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ふえふきといぬたちのおはなし

作者: あぼがど

ここではないどこかで、いまではないいつかのこと。



あるくにの、あるまちの、あるひろばで、どこからきたのか、みしらぬひとりのおとこが、ふえをかなでておりました。


ひろばのまんなか、まちのしょうちょうのようなふんすいのいしがきにこしをおろして、まだおてんとうさまはそらのまなかにさしているのに、


まるでゆうぐれどきのようにどこかものがなしいきょくをならしておりました。


そのしらべを、まちのひとたちはうっとりと、でもとおまきにして、おそるおそるにきいているのです。


それというのもそのふえふきのまわりには、これもどこからきたのか、いろもかたちもおおきさもてんでばらばらの、かぞえきれないほどたくさんのいぬたちが、


おもいおもいにはべっていたからなのでした。


ちいさなものではおざしきのじょうとうないすのうえにもおさまりそうなものから、おおきなものではむくなひつじのむれをまもれそうなものまで、それはそれはたくさんのいぬたちなのでした。


むろん、まちのひとたちもいぬがきらいなわけではありません。なかにはよろこんでかけよろうとするこどもたちもいるぐらい。


でも、こんなにおおくのいぬたちが、ただのいっぴきもくさりでつながれぬままにいるのでは、どれほどのいぬずきといってもうっかりとはちかよれません。


かけよろうとするこどもたちも、すぐにおやごさんたちのてでひきもどされてしまいます。


そんなひとびとのようすをしってかしらずか、ふえふきはただめをとじて、どこかものがなしくふえをかなでているのです。


――もしもし、そこのきみ


このまちのけいさつかん、こんのせいふくにきんもーるをかざったじゅんさがゆうをけっしてふえふきにこえをかけました。


できるだけいかめしく、せいいっぱいにちからをこめたつもりでしたが、こんなにたくさんのいぬのむれをまえにしては、どうしたっておっかなびっくりになってしまうものです。


――こんなところでなにをしておるのかね


――なにってぼくは、ただふえをふいているのですよ


ふえふきはぴょんとたちあがり、めをぱちくりさせてこたえました。まるでなにかのてちがいにたったいまきがついたかのように、それはそれはひどくおどろいたようすでした。


――ひょっとして、ここではふえをふいては、いけなかったのでしょうか


――あー、いや、そうではなくてね


そうぞうしていたよりもずっとていねいなものごしでこたえがかえってきたので、じゅんさのほうでもめんくらってしまいました。「ひろばでふえをふくべからず」なんてほうりつはありません。


――いったいぜんたい、このいぬたちは、きみがつれているのかね。こんなにたくさん、なんびきも


――ええ、みんなぼくのともだちなんですよ


ふえふきは、にっこりわらっていいました


――くびわもつなもつけないなんてけしからん。あばれだしたらたいへんじゃないか


――ともだちですから、くびわなんてつけませんよ。それにだいじょうぶ、けしてあばれたりなんかしません。これまでいちども、そんなことはありませんから


――これまでなんてしるものか。これからのことがしんぱいなのだ。まんがいちのことがあったらどうするつもりなんだ


ふえふきがすこしもどうじずににこにこわらいながらいうので、じゅんさはついかっとなっておおごえでどなってしまいました


どなりつけたあとできゅうにいぬたちのことがきになって、きょろきょろとあたりにめをやってしまいます


けれどもいぬたちはすこしもじゅんさにうなったりほえかかったりはしないのです。ただちょっとふしぎそうに、ふたりのやりとりをながめているのでした。


――あー、よくしつけられているようだが


――しつけているんじゃありません。ただなかがよいだけですよ


あいかわらずふえふきはただにこにこしているだけなのです。むれのなかからどこかでいっぴき、わん!とげんきにほえるいぬがいて、ふえふきはうれしそうにそちらをみつめました。


