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《 異世界恋愛系 小作品 》

身代わりで嫁がされた人質姫は、聖女として覚醒する

作者: 新 星緒

「よいしょ……っと!」

 這って茂みの下を進み終えると、鉄柵の細いすきまを通り抜けて、敷地外に出た。


 幸い番兵の姿はない。通行人たちが不思議そうにこちらを見たけど、みんなすぐに目をそらす。きっと不審者と関わりたくないのだろう。


 私は服についた土を払うとカバンを背負いなおして、駆け出した。


 今日も脱出成功! あとは無事に逃げ切るだけ。

 この国の皇帝、ディートリヒ・フロイデンタールから。

 王宮をこっそり出ることも、街中を歩くことも慣れている。

 だってそうしないと私は王女であるにも関わらず、母国で生きることができなかったのだ。


 六年前にお父様に代わって玉座についた叔父は、私にろくに衣食を与えず、かといって殺すでもなく、ゆるやかに支配した。

 おそらく最初から愛娘の身代わりとして、私をディートリヒ・フロイデンタールに差し出す算段だったのだろう。


 幸い私はお父様の反骨精神と、お母様の負けん気の強さを色濃く受け継いでいる。

 だから気持ちだけは、叔父に屈することはなかった。


 いつか必ず叔父の支配から逃げ出すと強く決意していたし、そのための努力も怠らなかった。

 そして、決意を実現するためには王宮を脱出して、外の世界で知識とお金と食料を手にいれる必要があったのだ。


 王女らしくないという自覚はある。

 きっと世界広しといえども、屋台で野菜を売ったり、カフェの給仕をしたり、教会の日曜学校で勉学を学んだりしたした王女は、私のほかにはいないだろう。


 でも、いいの。王女の身分がなに?

 両親を事故で亡くしたあの日から、泥水をすすってでも生きて、絶対に幸せになってやると決めていた。だから、これぐらいの苦労はなんともないわ。


 むしろあの経験が今になって役に立つなんて、予想もしなかった。


 街の中心部に入ると人は格段に増える。

 走っていると目立つので、徒歩に変えて進む。

 今日の行き先は、乗合馬車の発着場じゃない。もうそれらはこの一ヵ月の間に、何度も何度も失敗したもの。

 だから今日の逃亡ルートは意表をついて水路よ!


 船に乗って、都から出るの。母国から遠ざかる航路を選べば、見つからないと思うのよね。なんて名案!


 乗船チケットの販売所が見えてきた。まわりに騎士や役人の姿はない。

 今日こそ成功だわ!

 意気揚々と販売所の扉の前に立ち、ドアノブに手を伸ばす。


 と、後ろに誰かが立った。

 扉のすりガラスに、背の高い男の姿が映る。


 まずい!


 そう思った瞬間、男に抱き上げられた。

「今日も俺の勝ちだな、テレーゼ」

 美しい顔立ちの黒髪黒瞳の偉丈夫――この国の皇帝、ディートリヒ・フロイデンタールが悪役のような顔で笑って、額に優しくキスを落とす。

「どうして皇帝のくせに、いつもいつも私を捕まえに城下まで来るんですか!? ヒマなんですか!」

「ヒマではないが、言っただろ? 俺はテレーゼに愛される努力なら惜しまないって」


 むむむ。

 確かに言われた。

 だけど、信じるはずがないじゃない。

 陛下には、妃が私のほかに六人もいる。私にこだわる必要はない。それに、皇帝は多忙のはずよね?


