9話 想像力
僕らはひとまず、棟の外に出ることにした。
崩れかけた階段を下りる訳にもいかないので、黒部さんが魔法で作った鉛のドアを開くと、2階の食堂に出る。
食堂には既に誰もいないものの、施錠はされていないようでほっとする。
入り口から外に出ても特に騒ぎになっている訳でもない。
転がっている瓦礫を避けながら、階段を下りていく。
不思議なこともあるものだと思う。
いっそドッキリにでも遭っているのでは? と疑いたくなるほどに、学校の敷地に生徒の姿はなく閑散としている。
「これ、学校に報告しなくていいのかな」
歩きながら、黒部さんに声をかける。
「どうなんでしょうねえ」
首を傾げる彼女を背にして何気なくさっき出てきた棟を振り返ると、一瞬目を疑った。
僕らが出てきた、ほんのさっきまで外壁や天井が崩れて半壊状態だった棟が、何事もなかったかのように、元通りの旧館の姿に戻っている。
僕に比べて黒部さんはあまり驚いていない様子で、淡々と言う。
「外側からは、見えないようにしたのかなあと」
「誰がそんなことを?」
僕が尋ねると、彼女は少し考え込む仕草をする。
「その辺は、分からないですけど。魔力の痕跡は残ってます」
「まだ近くにいるの?」
「いるかもしれませんねえ。ただ、何かするつもりなら、私達が建物を出る前にやってるんじゃないかなあと」
なんだか不気味な感じがして、僕はキョロキョロしながら早足で歩く。
旧館が一見何事も起きていないような外観を保っているなら、僕らも何も見ていないという体でさっさと立ち去った方が賢明な気がする。
「バレるまでは、知らん顔しておく?」
僕が提案すると、黒部さんは大して気にしていない調子で言う。
「バレても大丈夫だと思いますよお。私の部屋はさっき処分しておいたので」
「早すぎない?」
一連のいざこざが終わってからすぐに下に移動してきたのに、彼女が言うにはいつの間にかこっそり例の占い部屋を引き払っていたらしい。
彼女が妙に荒事慣れしているのは、僕からすれば感心するしかない。
そうこう話しているうちに正門前に着く。
「送っていくよ」
「いいんですかあ?」
辺りが暗くなっていたので、そのまま黒部さんを家まで送っていくことにした。
聞きたいことは他にも色々あったけど、急に彼女の口数が減ったので、黙々と歩く。
さっきまでの状況を考えれば、仕方のないことかもしれない。僕も疲れた。
「あ。そこですよお、私の家」
塀が高い家の前で黒部さんが立ち止まる。
「じゃあ、ここでいい?」
僕が尋ねると、意を決したように彼女が切り出す。
「あの。一己さんにお願いがあるんですけど」
「何かな」
「うちに、挨拶しに来てもらっても大丈夫ですかね?」
「挨拶?」
特に挨拶に行く理由が思いつかないので僕が聞き返したところ、彼女は少し困った顔で言葉を続ける。
「ええと。何なら、駆け落ちもいいですけど。でも、できれば親と話してほしいかなあ、と」
黒部さんの言葉を聞きながら、僕はポカンとしてしまった。
彼女の口から、駆け落ちという言葉が普通に出てきたことに驚きを隠せない。
つまり、一緒になる挨拶をしに来て欲しいけど、それが無理でも一緒になりたい、と。
僕は自分が親とろくに会ってないからって、相手の親のことも全然考えてなかった。
一方で黒部さんはどうやら、真剣に僕との将来を考えてくれている。
何というか、言葉に言い表せない気持ちになる。
「親御さんの許可を取る的な?」
「ええ。ダメですかあ?」
黒部さんは、心配そうな顔で見つめてくる。
「いや、そんなことはないよ。わかった」
僕が笑って答えると、彼女も安心した様子を見せる。
「ありがとうございます。じゃあ、また」
門の前で、黒部さんがドアの内側に消えていくのを見送る。
しばらく立ち尽くしてから、ふうと息を吐いて、来た道を引き返す。