――ああ、そうなんだ。ここはきみのばしょ、いまはきみのばんなんだね


――きみはいぬのことばがわかるのかね


じゅんさはひどくおどろいていいました。まるでふえふきがいぬにへんじをかえしたかのようにみえたからです。


――いいえ、ことばはわかりません


ふえふきはすこしだけさびしそうにいいました


――でもきもちはわかるようなきがするのです


それだけいうとふえふきは、ぺこりとあたまをさげてじゅんさにいちれいし、まちのひとにもきこえるように、これはすこしおおきなこえでいいました。


――なんだかどうも、おさわがせしたようでたいへんもうしわけありません。さいわいぼくのようじはすみましたから、これでおいとまいたします


――おいおいまちたまえ、きみ、このままいってしまうというのかね


なぜだかじゅんさはあわてていいました。


――こんなにたくさん、いぬをつれて、いったいどうやってせわをしているんだ。えさやりだって、みづくろいだって、ただいっぴきのいぬをかうだけでもたいへんだというのに


――おや、あなたはいぬをかっているのですか


――いや、むかしのことだよ。いまはもう、いぬをかってはいないよ


じゅんさはずっとわすれていたかなしいことをおもいだしていました。それはかなしいことばかりではなく、たのしいこともあったのですが、さいごはかなしいおもいででおわっていることなのです。


――しかしね、だからわかるのだよ。こんなにたくさんのいぬたちを、きみひとりでまんぞくにやしなっていけるわけがないだろう。いくらよくしつけられているからといって、げいでもさせるつもりかね


――そんなことはしません。ぼくらはただたびをしているだけなのです。しょくじのことも、みづくろいのことも、たいへんですけれど、なんとかやっていけますよ


おおぜいのいぬたちは、いろもかたちもおおきさもてんでにばらばらでありましたが、よくよくみればどのいぬも、いろつやけなみもきちんとしていて、ただのいっぴきでさえおなかをすかしていそうなものとてありません。


みなげんきでせわもていれもゆきとどいているのでした。


――ううむ、しかし、そうはいってもね


べつだんじゅんさのしょくむじょう、ふえふきをとどめておくりゆうもひつようもないのですが、だからといってただこのまま、ふえふきとなによりそのいぬたちを、だまってたちさらせるのも、なぜだかじゅんさはこころもちがおちつかなくなるのでした。


――だいたいこのさきいくあてはあるのかね。こんばんだってこれからさき、どこでよるをあかすというのか


――さあ、そういうことはわかりません。けれでもとくにしんぱいもしていません。おおぜいいますし、きっとだいじょうぶですよ。じゃあ、さようなら


やっぱりにこにこしたままでふえふきがいってしまうのを、じゅんさはさいごにいいました。


――あてがないならみなみのほうにいってみたまえ。さびれてしまったのうじょうのあとがあるから、そんなにおおぜいでもきっとよつゆをしのげるやねがある。たべるものだってなにかのこっているかもしれないよ


――ごしんせつに、どうもありがとう


ものがなしいふえのねをかなでながら、ふえふきはさっていきました。おおぜいのいぬたちがそのあとをついていきました。とおまきにみていたまちのひとたちがそれぞれのくらしにもどって、


じゅんさもまたじぶんのしごとにもどろうと、きびすをかえしたそのときに、


――おや


と、あしもとにめをやりました。


――これは


やわらかくてあたたかくてふわふわしたいきものが、まっすぐなまなざしでじゅんさをみつめていたからです。


――そんなはずは


なぜなら、そのいぬは。

 


そしてまた、ここではないどこかで、いまではないいつかのこと。


 

まなつのあついひざしをうけて、けいりゅうをながれるかわのせせらぎも、きらきらとてりかえすころあいに、どこからともなくあきのたそがれをおもわせるような、さびしいふえのねがきこえてきました。


――おとうさん、なんだろうね、あれは


――なんだろうってそりゃきっと、だれかがふえをふいているのさ


ふたりづれのおやこが、かわのなかほどまであしをふみこんで、けばりをつかってけいりゅうづりをしているのです。


おとうさんはいろいろとむずかしいこともあぶないことも、かんでふくめてむすこにおしえているのですが、なぜだかそのひはちっともさかながかかりません。


ふたりともそろそろつかれて、ひとやすみしたいなあとかんがえていたところだったので、さびしくきこえるふえのねも、かえってきもちのやすまるねいろにきこえてくるのでした。


