歳だった弟にとって、教団を裏切るという選択肢は、非常に苦しいものだっただろう。
────それを思うと、俺は……
『兄さんごめん。しばらく会えなくなる。……でも大丈夫! すごく信頼できる人がそばにいてくれるから』
弟との最後の会話が、脳内でリフレインする。
────優也。お前が言った“信頼できる人”は、ただの悪魔だったんだよ。
────だから。兄さんが、仇を取ってやるからな。
ふ、と俺は口元を歪めて笑みを浮かべた。
そして榊原の前にしゃがみ込み、男の顔を覗き込む。
「俺はお前を、必ず地獄に叩き落とす」
自分の低い声が、鼓膜を揺らした。
榊原を監禁してからおよそ6時間が経過しようとしていた。
俺は気まぐれに榊原を暴行し、疲れたらタバコを吸い、読書をする。まるで、誰かの休日のルーティンのようだった。
早くリストを公開して、榊原の絶望する顔が見たい。しかし、弟と同じ苦しみを与えてからにしないといけない。優也は、約8時間拷問された後、殺された。だから最低でも、榊原を8時間は拷問してやらないといけない。
ただ痛みを与えるだけじゃ、もの足りない。もっともっと苦しめたい。そこで俺は思いついた。
こいつ自身の口から、公安の機密データを話させる。榊原は公安警察に全てを捧げているような男だ。そんな男が、拷問に耐えかねて、公安の機密データを話してしまったら、どうなるだろうか。ひどい屈辱と精神的苦痛を受けるのは目に見えている。いや、“壊れて”しまうかもしれない。そしてとどめに、公安協力者の公開だ。これでこいつは完全に“崩壊”する。
「話す気になったか?」
首筋から点滴のカテーテルをぶら下げられている榊原が、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、虚だった。焦点も合わず、光もない。顔面からは血の気が引いており、皮膚は生きている人間のものとは思えないほど青白い。口元からは、だらだらと唾液を垂らしていた。
────十分な効果だな。
“なんでも屋”から購入した薬品は、肉体には十分な効果を見せてくれた。あとは、精神にどれほどの効果を与えてくれるか。見ものだ。
「は、なす……わけ、ない…………でしょ」
榊原が掠れた声で、途切れ途切れに答える。
俺が今、榊原に尋問しているのは、教団の幹部の居場所と、現在わかっている情報の全て、だ。
優也の犠牲により、公安警察は“希望の光”の幹部四名のうち三名の逮捕に成功した。しかし、残りの一名の行方は依然として掴めず。公安がその残りの一名の行方を今も血眼になって探しているのは知っている。そして、ある程度核心に迫っているということも。
だから、残りの一名の幹部に関する情報を、この男から聞き出す。そして、公安が捕まえる前に俺が、この手でそいつを殺してやる。
情報を奪われた上に、捜査中の犯人を殺害されたとなれば、公安の威信は確実に失墜する。そしてその原因を作ったのは、この榊原孝之だ。さすがの榊原も、自分の失態でそんなことになれば、正気を保ってはいられないだろう。
それに合わせてリストの公開を行う。もうこれで、公安警察も榊原孝之も終わりだ。完膚なきまでに叩きのめすことができる。
さらに、自分の手で、優也を殺した張本人である幹部も殺すことができる。
これほどに、完璧な作戦はないだろう。一石二鳥、いや、三鳥だ。
「もう限界だろ。お前はまだ死にたくないはずだ。…………話て楽になれ」
するり、と指先で榊原の顎先を撫でる。指先から感じた肌の温度は、ぞっとするほど冷たかった。
「死なんて、……恐れたこと、…………ないよ……」
ひゅーひゅー、と苦しげな呼吸音を立てながら、榊原はそう言った。そしてまた笑う。
ぴくぴくと、榊原の全身が痙攣している。呼吸も荒い。瞳に光はなく、どこか遠くを見ているようだ。
榊原の身体は、とうに限界を迎えいるのだろう。致死量ギリギリの薬物を投与しているから、当然だ。むしろ、苦しみにのたうちまわったりせず、ここまで静かに持ち堪えているのか“異常”なのだ。
────この男は、本当に死を恐れていないのか。
背筋が寒くなるような感覚を覚えた。
この男が、公安警察という組織に忠誠を誓っていることは嫌というほど知っている。しかし、これほどの極限状態に陥ってもなお、組織を裏切らない鋼の意志に、俺は畏怖の念さえ抱いた。
────イカれている。
この男を壊そうと思って今回の計画を企てた。しかし、この男は、もしかしたらもっと前から────?
