最初で最後の唇
*****
アイズとウォーと一緒にキャスの家を訪れて、キャスの母親――カナリアの作るホワイトシチューを食べていた。今日もおいしいなあと思う。実際、アイズとウォーもそう口にし、みんなで幸せな時間を過ごしていた。
食事を終え、それぞれがベッドの端や椅子に座る。キャスがクローゼットを開けて、私のビジネスバッグを持ってきてくれた。私が膝の上に置いたバッグに、つんつんと触れてくる、ウォー。見たことがなくてあたりまえだ。だから「な、なんだ? 妙にかてーぞ、このかばん」という感想もあたりまえ。
アイズもそっと表面を撫で、「やはり触れたことのない素材だ」と言う。
私はバッグの中からパソコンとスマホを取り出そうとしたところで――やめた。説明が面倒だとは思わないが、なにをどれだけ並べ立てたところで納得なんてしてもらえないだろうから。
「ところで、その後、ファイアからなにかありましたか?」
「この際だ。話してしまおう。再建に困る国があるなら人手を貸すとのことだ。占領下の余裕のある国からヒトを回してくれるのだろう」アイズは苦笑のような表情を浮かべた。「まったく、拍子抜けだよ。ただ、平和を嫌う者などいない……そう信じたくもある」
「今後、私はどうすればよいでしょうか?」
「宰相の地位を用意しよう――などと幼稚なことは約束できんが、ヒトの管理というお題目について、おまえは成果をあげている。おまえのがんばり次第ではあるが、ゆくゆくはその道の長として働いてもらいたい」
「そうかあ」
「なんだ、不満か?」
「不満なんてあろうはずが」
私が苦笑を浮かべると、アイズは難しい顔をした。
どこかに行きたいならどこにでも行ってしまえ。
私は礼儀を払って雇ってやると言っているんだ。
どっちも出てきそうに感じられた。
*****
アイズとウォー、それにキャスと私の四人で、夜、小高い丘の上にいた。星空がとてもきれいで、ああ、そうか、この世界にも星はあるのかと妙な考えに至った。月まで見える。じゃあ、ここはやっぱり地球? テラフォーミングが施された火星と言うよりは説得力があるように思う。
いい夜だ。
ほんとうに、いい夜。
小さなキャスが左から私の身体にしかみついていて、右にはウォーの姿、桃色髪の女のコがぴたっと身体を寄せてくる。アイズは少し離れた位置にいて、今日は茶色いズボンに青いシャツ姿である彼女は、「いい夜だ」と言った。彼女とは意識を共有できるようだ。
それなりに、少なくとも、不幸な人生を送ってきたつもりはない。ヒトとヒトとの繋ぎ役。それは私が望んでいた役割でもある。ヒトとヒトとの付き合い方。テクニカルな部分を突き詰めるよりも、そちらのほうが自分に合っているような気もしていた。もちろん、苦労は多かった。カラオケとバッティングセンターがあればなんでも切り抜けられた若さももうない。小さな女のコから好かれる魅力なんて、私にはない。アイズのような美しい女性に重用されるいわれもない。
そろそろ帰ってもいいかな……。
そんなふうに思った瞬間……。
「えっ」
身体から白く輝く粒子が湧き立ち始めた。
刹那、悟った。
そうか。帰るも帰らないも、しょせんは私の一存だったのか。たとえ帰ることができたとしても、また京急の車輪に巻き込まれて死んでしまうのかもしれないけれど、帰ろうと思えば、とりあえず、帰ることはできたのか……。
「ヤマシタ、おまえ……」
アイズが目を丸くしている――すぐに微笑んだ。
彼女もまた、なにかを悟ったようだ。
自らの身体が粒子と化す中、私はキャスとウォーに離れるように言った。私は「あっ」と声を上げた。そうだ、ビジネスバッグ! ……ま、いいか。どうせこの世界においては、あれは誰にとっても無用の長物だ。
私は「ひゃーっ」と声を上げながら、一生懸命に逃げ回った。キャスとウォーが「消えちゃダメ、消えちゃダメ!」と叫びながら追いかけ回してくる。やがて息が切れ、立ち止まった。
アイズに「キャス、ウォー、静かにしろ」と言われると、二人は足を止めて押し黙った。それぞれ私の腰に背にと腕を回すのだけれど、その感覚も、そのうち遠のいた。
「そうか、帰ってしまうのか、おまえは、ヤマシタ」
「大佐、お世話になりました」
アイズの両の瞳から、大粒の涙があふれ出した。
「なにか、この場にこの世界に、残したい言葉はあるか?」
「ありません、何一つ」
「わたしもだ。おまえにくれてやる言葉なんぞない。――ただ」
「ただ?」
「刹那味わえ。わたしの唇をくれてやる」
アイズが近づいてくる。
真正面に立つと、私と一瞬だけのキスをかわした。
そして私の肉体のすべては粒子となり、やがて意識も失われた。
*****
目が覚めると、暗い部屋にいた。
鼻に匂いが届き、どこかで嗅いだ覚えがあるなと思ったら、かつての自宅マンションの匂いだと気づいた。隣で妻が寝ている。私は長い夢を見ていただけなのだろうか。だとしたら、なんとも子どもっぽい発想だ。悲しみはおろか、自身に憐れみすら覚える。電気をつけたりカーテンを開けたりすると妻が怒るので、こそこそと寝室を後にする。
コーヒーメーカーをセットしたところで、服を着替える。洗面所に立ち、顔を洗おうとしたところで、ふと甘い香りを嗅いだ気がした。
その出所が自らの唇だと気づいた。
右手の人差し指で、唇をさっと撫でた。
ピンク色の、口紅?
ひょっとして、アイズの……?
そうか。
まるっきり、夢というわけでもなかったのか。
というか、アイズみたいな女性でも、口紅は引くんだな。
私は勢い良く顔を洗う。
そうすることで、アイズへの想いも彼女からの想いも断ち切った。
とりあえず、今日も出勤してみようと思う。
私はきっといまもサラリーマンなのだから。