おたがいくちにだすともなく、しぜんとかわらにあしをむけ、やまをおりかわをくだるくうきをむねいっぱいにすいこんで、せいいっぱいにのびをすると、


とつぜんにおとこのこがかりゅうのほうをゆびさしていいました


――おとうさん、あれ、あれをみてよ


ふたりのしもてにちょっとはなれてけいりゅうにかかっているはしのうえを、だれかがわたっているのです。


いささかのとおめでも、そのひとがふえをふいているのがわかりました。けれど、もっとおどろくことには、


――おとうさんいぬだよ、いぬがあんなにたくさんいるよ


そのふえふきのあとにつらなって、いろもかたちもおおきさもてんでばらばらの、なんびきものいぬたちが、ともにはしをわたっていくのです。


――へええ、これはまたずいぶんとかわったことだなあ。まるでなんだか、むかしきいたおはなしのようだ


おとうさんはいうのですが、どうにもそのおはなしのだいめいがおもいつきません。ひどくむかしに、すっかりわすれてしまっているのです。


――うん、はーめるんのふえふきのようだね。でも、すこしちがうよ


おとこのこのほうはおはなしのだいめいもないようもちゃんとわかっているのでした。


――はーめるんのふえふきは、ねずみをつれているんだよ。そうじゃなければ、さいごには


それをきいておとうさんもすっかりそのおはなしをおもいだしました。さいごはとてもかなしくおわる、そのおはなしは、


――こどもたちをみな、さらっていってしまうのだったね


それといっしょに、やっぱりずっとわすれていたかなしいことをおもいだしていました。それはかなしいことばかりではなく、たのしいこともあったのですが、さいごはかなしいおもいででおわっていることなのです。


――そういえばちょうど、おとうさんがまだおまえぐらいのとしだったころにね


そういいかけたそのことは、わん!とひとこえいぬがほえたのでとちゅうでおわってしまいました。それといっしょにざぶん!となにかがかわにおちるようなおとがして、ざぶざぶざぶ!とかわのながれをものともせずに、なにかまっすぐでげんきのよいちゅうじつなものがこちらにむかっておよいでくるのです。


――おや


はしのうえではふえふきが、こちらにむけてなにかいっているようでした。


――これは


かざむきのせいでかなにか、そのこえはうまくききとれなかったのですが、おとこのこはともかくおとうさんのほうは、かわらにあがってぶるぶるとぜんしんのみずをはじきとばしているものをみつめつづけていたので、ちっともきがつきませんでした。


――そんなはずは


なぜなら、そのいぬは。

 


そしてまた、ここではないどこかで、いまではないいつかのこと。

どろぼうは、うまれてはじめてのどろぼうしごとにてをそめようと、あきのよながのつきのひかりがくもまにかくれるそのよるに、ようじんしいしいおやしきのへいにのぼりました。



よのなかなにをなしてもうまくはいかぬ、このままではきるものたべるものにもことかいて、すむところさえおいだされ、さてあすからはろとうにまようか。いくすえもしれぬなげきのうちに。


おとこがふらふらさまよいあるいてついたさきは、まちのはずれのおおきなおやしき。おおきいけれどもうらさびしくて、かたくとざされたもんからは、すむひとのけはいもくらしのけしきもみえません。


――そういえばこのおやしきにはおじいさんがひとりでくらしているんだっけ


――ざいさんもありそうなものをぶようじんだとだれかがうわさしていたなあ


――どろぼうにはいられたらたいへんだろうに


――あっ、そうだ、うまいことをおもいついたぞ


おとこは、こんなにきらくにぬすみにはいれるおやしきをめのまえにあたえてくれたどろぼうのかみさまにかんしゃして、そのときそこでじぶんもどろぼうになることにしました。


まずてはじめに、どこかかんたんにしのびこめるばしょがないかとおやしきのまわりをあるいてみます。するとふかくかんがえるまもなく、いっぽんのたいぼくがうらべいのきわにのびているのをみつけました。