「君、は……優也くんの、ために…………こんなことを、してるんだろうけど……意味は、ないよ……それ、に……公安を敵に回したら、どうなるか……よく、考えてね…………」
「なんだ、命乞いか」
俺は、思ってもないことを言う。榊原が命乞いなんかするわけがない。
「まさ、か……僕は、ここで死んでも、構わない……ただ、君が…………心配な、だけだよ……」
「心配だと?何が言いたい……」
「……公安は、僕が死んでも、事実として受け入れる、だけ。捜査官一人の命、なんて……たいした損害では、ないから……ただ、リストの公開なんか、したら……公安は、君を、脅威と見做して…………本気で殺す」
榊原は、何かを訴えるような目でこちらを見つめる。
まるで、本当に、俺を心配しているような眼差しだった。
「馬鹿馬鹿しい。お前は自分の心配だけしてろ。…………早く、幹部の居場所を吐け」
榊原の髪を掴み、無理やり上を向かせる。榊原の喉仏がごく、と上下に動いた。
「お前は、優也のことも、自分のことも、“損害”だと言ったな」
榊原が目の動きだけで肯定する。
「…………優也の死は、どれくらいの損害だったんだ」
俺は、榊原の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「…………公安としては、たいした損害じゃ、なかった……かな」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃。
わかっていた。
この男が、優也を大切に思っていたわけがないことを。
「この……! ……くそ野郎が‼︎」
榊原の胸ぐらを乱雑に掴む。掴んだワイシャツは、血と汗でぐっしょりと湿っていた。
「優也は……! 優也は、お前を信頼してたんだぞ! 最後までお前が助けに来ると信じて待ってたはずだ! それなのに……! それなのにお前は……!」
榊原は何も言わなかった。
ただただ、なんとも言えぬ表情で、こちらを見つめるだけだった。
少しの沈黙。相変わらずバケツをひっくり返したような土砂降りの雨が、倉庫の天井を慣らしている。
「…………彼は、必要な犠牲だった……」
ぽつり、と榊原は呟いた。
「……彼は死んだ。だけど、彼の……お陰で、僕らは3名もの幹部の逮捕に成功した。…………未来の、不特定多数の被害者を、救った…………」
「ふざけるな……!」
意味はない。そう分かっていたが、拳を振るわずにはいられなかった。
ガツン、と鈍い音。右の拳に鈍い痛みが走る。
「あいつは……優也は……! あんたのことを、“信頼できる人”だって言ったんだぞ! 信頼できる人がそばにいてくれるから大丈夫だ、って……!」
「はは、……僕は…………許してほしい、なんて……思ってない。ただね……“公安として”僕は……正し、い……選択を…………」
榊原の言葉の語尾は弱々しかった。
体力も気力も、限界が来たのか。
────いや、違う。
地面に、雫が数滴、溢れた。
「た、だしい…………せん、たくを……した。……そう思って…………」
か細い声でそう続ける榊原の顔を覗き込んだ。
泣いていた。
この男が。
ポロポロと涙を溢しながら、ただ静かに。
噛み締めた奥歯がギリ、と音を立てた。
「正しい……? 優也を犠牲にしたことを、お前は本当に正しいと思っているのか⁉︎ とるに足らない損害だと⁉︎」
「……こ、うあん……としての損害、は……とる、にたらなかっ、たよ…………で、も……でも……」
榊原はぎゅっと唇を結んだ。目を瞑り、少しの間黙り込む。
そして、再び口を開いた。
「ぼ、く個人として……彼を、うしな、ったこと、は、……大きな、そん、がい……だった…………ほん、と……は、僕だ、って……優也くんを…………」
────助けたかった。
榊原は震える声で、そういった。
助けたかった。助けたかった。でも間に合わなかった。
