準備
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城内に設けてもらった私の居室
私はできうる限りの兵の管理を任されていて、今日も出退勤をチェックしたり欠勤の理由を確認したりしている。
部屋の戸がノックされた。「入っていいか?」と呼びかけてきたその声、麗しい響きは間違いなくアイズのものである。
私は書類に向かいながら、「はい」と返事をした。アイズが入ってきた。アイズはあいていた椅子を持ち出し、そこに腰掛けこちらを向いた。私も椅子をそちらへと向ける。「大佐、どうかされましたか?」と問いかけると、「私はおまえのそういう事務的なところが好きだな」と笑った――というより、苦笑した。
「なにかありましたか?」
「こんなこと、おまえに話してもしょうがないんだが」
「それでも話に来てくださったんでしょう?」
アイズは頭を掻き、それから「ファイアが接触してきた」と答えた。
ファイア?
ああ、そうだ、ファイアか。
たしか、魔族の親玉の名前だったな。
恐ろしいに違いないそれが、接触してきた。
なにはともあれのっぴきならない状況であろうことはわかる。
「このままでは我が国は魔族の手に握り潰されてしまうだろう。はっはっは。美しいわたしのことだ。わたしもやがては奴らの軍門に降り、穴という穴を凌辱されてしまうに違いない」
私は眉をひそめる。
軍門に降る?
凌辱?
「どうなさったんですか、大佐。あなたらしくもない」
「魔族には勝てんさ。奴らがめきめきとい頭角を現した三十年前から、あるいはそれは決まっていたことなのかもしれない」
「私に助けてほしいんですか?」
「そう……なのかもしれんな」
「大佐、あなたにとって大切なものとはなんですか?」
「部下、そして家族だ。国民は……三番手以下としか言えんな」
私は大きくうなずいた。
とても正直で、素敵な答えだなと感じた。
「この時代に生まれ、生きているニンゲンには申し訳が立たん」
「ヒト一人が守れるものなんて、ひどく限られていると思います」
なにを知ったふうな口を。
そう言って、アイズは肩を揺らして笑った。
不機嫌さをもよおしての嘲笑というわけでもなさそうだ。
「ヤマシタ、わたしの夢はなんだと思う?」
「見当もつきませんが」
「お嫁さんだ」
なるほど。
私はうなずいた。
「やはり、おかしいか?」
「おかしくはありません。ただ、ハードルは高そうだ。大佐に見合う男性が、そうそういるようには思えない」
「見合わなくともいいんだ。ただ、女としての幸せを得てみたいというだけだからな」
「ファイアという王は強いんですか?」
「強いのだろう。いくつもの国を壊してきた実績がある。わたしではとてもではないが、かなわんだろう」
「勝負から下りると?」
「そんなつもりはないが……。というより、偉そうな口を利くじゃないか」
私はぺこりと頭を下げ、「申し訳ありません」と口にした。
「話し合いには応じよう。口だけかもしれんが、そんなふうには言ってきた」
「チャンスではありませんか」
「我々に待っているのは、どうせ奴隷の日々だろう」
私は首を横に振った。
「そうならないために交渉するのではありませんか」
アイズは薄く笑った。
「ああ、そうだな。そのとおりだ」
「宰相閣下を連れていかれるのですね?」
「そうだ。わたしが護衛につく。……なあ、ヤマシタ」
「はい」
「わたしが帰ってこなければ、悲しいか?」
「知り合いを失って、悲しくないニンゲンなどいません」
「ということなら、がんばってこよう」アイズが立ち上がった。「見ろ、ヤマシタ。わたしの脚は震えているぞ。どれだけ偉そうなことを言っても、死ぬのはやはり怖いんだ」
「死ぬことが怖くないニンゲンなんていません」
「……帰ってくる」
アイズは部屋から出て行った。
*****
二日後にファイアとの会合があり、三日後にアイズは戻ってきた。戻ってきたのはアイズ一人だけだった。アイズは王や関係部署への報告を終えたのち、私の部屋を訪れた。
「大佐、ご無事でなによりです」
「馬鹿な。仲間をすべて失ったのだぞ」
「それでも、ご無事でなによりです」
アイズがしょぼくれた目をするので、私は精一杯の笑みを返してやった。
「ファイアは、やはり強かったですか?」
「みなが焼かれる中、わたしは微塵も動けなかった。恐怖していたのだろう」
「帰って知らせろ。そう言われたんですね?」
「ああ。もう一度だけチャンスをやると言われた。今度は話ができるニンゲンを連れてこい、と……」
「私を選ばれたのですね?」
「ば、馬鹿な、誰がそんなこと――」
「でしたら、大佐はどうしてここを訪れたんですか?」
「それは……」
「このぶんだと、どうせ戦火は避けられない。だったらもはや国の根幹を担う文官を連れていくわけにはいかない。彼らを失うわけにはいかない。私で事足りるとは思えませんが、なにせ大佐にとって私は、イレギュラーでしょう?」
「だ、だからって、ヤマシタ、わたしは――」
「国民の代表――みたいな言い方は気が引けますが、力を尽くします。どうか私にやらせてください」
身体を起こすと、アイズの表情から笑みが見えた。
「ヤマシタ、おまえはどうしてそこまで前向きなんだ?」
「私は一度死んだ身です。やれることならやろうと考えます」
アイズは大きくうなずいた。
「なにか必要な資料があるなら言ってほしい。論理でぶつかる。おまえはそういうタイプだろう?」
「しかし、それをやった結果として、宰相閣下は殺されたのでは?」
「まあ、そうだが……」
「特段の準備もなしに会議に出たことはないのですけれど、今回ばかりは出たとこ勝負です。私が焼かれたら逃げてください」
「馬鹿を言え」アイズは笑った。「いま、この瞬間から、わたしとおまえとは運命共同体だ。おまえが死んだら、わたしも死ぬ」
恐れ入ります。
そう言って、私はまたお辞儀をした。