 街路樹に繋がれた彼の愛馬に、ふわりと乗せられる。

 まわりにお付きの人たちの姿はない。

「……また一人で来たのですか?」

「そうだが?」

「皇帝なら、もう少し危機管理を徹底したほうがいいと思いますよ?」


 皇帝がふふんと鼻で笑う。

「誰に向かって言っている」

「……『軍神』陛下」

「わかっているじゃないか」

 後ろに乗った皇帝が、私の頭に丁寧にキスを落とした。

 本当に、意味がわからない。


 ディートリヒ・フロイデンタールはこの国の第二王子だった。

 だけど自ら兵を率いて三度、他国と戦をし、すべてに完全勝利をおさめた。

 さらにはその勢いのまま、怠惰で放蕩三昧だった皇帝と皇太子を武力で追放して、玉座についた。

 彼は恐ろしい男だ。


 しかも大の女好きで、即位するとすぐに法改正をし、皇帝のみ一夫多妻制に変えた。そんな彼の妃は七人。

 彼は自国や他国の王侯貴族に、『破滅と、娘を人身御供にするのはどちらがいい?』と選択を迫り、美しい女性を集めている。

 そして私は、一番新しい妃だ。


 数か月前、彼は『アシェンデン王国の薔薇姫』と誉れ高い王女を手に入れるため、国王に例の選択をさせた。そうして手に入れたのが、私。

 今現在、皇帝の腕の中におさめられた、偽物の人質姫。


 馬がぽくりぽくりと、のんびりと歩き始めた。

「わかっていないのは、陛下です。偽物の私にどうして執着なさるのだか」

「偽物か本物かはどうでもいいと、何度も言ったはずだが?」


 彼が欲した『薔薇姫』はテレーザ王女。私は彼女の従姉のテレーゼ王女。

 名前と髪の色は似ているけれど、容姿はそれほどではない。長年虐げられた私は、棒切れのようにやせ細っていて、女性としての魅力は皆無だ。


「酔狂過ぎますよ」と、節操のない皇帝に言ってやる。

「わかっていないのは、テレーゼだ。俺はテレーゼを愛している」と楽しそうな声がした。


 彼は弱小国の王に(たばか)られて、私を掴まされたのだ。だというのに怒るでもなく、私を構ってばかりいる。


「確かに俺は、『好きに過ごしていい』とは言ったぞ? だが言った翌日に、王女がたったひとりで王宮から脱走すると思うか?」

 そうね。珍しいパターンだろうとの自覚はあるわ。

「それに、だ」

 ああ、この調子だとアレもまた言われるわね。

「俺との初夜に『あなたを愛することはない!』と叫ぶ女なんて、面白すぎるだろうが」


 くっくっと笑う声がする。


「だって、大事なことは先に伝えたほうがいいと思ったのですもの」

 本当は、ちゃんと挙式前に伝えるつもりだったのよ? 私が偽物であることも、沢山の妃を抱える好色家は好きになれないことも。


 だけど挙式は王宮に到着した翌日だったし、彼には会えないし、侍女たちに話しても、いなされて終わりだったのだ。


 それなら初夜の寝所で伝えるしかないわよね? 仕方なくない?

 でもそれが、彼のツボにはまってしまったらしいのよね。気に入られたあげく、

「初夜は延期だ。俺はお前がほしくなった。必ずや、俺に惚れさせてみせる!」と宣言されてしまったのだ。


 以来彼は、私が羞恥に悶えてしまうぐらいに甘い言葉で口説いてくるし、脱走すると自ら探しに出る。

 おかしいわよね。だって彼は皇帝で多忙だし、妃が六人もいるのだから女性も間に合っている。

 私は魅力ある容姿でもない。

 ただちょっと、他の妃とは違う言動をしてしまっただけ。


 だからきっと、これはゲームなのだ。脱走する私を捕まえる。自分に好意のない女性を惚れさせる。そんなゲーム。

 

 馬にふたりで乗ると、彼にすっぽりと包まれているような気がする。背中に感じる体温も心地よい。

 安心できる場所のように思えてしまう。

 でも、それは錯覚。両親を亡くしてから叔父一家に酷い扱いを受けたせいで、私は他人のぬくもりに飢えているだけ。勘違いをしてはダメ。


 すべて解釈違い。彼も、私も。


「だいたい脱走してどうする?」と皇帝がいつもの疑問を口にする。「母国に帰っても、叔父たちに責められるだけだ。どうしても帰りたいというのなら、俺が連れて行くというのに」