見慣れない住宅街をどうにか抜けて、大通りまで戻ってくる。
家路が果てしなく長いので、乗り慣れないバスに乗ることにした。
停留所で10分ぐらい待ってバスに乗ると、車内は空いていたので前の方の座席に座る。
窓の外の流れていく風景を眺めながら、黒部さんのことを思い出す。
彼女は、多分携帯を持ってない。
現代人はだいたいスマホをチェックせずにはいられない強迫観念に取り憑かれているものだけど、黒部さんは一緒にいる間は一切そんな素振りを見せなかった。
じゃあ、彼女と気軽に連絡を取り合う方法はないのか、と言えば実はある。
僕はそれを試してみることにした。
脳裏に彼女の姿をイメージして、心の中で声をかける。
『黒部さん』
呼びかけに対する反応は、すぐに返ってきた。
『あ。そういえば、これで話せるんでしたねえ』
突然、黒部さんの声が脳に響く。
物理的にはもうかなり離れた場所にいるにもかかわらず、念話するのには全く問題はなさそうだった。
ひょっとして、地球の裏側にいても同じように話せるんだろうか。
だとしたら凄い。
『今、何してるの?』
『私の部屋にいますよお』
『そうなんだ。こんな風に話せるなんて、便利だね』
自然災害とかで携帯が使い物にならなくても、代替手段になりそうな気がする。
僕が感心していると、少し勿体ぶった言い方で黒部さんが言う。
『実は、目や耳で見たり聞いたりする以外にも色々できるんですけどねえ』
『え、どんなの?』
『たとえば、頭の中で想像したものを、感覚共有で生々しく再現したりなんかもできますよお』
生々しく、の辺りで彼女の声のトーンが上擦る。
『へえ。それ、やってもらっていい?』
『いいですよお。じゃあ、ちょっと魔力を流しますねえ』
その言葉と同時に、じわりと体中の血が沸騰するような熱い波が広がり、魂が焦がれる。
この感覚は一度味わうと中毒性がある。
ほろ酔い気分の中で、黒部さんが囁くように言う。
『さて。肉体が滅びた後の死後の世界は、どんな場所だったらいいなあと思います?』
彼女の話が宗教的なトーンを帯びてきて、僕は若干反応に困る。
『輪廻転生ってやつ? あんまり信じられないんだけど』
『一己さんは、魂の転生をしょっちゅう繰り返してるんでしたっけ。それだと感じ方は普通の人と少し違うかもしれないですけど、いわゆる天国とか地獄みたいなのの話です』
黒部さんはこの手の話が好きなのか、口調が弾んでいる。
僕は自分の特殊体質以前に想像力が貧困なので、死後の世界と言われてパッと思いつくのはありふれた宗教画の構図ぐらいだ。
自分が地獄の責め苦に遭ってる絵を克明に思い描けるほどマゾヒストじゃないので、まあそれは考えないにしても、楽園みたいな天国だっていまいち想像がついてこない。
暗くて何もない、だとつまらない。
かといって100人の処女が歓迎してくれる的なのは何か現実味がないし、難しいところだ。
『じゃあ、100人の黒部さんがいる世界かな』
『はい? ええと、それってどういう』
僕が何気なく呟くと、突然視界がパッと切り替わる。
目の前に出現したのは、肌色の世界。
肌色が、群がってくる。
よく見れば、足元も肌色が埋め尽くしている。
正確に言えば、髪の毛とか、その他肌色より濃い色の箇所がない訳じゃない。
肌色の女体が、纏わりついてくる。
『一己さん』『ねえ、私と』『好きですよねえ』『愛し合いましょ』
それは、間違いなく黒部さんだった。
同じ顔で笑う無数の黒部さんに、密着されて動けなくなる。
彼女の体に、女体の柔肉に愛され過ぎて苦しい。
酒池肉林。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
『こんな豊満ではないですけど。やり過ぎでは』
