7話 実験
視界が開けて、崩壊しかけの天井の残骸と、暗くなり始めた赤い空が目に入る。
体を起こして周囲の様子を眺めると、ここが部室棟旧館の上層階の廊下なのは内装の雰囲気ですぐに分かる。
「ふう」
僕は息を吐き、肺の辺りを押さえながら立ち上がった。
意識ははっきりしていて、普通に息もできる。節々が軋むような違和感があるものの、体を動かすには問題はなさそうだ。
うーんと伸びをしていると、その様子が不審に映ったのか、訝るような声が飛んできた。
「どういうことなのかしら。あなた、変じゃない?」
「今更なことを言うね」
僕が適当に返すと、その女――黒部さんのお祖母さんの体に憑依しているらしい白コートの女――は心底不思議そうな顔をする。
顔のパーツを見れば、輪郭や目鼻立ちは黒部さんに似ている雰囲気がある。
女の言動が本当なら、悪趣味なことをするものだと思う。
「普通は神経ガスを吸ったら筋肉が収縮して手足が動かなくなるでしょう。本当に人間なのか疑わしいわ」
「神経ガス使う方が普通じゃないと思う」
化学兵器じみた攻撃をやってのけながら人間らしさを説かれても困る。
僕が呆れていると、女は不気味なものを見るような目を向けてくる。
「……なんだか気持ち悪いわ。これも魔女の呪いなのね?」
女の声は、ザラザラとしていて妙に耳に残る。
その上、目力を感じさせる顔でこっちを凝視してくる。
魔女。
この女が、黒部さんに執拗に言い募ってくる言葉。
黒部さんと女の間に、どんな因縁があるのかは知らない。
僕が知っているのは、女が自称姉の手下らしいことと、それから、僕を何回も殺そうとしてきたという事実だけだ。
会話があまり成り立たなそうな相手でも、無関心のまま避けては通れない。
「魔女の呪い? ああ、確かに」
僕は溜息をつきながら、ふと思いついたことを言ってみる。
「魔法で臨死体験させてくれる愉快な魔女なら知ってるよ。始祖様、だっけ?」
「今、私の始祖様を侮辱したのかしら?」
女は青筋を立てて、笑いながら睨みつけてくる。
自称姉はこの女から始祖様、と呼ばれていた。
どうやら向こうは魔法に詳しい女性のことを魔女扱いしている訳ではないらしい。
「侮辱じゃなくて事実だけど」
視線を受け流して、外壁が崩れて開けた茜色の空を眺めていると、気を取り直すように女が話しかけてくる。
「まあいいわ。ちょうど使い物になる体が欲しかったのよ。その肉体と魂で実験してみましょうか」
「実験?」
僕が首を傾げると、女は愛おしげに足元から伸びる十字架の形状の触手を撫でる。
「これは、根の部分なの。質のいい神聖力は実に蓄えるのよ」
次の瞬間、女の背後から無数の枝分かれした触手、咲き誇る青紫の花弁がブワッと飛び出す。
ちょうど頭の横に生えた一本をポキッと折り取り女が掲げると、パチパチと発光しながら、触手は掌サイズの宝石の形になる。
「通常は空っぽにした肉体を使うけど、魂に接着したらどうなるかしら?」
そう言って、青紫の宝石を指先に乗せた女が妖しく笑う。
僕は嫌な予感がして、とっさに上体を捻る。
それは結果的には意味のない動きだった。
女の異常に伸びた爪先が胸部に突き刺さっていた。
目の前の光景が、チカチカと点滅する。
「肉体の強度が高いなら、試せることは色々あるのよ」
呟きながら嗜虐的な目をした女の姿がぼやけて、そこにいるのが黒い影のように見えてくる。
異質な概念が侵食してくるような感覚。
ふと見ると右腕が、触手が蔦のように絡まり合った奇妙な形状に変形していた。
何が起きているのか。
女がさっき話していたのは、魂に妙な物を埋め込むとかいう内容だったと思う。
魂とは、実際問題として何なのだろうか。
僕には未だに理解しかねるところがあるけど、それが人間の中身の部分なのは間違いない。
中身に異物を接ぎ木されたら、変になるのは当然ではある。
今のところ、腕の外見がおかしくなった以外は大した影響があるようには思えないけど、取り除けるものならさっさと取り除いてしまいたい。
とは言っても、方法は見当もつかない。
仕方がないので、こういうことには詳しそうな黒部さんに尋ねてみることにした。
『黒部さん、聞こえてる?』
『えっ? 一己さん、大丈夫ですかあ?』
念話を繋げた途端に、黒部さんが不安そうに尋ねてきたので、平静を装う。
『大丈夫。それより、今の僕らの魂の状態って分かる?』
『あ、はい。変なのが生えてきたので、今ちょうど取り除いてたとこですねえ』
もうやってたらしい。
そりゃ僕の考えることなんてすぐ思いつくよなあと、対応の早さに苦笑する。
『ありがとう。後は大丈夫だから待ってて』
そう伝えると、黒部さんは遠慮がちに言う。
『あのお、ええと。すみません、私も、そちらに出ようかと』
どうも彼女は僕一人を向かわせたことに引け目を感じている様子だった。