これならかんたん、えだぶりもふしもさまざまにつきだされた、こどもにでもたやすくきのぼりできそうなろうぼくなのです。


――しめしめ、はしごをよういするひつようもないとはありがたい


――あとはそうだな、なにをすればよいか


なにしろうまれてはじめてのこと、どろぼうのどうぐだてさえわかりません。おおぶろしきのひとつでもあればよいのでしょうが、あいにくもちあわせはありません。


――まあいいさ、こんなおおきなおやしきに、ふろしきのひとつやふたつ、ないわけがあるものか


どろぼうはこころのうちにまだありもせぬおおぶろしきをひろげておもって、あとはよのふけるまでたいぼくのねもとでうとうととうたたねしてすごしました。


――おっといけない、すっかりねいってしまった


どろぼうはなにかのものおとにきづいてめをさましました。なにかずいぶんとたのしいゆめをみていたようなきもするのですが、なにひとつおもいだせません。


よぞらはいちめんくもにおおわれ、ちゅうしゅうのめいげつもひっそりとすがたをかくしてまさにどろぼうむけのおてんきです。


ふつうだったらぐっすりとねこんでしまうようなくもゆきに、なぜだかめざめたどろぼうは、これもきっとどろぼうのかみさまのおめぐみにちがいないとおもったそのとき


おやしきのなかからふえのねがきこえてきました。


――やれやれ、ふうりゅうなじいさんだなあ


あいてがねいっているうちに、こっそりしのびこもうとおもっていたどろぼうは、すこしばかりこまったことになりました。


でも、よくよくかんがえてみればおきていたってあいてはひとり、ただのろうじんです。どうにだってなりそうなものです。


――よし、そのふうりゅうなふえのひとつも、いっしょにぶんどってしまえ


いっとけついしてどろぼうは、たいぼくのみきにてをかけました。おやしきからはもういちど、くもまにかくれたつきのように、どこかつめたいけれどなにかやさしいふえのねが、しずやかにきこえてきたのです。


――さて、よじのぼったはいいが、どこからてをつけるとしよう


へいのうえからどろぼうは、おやしきのようすにめをこらしました。あんにそってかいにはんしてか、えんがわにもにわさきにも、ひとのすがたはみえません。


ひょっとしたらこのおやしきにすむろうじんが、よるにふえをふいているところで、こちらのすがたをみとがめられるかとおもってもいたのですが。


――ええい、ままよっ


どろぼうはおやしきのにわにとびおりました。きっとどろぼうのかみさまが、いまもみまもっているにちがいないと、てまえがってなしんじんをたのみに、ひたひたひたとちかよっていくのです。


そらはまっくらあしもともしかとはみえず、どろぼうはおおきなにわいしのかげにかくれます。こけむしたいわのかげからようすをうかがおうとみをのりだしたそのしゅんかん、


どろぼうはそれがにわいしでもなければこけむしてもいないことにきがつきました。


ふえのねがしずかにかなでられるうちに、すずしげなかぜがにわのなかをふきぬけていって、よぞらにもまんまるのつきがかおをだし、あたりをあかるくてらすのです。


きがついてみればどろぼうは、いろもかたちもおおきさもてんでばらばらの、にわいしだのうえこみだのとおもっていたものがぜんぶ、しずかにふせていたいぬたちのあいだにまぎれこんでいたのです。


みをかくせるほどのおおきさだとおもっていたにわいしは、みをかくしてしまうほどのおおきさの、それはそれはりっぱないぬだったのでした。


――もし、そこのかた


ものかげからみをおこしたふえふきがこえをかけるまもあればこそ、わん!とひとこえほえあげたにわいしならぬおおきないぬにおどろいて、どろぼうはいちもくさんににげだしました。