ムッとした声が耳に入るも、目の前の女体の圧迫のせいで他に何も考えられない。
『むむむ……ちょっと消します』
『あれ。減った』
数分は揉みくちゃにされていた気がする。
急に女体の肉から解放されたかと思うと、他に何もない真っ白な空間に残った一人に飛びつかれる。
当たり前だけど、それも黒部さんだった。
『ほらほらあ。どうですかあ?』
抱き着かれて胸を押しつけられるも、肉付きはさっきより気持ち控えめな感じがする。
ちなみに僕も着ていた服が消えていて、裸同士で抱き合う恰好になっている。
『一己さんは、膨らんでるお腹が好きなんですよねえ』
目の前の黒部さんがそう言うと、彼女のお腹は突然風船みたいにぽっこり膨らむ。
『おお。素晴らしいね』
女子の丸く張ったお腹を撫でながら、僕は感動的な気分になる。
ただ一点、素朴な疑問が脳裏に浮かんだ。
『でもさ。さすがに、出産は無理だよね?』
『やってみます?』
『できるの?』
どうやら産むこともできるらしく、僕の心が一瞬沸き立つ。
ただ、『想像で良ければ』という彼女の次の一言を聞いた瞬間に、脳が急に冷静になった。
『いや、やっぱりごめん。やめとこう』
出産は本物じゃないと意味がない。
そもそも想像で生まれてきた子供に、どんな顔すればいいのか分からない。
さすがに踏み越えちゃいけないラインを越えてる気がする。
僕が何とも言えない微妙な顔をしていたせいか、黒部さんもこの辺で切り上げようと思ったようだった。
『まあ、だいたいこんな感じで。想像したものを共有できるんですよお』
彼女の顔がパッと消えて、次の瞬間には流れていくバスの車窓風景が目に入ってくる。
数秒ほど、ぼーっとした後、慌てて運転席の辺りの液晶画面を見る。
次の停留所名の表示が目を離していた間に変わっていないのを確認して、とりあえずほっとした。
現実に経過した時間は一瞬だったようで、さっきの濃密すぎた体験を思い出すと頭がくらくらする。
『あと、これはお伝えしようと思って忘れてたんですけどお』
黒部さんの声が頭に響く。
僕は気を取り直して、『ああ、何?』と平気な素振りで返事を返す。
『本義君からの手紙、見ます?』
手紙と言われて、はっとした。
そういえば、そんなものもあったな。
鹿島から預かった菓子折りの紙袋の中に、お礼の手紙か何かが入っていたんだと思う。
僕は何の関心もないので確認すらしていなかったけど、黒部さんはどうやらその手紙の内容を僕に公開してくれる気らしかった。
『守秘義務とかに問題あるんじゃない?』
彼女の職業倫理観は、結構危ない気がしないでもない。
手紙の渡し主が僕にとっても共通の知り合いとはいえ、それはそれ、別の話だと思う。
『大丈夫ですよお。一己さんは、私の占いのアドバイザーですから』
黒部さんは楽しげに話す。
占い師みたいな個人的な信頼関係で成り立つ職業で、客の与り知らないところで勝手にアドバイザーを作られるのもどうなんだろうか。
まあ彼女と僕は、覗こうと思えばどんな思考もお互い丸裸な関係な訳で、守秘義務の概念自体が既に成り立たないかもしれない。
『いつの間にか僕の方にも色々責任発生してそうだね』
僕が苦言を呈すると、黒部さんは意に介さない様子で言う。
『そんなに気にしないで大丈夫ですって。これです』
そう言うなり、再び視界が切り替わる。
窓にかかる可愛らしいピンクのカーテンと木製の机、その上にしゃれた洋封筒が置かれている。
どうやら僕の目は黒部さんの目に切り替わったらしい。
黒部さんの手が封筒から手紙を取り出して、パサッと開く。
白い紙の上に、一目見て思わず感心してしまう、丁寧な文字が並んでいる。
おそらく鹿島が書いたのだろうけど、字の綺麗さでは敵う気がしない。
意外な特技だなあと以前から思ってはいた。
ただ、書かれている内容は若干の不可解さを読み手に与えるものだった。