「多忙の陛下の手を煩わせるわけにはいきません」

 私もいつもどおりの答えを返す。


 頭の後ろで、ふふっと笑う声がした。

「強情な女だ」

「可愛げがないでしょう? あなたにはもっと素敵な妃たちがいらっしゃいますよ? 私のことは、どうぞ放っておいてくださいな」

「初夜の晩に恋に落ちたと、何度言えばわかってくれるんだ?」


 私が母国に帰ろうとしている理由は、彼の妃になりたくないから。

 だけど実は、皇帝には話していない、もうひとつの目的がある。お母様に託された大切なものを、取りに行きたいのだ。


 それがなんなのかは、私も知らない。粗末な木箱に入って鍵がかかっている。十歳の誕生日に渡されて、十八になるまで開けるのも、他人に箱の存在を教えるのもダメだと言われた。 

 その大切な箱を、私は母国に残してきてしまった。


 叔父一家にみつからないようにと、大聖堂の塔に隠したのが、いけなかった。婚姻が決まったあと、どうしても取りに行くことができなかったのだ。大誤算だった。


 厳重に隠してあるから、あれを誰かに発見されることはないだろう。

 だからといって、放置することはできない。


 私は先日十八歳になったから、皇帝に訳を話して連れていってもらうことも、できるだろう。

 だけど、それはイヤ。

 信用できるかわからないこの人に、お母様の大切なものを見せたくない。


 ぽくりぽくりと、馬が進む。

 と、赤子を抱いた男が、必死の形相で走り寄ってきた。

「偉大なる我らが救世主、皇帝陛下!」

 男が叫んで、地面に膝をつく。

「妻が今しがた、五人目の子を産みました! 先の四人はみな一歳になる前に病死しました! この子は無事に成長するよう、どうぞ祝福をお授けください!」


 皇帝は馬を止めると、男に名前を訊いた。そして、片手を赤子にかざすと、

「命授かりしロイの子よ。神がそなたを祝福し、そなたを守りますように」と唱えた。

 男は泣きながら、何度も頭を下げて感謝の言葉を口にする。そこに皇帝は

「健やかに育つよう、私も祈っているぞ」と言い添えて、馬を勧めた。


 ディートリヒ・フロイデンタールは、とても恐ろしい皇帝だ。

 だけれど、暴力と女性に飢えた怪物というわけではない――と思う。


 私は母国からここの王宮に来るまでに、征服された国や古くからの帝国の領土を通った。その道中のどこの地域でも、皇帝は庶民たちに慕われ尊敬されていた。

 街中で今みたいに、祝福や子の名づけを頼まれる場面も、何度も見た。彼は一度として断ったことがない。


 前評判よりはずっと、良き皇帝なのだと思う。

 でもそれと、私が彼の複数いる妃のひとりになるのとは、別の話よね?

 何人もの妻がいるのに、『愛している』と軽々しくいう男を信用できると思う?

 第一、私にはなんの魅力もないもの。

 


 初夜延期を宣言したあとに、『気に入った! 好きに過ごしていいぞ』と言ったのは皇帝自身よ。だから私は好きに、帰国を目指させてもらうわ。


 決意もあらたに、前を見据える。すると、王宮へ戻る道ではないような気がした。

「陛下。どこに向かっているのでしょう」

「秘密だ」と、弾んだ声が返ってきた。「今日は時間があるんだ。テレーゼとデートをしようと思ってな」

「デート……」


 予想外の言葉をおうむ返ししたあとに、じわじわと不思議な感覚がやってきた。

 私には一生縁がないと思っていた、デート。

 世の中の女の子たちが憧れ、楽しそうに語り合うデート!

 それを私が……?


 皇帝が私に顔を近づけた気配がした。

「おや? もしかして喜んでくれているか?」

 耳元で甘い声で囁かれて、一気に現実に引き戻される。


 いくらデートだって、相手が彼では喜べないわ。そうよね?