さっきは割と本気なトーンで心中を提案してきたぐらいだから、無理もないのかもしれない。
僕は話題を変えるついでに、気になっていたことを聞いておくことにした。
『いや、それはいいよ。ところで、聞きたいんだけど』
『何ですかあ?』
『黒部さんは、世界征服とかに興味ある?』
至って真剣に僕が質問すると、彼女の声が少し上擦る。
『え。制服ですかあ? 好きなんですかあ? 制服』
『ごめん、やっぱり忘れて』
適当に切り上げて、念話を切る。
なんとなくそんな気はしていたけど、魔女がどうのこうのとかいう話は純然たる言いがかりなんだと思う。
冷静に考えたら、どう穿った見方をしても黒部さんは人類の命運を左右するようなキャラじゃない。
とするとやっぱり、目の前の女が魔女魔女うるさいのは、自己紹介なんだろうか。
冷酷な目でこちらを見下す視線を確かめた後、僕は自分の右腕をじっと見る。
黒ずんだ異物が化膿してグチャグチャと泡立ちながら、元の肌色の皮膚に戻っていく。
骨と血管が指先まで通り、皮が肉を覆う。
腕と手が繋がり、僕は短い間失っていた人体の右腕を取り戻した。
肩を回す、肘を張る、手をギュッと握り締める。
一連の動きは、馴染まない新品の軋みのような違和感がある以外は、特に問題ない。
肘の辺りで服が断ち切れているのは気にしないことにする。
僕は胸に突き刺さっている、長く伸びた女の怪物じみた爪先を、左手でぐっと掴む。
自分の体の中に絶えず流れ続けているエネルギー、おそらくは魔力と呼ばれているものを、左手に集中させる。漠然と想像するだけで、左手がじわじわと熱を持ち始める。
爪の表面の硬い感触が、熱したチョコレートみたいにドロリと崩れる。
垂れ落ちる液体金属風の黒ずんだ何かは、空気に溶けるように消えた。
その様子は、向こうから見れば異様に映ったのかもしれない。
「何をしているの?」
女が尋ねてくる。
「何だろうね」
僕がそう返すと、女は一方的に話してくる。
「総体としての新たな人格を形成するところまで、実験したかったのだけれど。魔女の仕業でしょう?」
また魔女か、とそろそろうんざりしてきたものの、話の内容は無視していいものではなさそうだった。
女の言い分としては、ついさっき僕を被験者として行っていた人体実験が思うようにいかなかったのが不満らしい。
人格を形成するって、形成しようとして形成できるものなんだろうか。
「何か、相当えげつないこと言ってない? 実験台になってる側の気持ちにも、少しは配慮してくれないかな?」
僕は若干げんなりしながら、女との対話を試みる。
他人を実験台にして人格改変とか、冗談になってなくて怖い。
さっきの実験とやらも、普通の人がやられてたら性格とか人間性が変なことになってたのだろうか。色々と、普通の人間じゃなくてよかった。
「フフ、私の実験に配慮を求めてくる人間なんているのね。面白いわ」
女は楽しげに笑う。
しかし実験台にされる側はたまったものじゃないし、何も面白いことはない。
面白いのは、実験をする側だけ。
僕が言っている配慮というのは要するに、そっちこそ実験台になれという意味である。
「僕も魔法の実験には興味あるよ」
「あら、そう? だったら協力してくれるのかしら?」
「協力になるかは知らないけど、ひとつ試したいことがあってね」
言いながら、胸元に手を当てる。
さっき指先が刺さっていた場所からは、いつの間にか痛みを感じなくなった。
僕は上着のパーカーのポケットに手を突っ込む。硬い感触を掴んで、取り出す。
出てきたのは、小型のエアガン。
飛距離と弾速が出るように改造してあるものの、殺傷能力は全くないので、ただの玩具と言っても差し支えない。
弾が当たっても多少痛い程度だろう。
運悪く荷物検査で取り上げられても、大して問題にはならないだろうと思う。
僕は、すっと片手で銃を構える。
一応、ブレないようにもう一方の手も添えておく。
意識を銃身に集中させて、玩具感のある引き金を引くと、プラスチック弾が発射された。
まっすぐな軌道で飛んでいく弾は、女の少し手前、見えない空気の壁に弾かれて、明後日の方向に跳んでいく。
それを見た女は、怪訝な表情をする。
飛んでいくプラスチック弾の目的は、距離を稼ぐこと、そして運んだ魔力で魔法を起動することだ。
防壁に当たる瞬間、弾にわずかに電流が走っていたのが合図になる。
混沌魔法。
例の黒本に記述されていた、いわくつきの魔法。
記憶の中でこの魔法を使わされた時は、制御できずに肉体が崩れてた気がする。
あの時とは違って魔法というものが何なのか、感覚的に分かる。
多分、黒部さんのおかげだと思う。
数秒後には弾の到達点で、ミシミシと音を立てながら空間の裂け目が生じる。
その裂け目から、得体の知れない赤黒い何かが大量に噴き出して女を飲み込んだ。