榊原は泣きながら、ただそう繰り返した。
「お、にいさん…………ご、めん……なさい……ごめんな、さい…………」
榊原の瞳から、大粒の涙が、溢れ出す。榊原は、子どものように泣きながら、何度も「ごめんなさい」と繰り返していた。
榊原孝之は、公安の仮面を被って、誰かの命を天秤にかけて、冷徹に“処理”していた男だった。弟を殺した悪魔で、怪物だった。
しかし、今は、血塗れで縛られ、幻覚にうなされながら、「ごめん」と繰り返すあの男の姿は──────人間だった。
「なんだよそれ……今更、そんなこと、言っても…………」
自分でもびっくりするくらい、空っぽな声が出た。
その声色には、さっきまでの怒りも、憎しみも、悔しさも、滲んでいなかった。
「くそっ!」
俺は地面に転がっている、注射が入っていたアタッシュケースを力任せに蹴飛ばした。
「なんだよ…………なんなんだよお前は……」
力が抜けた俺は湿った床に腰を下ろした。そしてぐしゃぐしゃと髪をかき上げる。
この男を殺して、公安を破壊すれば、全てが終わると思っていた。全てが片づいて、全てから解放されると。
だが、おそらく違う。
俺は、きっと、この男を殺しても────
「ねぇ……おに、い……さん」
榊原のか細い声。俺は顔を上げた。
「ぼく、を殺す……んでしょ、……? いいよ…………いや、むしろ、……殺して……ほし、い」
泣き腫らした真っ赤な瞳が真っ直ぐにこちらを射止める。
「ば、つを…………与えて……よ……優也、くんを……あんな目に、遭わせてしま、った……ぼ、くに……」
「お前、……なぁ」
殺すはずだった。殺したいはずだった。
それなのに今、俺は、銃もナイフも握れなかった。
どうして。
この男の涙を見たからか。違う。そんなわけない。
ただ、ただ俺は────
「ただ、ひと、つ……お願いが、……あるん、だ……僕を…………ころ、すまえに…………」
俺は黙って、榊原が続けるのを待った。
「リス、トの公開……だけは、やめ、て……ほし、い…………あれを、公開したら…………優也くんと、同じ目に遭う人が、……たくさ、ん……出てし、まう……」
俺はハッとした。
リストを公開すれば、今潜入中の公安協力者は皆、命の危険に晒される。そんなこと、理解していた。理解した上でこの作戦を決行したはずだ。
それなのに、いざ、目の前の男にそう言われると、固めたはずの決意が、揺らいでしまう。
「第二の、ゆ、うやくん……を…………生まないで……」
お願い、と榊原は何度も俺に懇願した。縋り付くように、「自分を殺すのは構わないから」と。
どくどくと心臓が音を立てる。
これほどまでに苦しい選択を迫られたことなど、かつてあっただろうか。
────優也の仇のために、公安警察を叩き潰すために、優也と同じ立場の人間を、殺すのか。
ぐるぐると脳内を思考が駆け巡る。
息ができなくなった。
俺は────どうすればいい?
────優也、お前は、何を望む?
「ぼ、く……を殺して……構わないから」
榊原が声を絞り出した。
その言葉で、決心がついた。
俺はホルスターから銃を抜き、榊原の額に突きつける。
「…………わかった。お前を殺す。その代わりに、データの公開は…………諦めてやる」
ジャケットのポケットから、プラスチックケースに入った記憶媒体を取り出す。そして榊原に見せつける。
「これが例のリストだ。お前の命と引き換えに、これは処分しておくよ……」
────俺は何をやっているんだ。
────公安警察を、組織ごと破壊するんじゃなかったのか。
もう一人の俺が、自分自身を罵倒する。
わかっている。
わかっている。
榊原なんかに情を動かされてはいけないことなんて。
だが、どうしても────できなかった。
優也と同じ死に方をする人を生む選択を、することなんて。
俺は瞑っていた瞼を開けて、榊原を見つめた。
「──────ありがとう。速水慎吾くん」
────え?