◇◇


 皇帝に連れて行かれたのは、丘の上の見晴台だった。眼下には都の中心部が広がり、遠くにはうっすらと海が見える。


「絶景だろ?」と、皇帝は、彼らしくない爽やかな笑みを浮かべた。「ここに来ると、悩みも憂いもすべて吹き飛ぶ」

「……あなたにも、そんなものがあるのですか?」

「当然だろう。俺をなんだと思っている。『軍神』と呼ばれようとも、普通の人間だぞ?」

「ええと。好感度を上げる作戦ですか?」

「どうしてだ」と、彼はまたも爽やかに笑った。


 その顔は恐ろしい皇帝のものではなく、好青年のようもののように見える。

 だけど、騙されてはダメ。彼は底なしの女好き。

 どんなに素敵な笑顔でも、そこに誠意はないのだから。


 ――ただ。思いのほか、紳士的なのよね。

 彼は毎晩のように私の寝室に来て、膝の上に座らせたり、砂糖よりも甘い言葉で口説いてきたりと色々する。だけどキスは頬や額、手ぐらいに軽くするだけ。こちらが不愉快になるようなことは、してこない。


 それに全ての妃たちを丁重に扱っているみたいだ。しかも妃同士の仲も良好。

 彼が私にばかり構っているにも関わらず、ほかの妃たちは、

ディートリヒ(ディー)様は素晴らしい方よ。お気持ちに応えてさしあげて」なんて私に言ってくる。


 ここだって、とても素敵な場所ではあるけれど、彼が連れてくるようなところには思えない。

 ふもとの景色はとてもいいけれど、周りは葡萄畑しかないのだ。


 正直に言うと、ディートリヒ・フロイデンタールは、よくわからない人物だ。

 嬉々として『あそこが王宮、あっちが挙式した大聖堂』などと説明している姿は、すごく良い人に見える。


「どうした?」と彼が私を見た。「絶景より俺の顔のほうが好みか?」」

「気づいてますか? そういう発言で、好感度を下げていますよ?」

「顔を見つめられれば、誰だってそう言うぞ?」

「皇帝なのに、どうしてこんな場所を知っているのかなと、不思議に思っていただけです」

「最初から皇帝だったわけではないし、民の暮らしを知らぬ為政者など存在してはならないだろう?」

「……そうですね」


 彼から目をそらし、かすんで見える海に視線を向けた。


「私の両親も、そういう考えでした。国内の視察も頻繁に行っていて」

 かつての事故の記憶がよみがえる。

「八年前、その最中に予定変更をして、山腹の町に向かったんです。前日の豪雨で、甚大な被害が出たとの報告があったためでした」


 子供の私は王宮で留守番をしていたから、現場を見てはいない。

 災難から逃れた者の証言によると、両親の馬車が川にかかる小さな橋を渡っているときに、鉄砲水に呑み込まれたのだという。

 両親や侍従侍女に騎士たち。たくさんの人が亡くなった。


 再びディートリヒ・フロイデンタールの顔を見た。


「とても立派な理念です。けれどやはり、用心するに越したことはないと、思ってしまいますね。あなたが民に慕われている為政者ならば、なおさらのこと」

「……肝に銘じよう」


 彼の無骨な指が、私の頬に触れた。

「キスをしてもいいか?」

 唐突すぎる言葉に、一瞬意味がわからなかった。


 ゆっくりと反芻をして、キスをねだられたのだと気づく。

 こんなことを訊かれるのは、初めてだ。でも、もちろんのこと、答えは否だ。


 だけど、どうしてなのか、言葉が出なかった。

 ディートリヒ・フロイデンタールは、信じがたいほどに真剣な表情だった。私に向ける目には、熱がこもっている。

 まるで本気で、私を好きかのようだ。


 返事ができないでいると、彼の指がゆっくりと頬をなぞった。

「愛おしい」と熱のこもった声で囁かれる。

『お断りよ』と言わなければいけないのに、唇は動かず目は彼からそらせない。


 だめよ。

 しっかりと断らなければ。このままではキスされてしまう。

 彼が私を好きだなんて、解釈違いもいいところ。ありえないわ。


 と、頬に添えられた彼の指が、ピクリと動いた。同時に皇帝の顔に緊張が走る。

 かと思いきや、次の瞬間には彼の背中が私の目の前にあった。


 なにが起きたのか、わからない。

「なんだ、貴様らは」

 彼から戸惑いの声がする。大きな背に遮られて前が見えない。けれどいつの間にか、彼の右手に剣が握られている。なんだか鼻につくいやな匂いもする。


 まさか敵襲?

