転移
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自転車をドブ川沿いに止めて、第一京浜を渡って、改札を通って、ホームの先頭に並んでいた。先頭、それが悪かった。「きゃっ」と小さな悲鳴が聞こえたかと思うと、次の瞬間、背中を押され、線路に落ちた。すぐそこにはもう赤い車両が迫っていた。ばきばきめきめきなる自らの骨が砕ける音を耳にして、「ああ、死ぬんだ」と簡単に思わされ、男性女性問わずの悲鳴が聞こえ、私は気を失ったというか死んだ。それは間違いないはずだ――。
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目覚めたとき、私はクラシカルな三角屋根の天井を拝んでいた。ほんとうに古風な造りだ。キャットウォークがあって、見たところ、二階にもベッドがあって。
……クラシカルな三角屋根?
キャットウォーク……?
知らない、こんな場所。
私は飛び起きた。すぐそばにいたらしい女のコが「ひゃぁっ」と小さな悲鳴をあげ、尻餅をついた。
なんだ?
なんだ、ここは?
なんだ、これは?
私はベッドの上、そうベッドの上だ、で、ばんざいをして、自らの着衣を確かめた。ワイシャツ姿だ。下は紺色のスラックス。ジャケットはつけておらず、枕元には見覚えのある黒いビジネスバッグが置かれていて。
慌てるようにして、バッグを開けた。
シルバーのレッツノートが入っている。
よくわからないが、とりあえず、嘘だろう? 冗談だろう?
なんだこれは。
そんなふうに思い、左手で後頭部を掻きむしりながら、休止状態から復帰させる。
「Wi-Fi」の設定を確認する。
アクセス先は見えない。
「そこのお嬢さんっ」
「あ、あたしはキャスっていうんだよ?」
キャスと名乗った少女――というより幼女は、板張りの床から腰を上げた。
ふわふわした浅葱色のスカートのおしりをぱんぱんとはたく。
「キャスさんっ」
「キャスで、いいんだよ?」
「じゃあキャス、教えてくれるかな」私は鋭く短く「ふっ」と息をついた――自らを落ち着けようとしたのだ。「SSIDとパスワードを教えてくれるかな」
「えっ」
ああ、予想どおりのリアクションだなぁと感じさせられた。
「ぱすわぁどって、なあに?」
「せめて電源は? バッテリーが心配なんだ」
「電源って、なあに? ばってりぃ?」
やっぱりダメか。私は右へ左へと小さく顔を振り、今一度天井を見上げた。ひとまずというかなんとなくというか、私は自分の頭を両手でぽかぽか叩く。その刺激はホンモノで、「ダメだよ、おじちゃん。叩いたら痛いんだよ?」とかわいいことを言ってくれる幼女もひどくリアルに見えた。
「おじちゃんね? 死んじゃったキャスのおとうさんにそっくりなんだよ?」
突拍子もなく、また忙しなく、私の瞳からは涙がこぼれそうになった。
「種無しの」せいでさんざん女房から叩かれた私に、娘、か……。
いきなりのことなれど、少し、泣きそうになったことはほんとうだ。
ここがどこであるか、たしかなことはわからない。
でも、いわゆる「転移先」だとか、「転生先」というやつなのだろう。
どうあれ私はそのへん、物分かりがいい。
おっさんのままなのだから、「転移」なのだろうか。
たぶん、そういうことなのだろう。
「おじちゃん?」
「ん?」
「おじちゃん?」
「だから、どうしたんだい?」
「おじちゃんはどうして泣いているの?」
「いろいろとびっくりしているからだよ」
そう。
私はびっくりしていた。
*****
スラックスにワイシャツ姿で、キャスに手を引かれ、表に出た。
立派な畑があり、いわゆる自家栽培で日々の食事をまかなっているらしい。
「とってもおいしいにんじんができるんだよ?」
そう言って、キャスは笑う。
農村であるようだ。
感じる風からすると、初夏くらいだろうか。
そもそも、この国、この世界に四季があるのかどうかはわからないけれど。
――そのときだった。
男の悲鳴じみた大声だ。
「バケモノが来たぞーっ!!」
その途端だった。
「いやあああああああああああっ!」とキャスが叫び声を上げたのだ。
しゃがみ込み、すぐさま両手で頭を抱えた。
「キャス、どうしたんだい?」
「だってバケモノ、いやああああっ!!」
そのうち、地鳴りとともに、地面が縦に揺れ始めた。
敵と思しき集団がなだれ込んできた。
オークだ、アレは。
青い肌、特にハイ・オークではなかった。
むかしやった、MMORPGでは経験値がおいしかったはずだが。
ゲームで聞きかじった程度の知識になんの意味が? という話でもあるが。
とてもではないけれど、十五はおろかニ十匹ほどもいる怪物にニンゲンが敵うとは思えない。私も役に立てないだろう。こちとらただのおっさんなのだから。
「行こう、キャス。逃げよう」
すると、キャスは一転、強い目をして立ち上がり。
「逃げるって、どこに逃げるの……?」
「だから、とりあえず家に――」
「パパはオークに殺されたの! だからキャスが復讐しなきゃなの!!」
そんなこと、やらせるわけにはいかない。
「逃げるんだ、キャス。いざというときには守るから」
「おじちゃんみたいな弱そうなヒトにキャスを守れるわけがないじゃない!」
それはそうだ。
ごもっとも、正論だ。
だからといって、ここにいたってやられるだけだ。
あいにく目の前で女のコを殺されてもしれっとしていられるほど、私はヒトが出来ていない。
おぉーっ!
そんな声がいっせいにあがった。
村人たちの、歓喜の声だ。
オークらの後ろから馬を駆る集団が慌ただしく迫ってきている。
重厚そうな銀色の鎧をまとった、まさに洗練された騎馬隊。先頭に立ち、真っ先に下馬したのは女性だろうか――後ろに束ねた長い金髪、そうだろう。迫り来るオークをばっさばっさと斬り伏せる。恐らくリーダーだ。その人物の士気がこの上なく高いのだ。当然、後に続く兵らも勢い良く斬り込む。そのうち、片づいた。村人から彼らに浴びせられたのはもちろん、喝采の声と拍手だった。