その声はもう、震えていなかった。
そして榊原はびっくりするほど爽やかで、穏やかな笑みを浮かべていた。
今から殺される人間の表情ではなかった。
そのアンバランスさ、不気味さに、呼吸が止まる。
俺が硬直していると、榊原は更に笑った。
「────今だよ、吉良くん」
渇いた銃声が、遠くで聴こえた。
刹那、右肩に焼けるような痛みが走る。
は、と振り返ろうとした瞬間、俺の身体はあっけなく吹っ飛んだ。
「速水慎吾だな。午前7時28分、傷害致傷の容疑で現行犯逮捕する」
濃紺のスーツを着込んだ男が、単調な声でそう言った。
俺はなすすべもなく、後ろ手で手錠をかけられる。
────何が、起きた?
脳が回らない。全く理解ができない。この状況も。何もかもが。
はっと、思考を現実に戻すと、血だらけの榊原がこちらに笑顔を向けていた。
「やっと回収できたよ」
そして、ひらひらと、例のリストが入った記憶媒体をこちらに見せつける。
「なん、で…………ぜ、んぶ……うそ、だったの、か?」
あの懺悔も、涙も、すべてが、“演技”─────?
震える声で榊原にそう問いかける。
「そうかもね」
榊原は淡々と答える。
変わらない柔和な笑みを貼り付けたまま。
しかし、その笑みはもう血の通った“人間”のものではなかった。穏やかで、柔らかで、それでいて氷のように冷たかった。
「おま、え……っ! 優也も! 優也のこともこうやって、…………騙したのかよ!」
床を這いつくばりながら、俺は必死に叫んだ。暴れるたびに体温の低そうなスーツの男が、俺の身体を乱暴に押さえつける。
なんで。なんで。
あのとき、引き金を引かなかったことをひどく悔やんだ。
こんなやつの涙に騙された俺は────馬鹿みたいだ。
「速水慎吾くん。君は優しすぎた。…………復讐には、向いてなかったね」
どさどさと複数の足音が倉庫内を揺らす。ゆっくりと顔を上げると、スーツを着込んだ男たちが五、六名、自分を取り囲んでいた。そして俺の身体を両脇に抱え、無理やり引き摺ろうとする。
「ふざけるな……! ふざけるなよ! おい! 榊原ぁ! おい! くそ! くそがーーーっ!」
喉が張り裂けそうなほど叫ぶ。しかし、榊原には届かないようだ。
おれは目の前が真っ暗になっていく様子を、ただただ見ていることしかできなかった。
「やってくれましたね。榊原さん」
倉庫の外で吉良は煙草に火をつけた。
「あは、ちょっ……と、無理しちゃった、かな……」
榊原は、外壁に背中をもたれさせて笑う。いつも通りの表情だった。
「僕が来てなかったらどうしてたんですか。例のデータを奪還するために、わざと拉致されるなんて」
「吉良くんは……来て、……くれる、そう信じてた……からこその計画、だよ」
「信じてた、ですか。……“操ってた”の間違いでは? 僕があなたの動きに気づくよう、わざと色々痕跡を残してましたよね」
「ひどいなぁ……あや、つるなんて…………そんなつもり、ないよ……」
「彼があなたを拉致することも、僕が来ることも、あの涙も、懺悔も、…………すべてあなたの計算の内、でしょう」
榊原の懺悔は、思わず魅入られるほど、美しかった。
涙を流し、声を震わせ、自分の罪を認める────その姿は、限界に立たされた“人間”の本当の懺悔そのものに見えた。
ただ、それは偽りだった。
全てこの、榊原孝之という男の。
「僕も一瞬、本当にあなたが改心したんじゃないかって思いましたよ。まぁ、そんなわけないんですけどね」
「はは……改心……って……僕が、……まるで悪人、みたいじゃ……ないか」
けたけた。
榊原が笑う。
あんな拷問を受けた直後の人間とは思えない表情だった。
怖いな、と正直思った。