――どうかいたしましたかな


ものおとにきがついて、おやしきのろうじんがえんがわにおりてきました。うでにはちいさなあいくるしいいぬをいっぴき、たいせつなゆうじんのようにかかえています。


――めずらしいこともあるもので


ふえふきはにこにこわらっていいました。


――きょうはいちにちにふたりもばんがまわってきたようです


――ほう、それはまたよろこばしいことですな


――ええ、とてもうれしいですね


ふえふきもろうじんも、ふたりともとてもしあわせそうにみえました。


でもどろぼうは、それどころではありません。


――ちくしょうめ、ちくしょうめ、なにがひとりぐらしだぶっそうだ


うまれてはじめてのどろぼうしごとにしくじって、ちからのかぎりにおおいそぎでにげているのです。ああ、どろぼうのかみさまなんていやしない。おとこはそうおもいました。


――ああでもきっと、あのいえはおおがねもちだったにちがいない


――なにしろあんなにたくさんの、いぬをかっていたのだから


さやけきつきのひかりにちらりとひとめみただけでにげだしてきたのだからしかたがないのですが、おとこはにわにはべっていたいぬたちに、ただのいっぴきもくびわもつなもつけられていなかったとはきがつきませんでした。


――ああ、ちくしょうめちくしょうめ


ただおおきなおやしきのおおきなにわに、たくさんのいぬがいたことだけが、やけにくやしくおもいだされてくるのです。


――あんなにたくさんいるのなら、おれにだってひとつくらい


――むかしは、まだこんなめにあうとおもっていなかったころは、おれにだって


おとこはずっとわすれていたかなしいことをおもいだしていました。それはかなしいことばかりではなく、たのしいこともあったのですが、さいごはかなしいおもいででおわっていることなのです。


たちどまり、そのおもいでにひたっていたいとおもったのですが、おとこのにげあしがとどまることはありません。


なぜなら、おやしきからいのちからがらにげだしたというのに、そのあとをおってくるものがあるのです。


にんげんとはおもえぬそのけんきゃくにたちどまるすきさえありません。


だんだんとそのいきづかい、けはいやようすがおとこのはだにじかにつたわるほどになって、もはやこれまでとおとこはふりかえりました。


――おや、これは、そんなはずは


かっぱつでゆうきあるよろこばしいものにおおいかぶさられほほをなめられ、ひとはだよりもあたたかなものにくるまれて、おとこはなにかものをかんがえるどころではありませんでした。


なぜなら、そのいぬは。

 


そしてさらにずっととしつきをへてとおくはなれた、ここではないどこかで、いまではないいつかのこと。

 


四角いビルが建ち並び、四角く延びる道路が通る、四角い区画の街並みに、真っ黒な自動車が走っていました。


お仕着せの運転手がハンドルを握るその自動車の、飾り立てられもせず素っ気ないバックシートには、この街いちばんの実業家が、むっつり黙って座っていました。


市長も銀行も新聞社も、誰も皆頭の上がらぬ街一番の実力者は、指一本を動かしただけで誰でも自由に命令できるほどの権力の持ち主でしたが、それでも影では血も涙もない奴だと誰からも囁かれる、家族も友達も持たぬ人物でした。


普段でしたら運転手風情には口も聞かぬような傲岸不遜なそのひとが、その日その時に限って突然、大声を張り上げたのです。


――おい、君、ちょっと車を止めてくれないか


思いも寄らぬその声に、運転手は真っ青になってブレーキを踏みました。職業倫理はこんなときでも働いて、タイヤが悲鳴を上げるようなことは無かったのですが、内心では自分が何か大失敗でもしでかしたのではないかと不安でたまりませんでした。


――旦那様、わたくしになにか至らぬ事でもありましたでしょうか


恐る恐る振り返った運転手は、しかし主人が車窓から一心不乱に外を見つめているのを目にしてもっと驚き慌ててしまいました。


血も涙もないと誰からも囁かれるこの実業家が、今にも泣き出しそうな顔をしていたからです。


――い、いったいどうなさって


声を掛ける間もあらばこそ、実業家は自分の手で自動車のドアを開いて、そのまま脇目も振らずに外に出て行ってしまったのです。


行き交う車はホーンを鳴らし、中には罵声を浴びせる者とておりましたが、常日頃ならいざ知らず、実業家は周囲の雑音など意に関せずに、街角にある小さな公園へと足を速めました。