 皇帝の背から離れて、前方を伺う。複数の人影が見えた。だけど――


「なんなの、あれは……」

「隠れていろ!」

 皇帝の鋭い声が飛ぶ、


 私たちは剣を構えた数人に、半円を描くように囲まれている。

 ただ、その人たちがどうみても、生きていない。腐った死体に見えるのだ。


「あれらは俺がかつて殺した、隣国の王族だ」

 私ののどから声にならない音が漏れた。

 一体何が起こっているの?

 死んだ人間がふたたび動くなんて、怪異譚の中でしか聞いたことがない。


「さがってろ!」皇帝はそう叫ぶと、剣を大きく振った。なにかを断ち切る音がして、首が飛ぶのが見えた。

 皇帝はすさまじい速さで、次々と死人を倒して行く。

 私は彼の無事を、神に祈ることしかできない。

 必死にその背を目で追う。と、視界のすみで何かが動いた気がした。


 目をむけようとしたところで、腐った手で腕を掴まれた。

「ひっ!」

 掴んできたのは、皇帝に切られたはずの死体だった。頭がないのだ。


「テレーゼ!」

 皇帝が死体の腕を切り落とし、私を抱えた。


「くそっ、キリがない!」

 体の一部が欠けた死人たちが、剣を手に迫って来る。

「こうなったら……」と彼は私を左肩に担ぎ上げた。

「なにをするの!」

「テレーゼだけでも、無事に帰す。心配するな!」

「バカなことを言わないで! あなた、皇帝でしょ!」

 逃亡ばかりしている妃より、自分の命を守らないと!


 だけど彼は私を担いだまま、死人たちに突進した。彼らの向こうに皇帝の愛馬がいるのだ。

 きっとそこまで走り抜けて、私を乗せるつもりだ。自分がどうなろうとも。


 そんなのイヤだわ。

 ディートリヒ・フロイデンタールに死なれたくない。

 神様。お願いです。

 これら魔性のものを退けて――。


 手を組み祈る。

 と、自分の内で、なにかが弾ける感覚がした。次の瞬間、光の爆発が起きた。

 それを浴びた死人たちが、砂のようにさらさらと崩れていく。


 やがて光は弱まり、おさまった。

 私は肩から降ろされた。死人はひとりもいない。すべて消え去っている。


「なにが起きたの?」

 皇帝を見上げると、彼はしかめた顔で私を見ていた。

「お前から光が発したように見えた。もしかしてテレーゼ、お前は伝説の聖女なんじゃないか?」

『まさか』と答えようとして、彼の顔には大量の汗が浮かび、腹部と右腕が血にまみれていることに気づいた。


 思わず息をのむ。

 それに呼応するかのように彼は崩れ落ち、地面に膝をついた。

「陛下っ!」

「テレーゼ、馬に乗れるか?」問う声は苦し気だ。「俺は無理だ。お前ひとりで街におりろ」

「ダメです!」

「テレーゼの言うとおりだ」と彼は顔に脂汗を流しながら笑みを浮かべた。「用心が必要だったな。危険な目にあわせて悪かった」


 私は上着を脱ぐと、彼の腹部に当てた。でもこんなものでは止血にならない。

 どうしよう。私は馬に乗れない。彼もこの傷では、たとえ乗れてもさし障るだろう。彼を助けるためには、どうればいい?