いや、今までも、吉良は何度もこの上司のことを、怖いと思ったことがある。
人当たりがよくて、もの腰が柔らかくて────一見、誰もが善人だと錯覚するような人物像。だが、この男には人間味が全くない。他人の命を平気で天秤にかけ、残酷な取捨選択を平然とやってのける男だった。
無論、公安としては理想の捜査官だ。私情に流されず、“最大多数の最大幸福”の実現のため、迷わずに最善の選択肢を選ぶ。たとえ目の前の大切な人を切り捨てるという手段であっても。
「本当に、怖い人ですね。あなたは」
「はは、……ほめ、ことば、かな?」
「いえ、呆れてるだけですよ。まぁ解釈はお好きにどうぞ」
ふぅん、と榊原はわずかに眉を顰めた後、また穏やかな顔つきに戻った。
「榊原さんは…………本当に速水優也のこと、なんとも思ってないんですか」
榊原の黒い瞳が、チラリとこちらを見上げ、目が合った。
一瞬、どき、と胸が跳ねた。
「吉良く、ん……らしくない……しつ、もんだね」
「…………自分でもそう思います」
「ひと、の死に、何かを感じる、……それは、公安の僕ら、にとって……致命的、でしょ……」
榊原が少し息を整えてから、次の言葉を紡いだ。
「だ、から……僕は……なに、も感じないよ、うに……して、いる…………」
────“感じないように”している、か。
“感じない”ではなく、その言葉を選んだのは、榊原の本心か。それとも、意図的に使用したのか。
ふーっと、吉良は灰色の煙を吐き出した。そして短くなったそれを再び咥える。
「人を犠牲にしてまで貫く正義、か…………」
「吉良くん、だって……犠牲に、したこと…………あるでしょ……僕のこと、いえ、ないよ」
俺は、榊原に「痛い腹を突かれたんだな」と思われるのは癪であったが、何も答えなかった。
「ね、ぇ……吉良くん…………僕らが、つらぬ、かないといけない正義は……つねに、誰かの犠牲の上に、あるんだよ……」
「知ってますよ。でも……」
救急車のサイレンが近づいてくる。
吉良は煙草をアスファルトで揉み消して、立ち上がった。
「その犠牲が、“あなた自身”であることも、あるんでしょう」
榊原の返事を聞く前に、吉良は榊原に背を向けて歩き出す。
覆面パトカーの周りにいる数名の警察官に声をかけ、榊原を救急車へ誘導するように声をかけた。
吉良は、榊原の“答え”を、まだ聞きたくなかった。
速水優也が、すでに教団内部でスパイだと疑われ始めているのは、承知の上だった。
いや、自分はむしろ、その状況を利用しようとした。
裏切り者の“処刑”が行われるとき、必ず教団の幹部四名はその場に姿を現すという規則性は、過去の調査から明らかであった。だからこそ、疑われている速水優也をそのまま教団内で泳がせ続けた。速水優也を餌に、幹部四名を誘き出し、一網打尽にするために。
「さすがに危険では?榊原さん」
「いや、この気を逃したら、教団幹部を拘束することはできないよ。……大丈夫。協力者の速水の救出も、必ず行うつもりだから」
心配しないで、と笑いかけたが、当時の部下たちは黙り込んで、首を縦には振らなかった。
だが、自分は作戦を決行した。
一人の青年の命と、教団によって将来的に奪われるかもしれない不特定多数の命。これを自分は、天秤にかけたのだ。そして当然のように、後者を選んだ。最大多数の最大幸福の実現のために“仕方のない犠牲だ”と誰かに言い訳しながら。
いや、それだけではない。
自信が、あったのだ。
自分なら、仮にこんな状況であっても、速水優也を救出できると。天秤にかけた命の両方を、救うことができると。
過信していた。自分を。
自惚れていた。
『榊原さん、俺に何かあった時、助けてくれますよね?』