運転手が目を凝らせば、小さな公園の小さなベンチで、誰とも知れぬひとりの男がただ笛を吹いているだけ。


その傍らには何とも知れぬ犬が一匹ただうずくまっているだけ。


ただそれだけの風景なのです。


――いや


けれども実業家にとってはそれだけのことではありませんでした。


――こんなことが


芸をするでも無くただじっと笛の音を聞いているその犬は、高級な種類で血統書が付くようなものでもなければ、警察や山岳で立派な仕事に就くようなものでもありません。


――あるはずがないのだ


何の変哲もない、何処にでも居そうなただの雑種ですから、首輪も綱もないその様子からは駄犬とも野良犬とも呼ばわりされても仕方がありません。


――しかし、やはり、これはたしかに


なぜなら、その犬は。


その色も形も大きさも、実業家が昔飼っていた犬とうり二つなのでした。誰に判らなくとも自分だけにははっきりと解るその姿を目の前にして、実業家はずっと忘れていた悲しいことを思い出していました。


それは悲しいことばかりではなく、楽しいこともあったのですが、最後は悲しい思い出で終わっていることなのです。


笛吹きの足下にいたその犬は、足音に気がついたのかおもてを上げて、わん!とひとこえ吠えました。


それは懐かしい友達にもう一度巡り会ったかのように喜びに充ち満ちた犬の言葉だったのです。


――おや、どうなさいました


笛吹きは目の前の上等な衣服を纏った紳士に声を掛けました。背広の仕立てもネクタイの柄もシャツの縫い目も全部が全部上等でしたが、ただその表情だけはいまにも乱れて落ちそうです。


――い、いや、これは失礼した


実業家は慌ててハンケチを取り出し目もとをぬぐいました。


――あまりにその、貴方の連れている犬が素晴らしいものでしたからな、つい車を止めてしまって


と、あらためて見たその犬は、しかし自分の身なりや様子とはあまりに不釣り合いなのです。


――いやその、決して高価だとか立派だとかそういうことではなくてですな


実業家はしどろもどろに言いました。


――それでもこの犬は、わしがむかし、まだ子どもの時分に飼っていた犬に、何故だか知らんがそっくりでしてな、その…


犬の方ものどをごろごろ鳴らし、尾っぽをわさわさ振り立てて実業家のもとにやってきます。そうしてそのまま実に嬉しそうに身を寄せるのでした。


犬の毛が上等なズボンの裾にまとわりつくのも気にならず、もうすっかり笑顔がこぼれる実業家は、それでも腑に落ちない様子でした。


――そんなことがあるはずもないのに、何故だかまるで昔の友達が帰ってきたような、そんな気分になってしまってね


――ああ、君が最後の一人なんだね


笛吹きはにこにこ笑って言いました。


――それは君が昔いっしょだった犬なんだよ。君の古い友達、大切な家族だったのはまさにその犬なんだ


 


――そんなことあるわけないよ


おとこのこはなきそうなかおでいいました。


――ぼくがいぬとくらしていたのはずっとむかしのことなんだ。いつもいつもいっしょにいて、どこにだってでかけてあそんでいたのに


――でもいなくなってしまったんだ。あるひ、とつぜんに


――ぼくはとってもかなしくて、ずいぶんさがしたんだ。ちいさなころから、おとなになるまで。けれどもぜんぜんみつからなくて、やっぱりとってもかなしくて


――でもいつかはわすれてしまっていたんだ。あれからずいぶんねんげつがすぎて、ぼくはすっかりとしをとってしまった


――ぼくはながいきしてきたけれど、いぬはそんなにいきられないんだ。そういういきものなんだって、みんないうから、だから


なきじゃくるおとこのこをなでて、ふえふきはもうしわけなさそうにいいました。


――ずいぶんじかんをかけてしまってすまないね。ぼくがいぬのことばをわかればよかったのに、そうすればもっとはやくにきみのもとにこられたのにね


――でもおねがいだ、どうかなきやんでくれないか。こうしてふたりはもういちどあえたのだから。これからずっといっしょにいられるのだから、ね


――でもでも、もう、あのいぬはしんでしまっているはずだって


――そんなことないよ。こうしてちゃんとかえってきたんだ。ああ、ゆうれいかなにかだとおもっているのかな。あしはほら、なんぼんある


――よんほん


――ながいじかん、ながいきょりをそのあしで、しっかりときみのもとへかえってきたんだよ。だからほらもうなきやんで、どうかわらってむかえておくれ。そのほうがぼくにはうれしいな