 彼の無骨な指が、私の目元に触れた。

「俺のために泣いてくれるのか」

「陛下っ!」

「一度でいいから名を呼んでほしかったぞ……」

 恐ろしいはずの皇帝が、はかなげに笑う。


「ディートリヒ様!」

 彼は微笑むと、私にもたれかかった。あまりの重さに尻もちをつく。

「ディートリヒ様!」

 反応がない。


 いくらなんでも皇帝が、偽物の人質姫をかばって死ぬなんて、ありえなくない?

 本当に私なんかを好きなの?

 そんなの、絶対におかしいわ!

 解釈違いだと言っているでしょう?

 まだそれを認めさせていないわ!


 私は手を組んだ。

「神よ、この方に祝福を! お願いです。きっと多くの民も、そう望むでしょう!」

 また、光が爆発した。

 しばらくたつと、先ほどと同じように弱まり消えた。


「ディートリヒ様!」

 彼の体をゆする。

「ん……」とのうめき声。

 それから彼は、ゆっくりと体を起こした。

「あれ、痛くないな?」そう言って彼は自分のお腹をさすった。「治っている。テレーゼが?」

「ど、どこの世界に人質をかばう皇帝がいるんですか!」


 ぽこぽこと皇帝を叩いてやる。


「違うぞ。愛しい女を守ったんだ」と彼が微笑む。

「そんなの頼んでません!」

「テレーゼに愛してもらうためなら、どんなことも厭わないと言っただろ?」

「それもおかしいですってば! そもそも私を好きなんて解釈が違いすぎます!」

「わかった、わかった」皇帝が私を抱き寄せた。「だからそう泣くな。テレーゼに愛されていると勘違いをするぞ? いいのか?」

「違いますっ! これは怖かっただけです!」

「そういうことに、しておこう」


 額に温かくて柔らかな感触がした。

 信じられない。この皇帝は、本当におかしい。


◇◇


 皇帝を襲撃した死人たちは消え失せてしまったけれど、私たちの話から学者たちは魔術によるものだったのだろうと結論付けた。

 まるでおとぎ話のようだけど、かつては魔術は確かに存在したのだという。そして、聖女という存在も。


 私から発された光とその効果は、皇国に伝わる大聖女の起した奇蹟と完全に一致するのだとか。

 皇帝にはあれこれと尋ねられたけれど、私にはまったく心当たりがない。自分は普通の人間だと思って生きてきたし、今後もそのつもりだ。

 私に甘いあの人は、私に関することはすべて内密にしてくれた。知っているのは上層部と学者の一部だけ。


 私は、なんの奇蹟も起こさない。普通の人間。

 ただ、私を助けてくれた人の命を救えたことは、神に感謝している。

 それ以上でも以下でもない。


 と、思ったのだけど、死人の襲撃が誰かの意思ならば、また同じように不可解なことが起きるということだ。

 皇帝が暗殺されるのは、可哀想な気がする。帝国民にとっては良い君主のようだし。命の恩人だし。それに――


 事件の翌日、彼の六人の妃がそろって訪ねてきた。そして婚姻の秘密を教えてくれたのだ。

 彼女たちも私も、保護を目的として彼の妃に迎え入れたのだ、と。

 妃全員が、実家や預けられた先で虐待にあっていたという。

 彼がなぜ不遇の令嬢たちを助けるのか、それがなぜ婚姻という形になるのかは、誰も知らないという。


 そして婚姻は形式だけ。六人全員とも白い結婚で、彼女たちが望めば離婚も可能。その際の『慰謝料』もすべて挙式前に取り決め済みなのだとか。


「私はなにも聞いていないです」と戸惑うと、彼女たちはうなずいて、口々に

「あなたは王宮への到着が遅れたでしょう? その直前にディーも緊急に対応しなければならないことが起きて、事前に説明できなかったのよ」

「そして説明をする前に、あなたが素晴らしい啖呵を切ったと聞いているわ」と言った。

「……もしかして私、いらないことを宣告してしまったのですか?」


 私の恐る恐るの問いに、六人の妃は一斉に首を縦に振った。

 そして彼女たちが言うには、私を気に入った皇帝は、真実を私に伝えることを皆に禁じたという。自分の魅力だけで私に愛されたいからだとか、言って。


 意味がわからない!