『俺、ちょっとまずいかもしれない……! やつらに気づかれたかも』
『お願い。榊原さん。信じてるから』
『たすけて』
彼の声が、遠くで聴こえる。
どこかで、自分を呼んでいる。
────優也くん。ごめん。僕は──
幹部がアジトに姿を現したのは、速水優也の拘束からすでに八時間が経過した後だった。
「まずいですよ榊原さん! これ以上は速水の身体がもちません! 突入しましょう!」
「ダメだよ。幹部はまだ一人も姿を見せてない。今突入したら、全てが水疱に帰す。幹部たちを逃したら、何人未来に被害者が生まれると思う?」
「しかし……!」
「大丈夫。速水くんは、強い子だから。もちこたえるよ。……きっとね」
あのとき、部下の忠告を聞いていれば、速水優也は死ななかったはずだ。
自分に、“人間としての感情”があれば────
このとき自分はすでに、“人間”ではなくなっていたのだろう。“公安警察”としての価値観や、感情しか持っていなかったのだ。それがこの国の秩序維持のために最も必要なことだと信じて────
四人目の幹部が姿を現したとき、自分は全捜査員に突入の命令を下した。そして自分も、銃を握りしめて、一気に地下室への階段を駆け降りた。
「動くな警察だ‼︎」
白装束の男がこちらに銃を向ける。向こうが引き金を引くより、自分のが数秒早かった。脳幹を撃ち抜かれた男は、呆気なく仰向けに倒れ込んだ。
他の白装束たちも怒声を上げながら、こちらに向かってくる。しかし彼らの相手は部下に任せ、速水優也を必死に探した。
────見つけた。
「優也くん‼︎」
部屋の隅っこで、ボロ雑巾のようになって横たえている青年を見つけて、大急ぎで駆け寄った。
「優也くん‼︎ 起きて‼︎ 優也くん‼︎」
しかし。
彼は、目を開けなかった。
身体はひんやりと冷え切っていて、硬直していた。
それは警察官である自分が、嫌と言うほど知っている、生命におきる現象の一つだった。
「うそ……だろ……」
信じたくなかった。
信じたくない。
人生で初めて神に祈りながら、速水優也の首筋に指先を添えた。無駄だと分かっていながら。この行動に意味がないことをわかっていながら。
やはり、指先は跳ねなかった。どこを触っても何をしても、“彼が生きている証明”は得られなかった。
──────死んでいる。
────────速水優也が。
それは誰が見ても明らかだった。
受け入れられない。
しかし受け入れなければならない。
頭の中がぐちゃぐちゃになっていたとき、一人の部下の声が聞こえた。
「榊原指揮官。はや、みは……? 速水は無事ですか? 早く救急車に……」
他人の声を聞いた瞬間、頭から冷水を浴びせられたような感覚に襲われた。
そして、それを境に、自分の脳はゾッとするほど冷静になった。
そして、心は────
感情は────
固く冷たく、凍りついた。
「残念だけど、彼は既に亡くなってたよ」
「え……?」
「……とりあえず、そっちの様子は? 戻ったらすぐに聴取に入ろう。ここからは時間との勝負だよ。急いで」
自分はすぐに、部下に指示を飛ばした。あとで聞いた話によると、そのときの自分は“恐ろしいほど的確な指示を、ただひたすらに淡々と出していた”らしい。
────彼を失ったことは、決して失態でも損害でもない。
速水優也という一人の青年の犠牲のおかげで、幹部三名を確保することに成功した。幹部への聴取の結果、半年後に都内で爆破テロを企てていたことが発覚した。
もしあのとき、速水優也を救出に行っていたら、半年後に、数百人規模の犠牲者を生んでしまっていたのだ。
だから。
だから。
僕の、選択は──────
間違っていなかった。
そうだろ?