――ふえふきさんが、つれてきてくれたの


――いやいや、ぼくはただおてつだいをしただけさ。いぬたちはみんな、じぶんのかえるばしょをじぶんでわかっているのだから


――みんなって、ほかにもいるの。まだべつにいぬをつれているの


――むかしはね、たくさんいたのさ。きみたちのようにはなればなれになってしまったかわいそうないぬたちがおおぜいいたんだ。ぼくはそのいぬたちとともにあるいて、もとのおうちにかえそうとたびをつづけてきたのだけれど


ふえふきはまたもうしわけなさそうにかおをくもらせていいました。


――きみのばんが、さいごになってしまった。もっとはやくにくるべきだった。ごめんね、ほんとうにすまない。きみがひとりぼっちですごしたじかんとばしょをおもえば、わびようもないことだ


――ぼくが、さいご…ねえ、だったらほかのいぬたちは、みんなおうちにかえれたの。ぼくのほかには、もうさびしいおもいをしてるひとはいないの


――うん、もうみんなぶじにもとのうちにかえっているよ。いまではだれも、さびしいおもいはしていない


――だったらもう、じゅんばんなんてちっともかんけいないよ。ありがとう、ふえふきさん。ぼくのともだちをつれてきてくれて。もうにどとあえないとあきらめていたおもいでを、よみがえらせてくれて


――なに、これがぼくのみちだからね。やるべきことを、しただけさ


 


――そうだ、ずっと気になっていたのだが


実業家は愛おしそうに犬を抱え上げて言いました。


――あの時どうして突然姿を消してしまったのだろうか。わしはなにか良くないことを、気付かぬうちにこの犬にしてしまったのだろうかと悩んでいたのだ。こうして無事会えても、また同じ事を繰り返さぬだろうか


――そんな心配いりませんよ


笛吹きはにこにこわらって犬の頭を撫でてあげました。それは長年旅を続けた友人同士の挨拶みたいで、きさくで朗らかな仕種でした。


――犬たちはみんな悪い輩に掠われていたのです。自由な意志を抑えて圧せられ、無慈悲なくびきで繋がれていたのですよ


――君が救い出してくれたのかね。なんと素晴らしいことだ、ぜひうちに来てくれ給え。なにか、お礼を…


実業家が言いかけたそのときには、どこを見回してもどこへ耳をかたむけても、笛吹きの姿もものがなしい笛の音も、どこにも在りはしないのでした。


小走りに駆け寄ってきた運転手は主人の犬を抱きかかえてる姿を見て、ああこのひともいぬがすきなのだなあとおもいました。

 


そしてまた、ここではないどこかで、いまではないいつかのこと。

 


――ふえふきさん、どこへいくの


――しごとをおえて、かえるところさ


――ひとりでたびしてさびしくないの


――かえりみちはながいけれど、ひとりでいたってさびしくないよ


 


――だってみちのとちゅうにはともだちが、おおぜいくらしているのだから


 


おしまい

このお話はちょっと変わった成り立ちをしています。途中で終わってしまった長編作品の、途中で終わってしまったエピソードの、幻想的な後日談として、もう十数年以上前の昔にとある創作者向けのSNSに投稿した番外編でした。

そのSNSもずいぶん前に閉鎖されてしまってWEB上で閲覧することは出来なくなっていたのですが、久しぶりに読み返してみると単独でも作品として成立しそうではあるので、こちらに再度あげてみます。(若干の修正を加えています)

本編無しの番外編という変則的な小品ではありますが、楽しんでいただければ幸いです。

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