 誤解は早々に解くものではないの!?


「ディーは本気であなたを好きなのよ。私たちにあなたを正妃にすることに決めた、公平性が崩れて済まないと謝ったのですからね。だからちゃんと、彼と向き合ってあげてほしいわ」

 妃たちは混乱する私に、そう告げたのだった。


◇◇


 柔らかな芝生の上に座り、ぼんやりと王宮の敷地を囲う鉄柵を見る。

 向こう側には通行人が何人か。私に奇異の目を向ける人もいるけれど、たいていの人は足早に通り過ぎていく。


「今日は脱出しないのか?」

 頭の上から声が降ってきた。

 見上げると、笑みを浮かべた黒髪黒瞳の偉丈夫が私の顔をのぞき込んでいた。


「……本当に見つけるのが早いですね。どこに監視がいるのか、まったくわからないのに」

「一流の人材を揃えているからな」

 皇帝はそう言って、私を抱き上げて立たせた。


「いいんだぞ、逃げて。好きだろ?」

「私だって、あなたを危険にさらす行為を控えるぐらいの良識はあるんです」

「それは知らなかった」と彼は笑うと、私の髪を一束手にして口づけた。


「安心するといい。これからは近衛を一隊率いて、連れ戻しに行く」

「市民が驚きます!」

「いいじゃないか。どうせ妃テレーゼと俺の攻防は都中に知れ渡っている」

「……ごめんなさい」


 そのせいで彼は襲撃されて、死にかけたのだ。私はとんでもない考え無しだった。

 彼の手が頬にそえられる。


「しょんぼりするな。俺は楽しいぞ? 好きな相手を追いかけるのは心が躍る」

「私は追いかけられるのは嫌いです。解釈違いですね」

「少しは元気が出てきたか? お前がしょんぼりしているのは調子が狂う」


 でも、私も同じだわ。調子がおかしい。

 触れられた頬が熱いもの。

 彼の好意は本物かもしれない。そんなことを知ってしまったせいで、落ち着かないの。

 だったら、私がすることはひとつ。


「それなら、お言葉に甘えて」

 そう告げると地面を蹴って反回転し、駆け出した。

 足には自信がある。

 だけど、どうせ――


 いくらもいかないうちに、

「捕まえた」と後ろから抱きかかえられた。

 そうよね。『軍神』の呼び名は伊達ではないものね。

「少しは遠慮をしてくださいな。追う楽しみがほしいのでしょう?」


 皇帝が笑って、私の額にキスをする。温かくて柔らかな感触。

「これも楽しいから、いいんだ」

「おかしな皇帝陛下だこと!」

 顔が熱い。

 彼に抱きしめられてその体温を感じてほっとするなんて、絶対におかしい。


 私の胸がこんなに高鳴っているのも、解釈違いよ。

 しっかりしなさい、私!




 だけど、もしかして。

 ディートリヒが本当に私を好きならば。考えを改めてもいいのかしら……?

  


《 おしまい 》


☆おねがい☆


おもしろいよ!と思ったら、いいねや☆を押してもらえると、嬉しいです!


感想を言いたいけど、なにを書けばいいかわからない…という方、ひとこと「読んだ!」や顔文字「ヾ(*´∀`*)ノ」でも、新はとても嬉しいです!


☆おしらせ☆


『私を殺す攻略対象と、赤い糸でつながっているのですが!?』を連載しています!

よければチェックしてみてくださいね!


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― 新着の感想 ―
祖国に置いてきた箱は何だったの? 書かないのであれば、そのくだりは要らなかったのでは・・・?
お母様の形見の回収はされないのでしょうか?
好きな展開の話でした〜 きっと他の後宮の皆様も、私と同じ気持ちで二人を見守っているのかな。
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