──────────榊原孝之
廃倉庫とは真逆の、嫌味なほど清潔な病室のベッドで、榊原孝之が眠っている。
吉良はベッド脇の椅子に腰掛けて、ぼんやりと榊原の寝顔を見つめた。
左の手首、鎖骨と肋骨三本の骨折、内臓の出血、全身のあらゆる箇所の打撲、おまけに致死量ギリギリの薬物投与。医師から簡単に説明を受けただけで目眩がした。その医師も「ここまで酷い怪我を負っているのに、救急車に乗るまでは意識を保ってたなんて。人間とは思えませんよ」と青い顔をしていた。
────本当に無茶苦茶な人だな。
榊原という男は、他人を国の秩序維持のための駒だとしか思っていない。だから簡単に、大義の名の下に切り捨てる。
しかし、それは、榊原にとって“他人”に限ったことではないのだろう。榊原はきっと、“自分自身”のことも駒に過ぎないと思っている。
そうでなければ、例のリストの奪還のために、わざと速水慎吾に拉致されるなどという、危険を犯すはずがない。この男は、国家のためなら自分の命さえ簡単に投げ捨ててしまう。
いや、自分も、榊原と同じく公安刑事だ。だからこそ、榊原の言わんとすることはわかる。それに自分だって、他人を切り捨て裏切り、利用してきているし、今だってそうだ。そして、自分自身の命を危険に晒す決断をしたことも、少なくはない。
だけど。
自分は榊原孝之ほど、迷いなくその決断をできたことはない。常に、心のどこかで迷っている。
しかし榊原は異常だった。すべての洗濯になんの躊躇いもない。計算した数字を比べて、正しい方を迷いなく選択する。まるでプログラムされたロボットのように。
「あなた本当に────人間なんですか」
聴こえないはずの相手に向かって、吉良はぽつりと呟いた。
当時の榊原の部下から、速水優也のことは聞いた。
榊原さんらしいな、思うとともに、やはりこの男に人間の情なんてないんだなと思い知らされた。
そして、今も。榊原はきっと自分の知らないところで、誰かを裏切り、切り捨て、利用しているのだろう。穏やかで優しい柔和な笑みを浮かべながら。
なぜか、あのときの、涙と、叫びが、耳にこびりついて離れない。
「榊原のことなんだから、まぁ演技なんだろうな」と、無論その時は思っていた。それなのに、叫びを聞き続けていふうちに、本当なんじゃないかと、自分自身も思ってしまった。榊原孝之にも人間の感情があったのだと。
しかしそれは、呆気なく覆された。
そうだ。自分も騙されたのだ。
速水慎吾と同じように。
「僕は────あなたが怖い。常に“完璧な公安刑事”であり続けるあなたが」
ぼんやりと、榊原の青白い顔を見つめる。
当然、返事はない。
ただ穏やかに、胸を上下させていた。
「はぁ…………早く戻ってきてくださいよ。あなたがいないと“うち”は回らないんで」
ため息をひとつついて、吉良は椅子から立ち上がる。
そのときだった。
「ご、め…………ん」
榊原の口元が微かに動いた。
「え?」
吉良は驚いて動きを止めた。
「ごめ……ん、なさい…………」
「ゆ、うや……くん」
医療機器の電子音でかき消されそうなほど小さな声で、榊原はそう呟いた。
そして。
榊原の目尻から一筋の涙が垂れた。そしてその雫は、ゆっくりと彼の頬を伝っていく。
「泣いて……るんですか。…………あなたが」
信じられなかった。
一瞬、また自分を騙すための演技なのかと思ったが、そんなことをする意味はない。
本当にこの男は────泣いているのだ。
「ゆ、うや……くん………………ごめ、んね……」
涙が、長いまつ毛を濡らしていく。
吉良はその涙を、指先で掬う。
榊原が初めて流した涙が、皮膚に染み込んでいった。
「いつも来てくれてありがとう。吉良くん」
「勘違いしないでください。来たくて来てるわけじゃないんで」
「はは、それは申し訳ないなぁ」
吉良はいつも通り無愛想な態度で、書類が綴じられた分厚いファイルを雑にテーブルの上に置く。
「まだ安静にしてた方がいいんじゃないですか。って言っても、どうせあなたは聞かないんでしょうけど」
「お気遣いどうも。まぁ、右手は動くからね。ちょっとやりづらいけどパソコンくらい問題なく使えるよ」
そう答えると吉良は心底呆れた顔でため息をついた。
「まぁ、あなたほど図太い精神を持ってれば、精神科医のセラピーも不要でしょうね」
「ああ、ドクターから言われたけど、もちろん断ったよ。あれくらいの“事故”、どうでもないからね」
「どうでも、ですか…………」
何か言いたげな口調に、顔を上げる。
「本当に……本当にどうでもないんですか。榊原さん」
「ん? なんのことかな。ああ、怪我なら、骨がくっつくのにはもう少し時間はかかるらしいね。でもまぁ、そこまで問題ないみたいだし」
吉良の言葉の意図は、わかっている。
しかし、あえて気づかないふりをして、話題を逸らした。
「とぼけないでください」
少し苛立ったような口調で、吉良は言った。
「速水優也のことですよ。あなたが殺した」
「殺した、か……そうだね。うん、僕が殺した」
榊原は瞳を伏せた。吉良の瞳を直視できなかった。
「彼にも彼のお兄さんにも申し訳ないとは思うけど、彼は…………必要な犠牲だったんだよ。彼と、未来の不特定多数の命、両方を救う“完璧な選択肢”なんて、どこにもなかった。僕の判断は、間違ってない。悔いも、ないよ」
「それが本心、ですか」
「そうだよ」
間髪入れずにそう答える。
吉良の真意がわからない。どうやら、自分を責めようという意味ではないらしい。
ひと呼吸おいて、吉良は口を開いた。
「じゃあなんで泣いてたんですか」
「だから、あれは演技だって」
「違いますよ。一昨日です。一昨日、榊原さんあなた、そこで眠りながら泣いてましたよ。『ごめんね』って繰り返しながら」
言葉に詰まった。
ここ数日、ずっと夢に速水優也が出てくるとは思っていたが、まさか、自分が現実で────
泣いていたなんて。
彼の死に、何も感じていないはずだったのに────
「あのときの涙も、懺悔も、本当は本心だったんじゃないですか」
「…………はは、吉良くんは、面白いことを言うね。僕がそんな“いい人”に見えるのかい?」
「まさか。“いい人”だなんて思ってませんよ。ただ…………」
「ただ?」
「“人間”だとは思いました。あなたの涙を見たときから」
────人間、か。
自分はずっと、“人間のフリをした何か”だと思っていたし、そうなろうとしていた。
人間として働くには────この世界は酷すぎる。
「あなたは自分を、意図的に人間でなくしようとしている。そして、限りなく人間ではない存在に近い」
「……へぇ?」
「でもそれは……」
一瞬の沈黙。吉良はまた、こちらを真っ直ぐに見つめた。
「きっと、苦しい。あなたは自分の感情に、ずっと蓋をして生きている。一人の人間としての苦しさも悲しさも、全部必死に見ないふりをして生きている。そうじゃないんですか」
「面白い推察、だね。君がそう思ってくれるなら、そういうことにしておいてもらおうかな。でもね、速水優也の死に、特別な感情は…………抱いてないよ」
嘘ではない。
嘘ではないはずだ。
それなのになぜ、自分は嘘くさい笑みを浮かべずには、そう答えることができないのだろうか。
「ああ、吉良くん。これ、僕の決裁印押しといたから、そのまま岩瀬課長に回してくれるかな」
露骨なほど強引に、榊原は話題を変えた。そして分厚い書類の束を吉良に差し出す。
「わかりました」
吉良はそれを無言で受け取り、黒のバッグに仕舞い込む。そして、立ち上がった。
「じゃあ僕はこれで失礼します。お大事に」
「ありがとう。迷惑かけてごめんね」
榊原はまた微笑んで、吉良を見送る。吉良がドアの取っ手に手をかけて、動きを止めた。
「榊原さん」
「ん?」
「速水優也に何の感情も抱いていないなら────」
────どうして毎月25日に、速水の墓参りに行くんですか。
胸に太い針を突き刺されたような感覚に襲われた。
はは。
そこまで、知ってたんだ。
吉良くんは、本当に、すごいなぁ。
「僕は、あなたに人間的な振る舞いをしてほしいとは思ってません。むしろ、我々公安として必要なのは、あなたのような限界まで“人間性”を失った、合理的な決断ができるパーツでしょう」
榊原は黙って、吉良の言葉を待った。
「ただ、榊原さん。たまには、自分の“人間としての感情”に、向き合った方がいいと思っただけです。そうしないとあなた──」
────いつか壊れますよ。
吉良はそう言い残して、病室を後にした。
吉良の瞳は、鋭かった。
まるでこちらの全てを見透かしているかのような、瞳だった。
「自分の、“人間としての感情”かぁ……」
優也くん。
僕に、榊原孝之に、人間の心って────
────まだ残ってると思うかい?
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