電子の海に漂うきみへ
電子の海に漂うきみへ
拝啓 青葉の繁る季節となりました。薫る風の中、ツバメ達が巣作りに励んでいます。きみのいるところも、初夏の話題が溢れていますか?
きみと別れてから三年が経ちました。
最後に会ったあの日も、今日のような、初夏のよく晴れた日でしたね。あの頃の思い出が昨日のことのように湧き上がってきます。
今日はそんな思い出を伝えたくて、パソコンに向かっています。
本当は、便箋にペンで書きたいけれど、電子の海、インターネットの向こう側にいるきみには届かないから。
―――――――――――
付き合っていた頃の思い出を語るんだから、あの頃、大学時代の言葉遣いにしましょうか。出会っていくら経っても抜けなかった、ぎこちない敬語に。
きみと出会ったのは、大学に入ってすぐだったね。
地方の高校を卒業して、初めての東京生活。最初の住まいは、大学の緑豊かなキャンパスの隅に建てられた学生寮。慣れない大都会の電車を、大きな旅行かばんを一つ抱えて乗り継いでやっと着いた。
無性に寂しくてルームメイトに話しかけようとしたけれど、内気な性格で黙りこくってしまう。入寮生歓迎会に集められても、縮こまるばかり、入学を喜ぶ入寮生と、迎える寮生が自己紹介や出し物で盛り上がる中、隅の方でただそれを見ていた。
ふと視線を動かすと、隅の方、盛り上がる学生達を眺める寮生と目が合って。それがきみだったね。二人ともすぐに視線を逸らして俯いてしまったけれど、その横顔にどこか心惹かれるものがあって、歓迎会が終わった後も忘れることができなかった。
話しかけて、名前を聞いておくんだったな、なんてことを思いながら。
新生活の準備や、授業選択で慌ただしく時は過ぎ、やっと落ち着き始めた頃、一年次割り当ての必修授業できみを見かけた。
初々しい一年生の中、前の方に座るどこか浮いたきみの姿に、周りと馴染めない自らの姿が重ねられて、気持ちがきみに向いてしまっていたことを覚えている。
授業が終わると、廊下に出るきみに声をかけ、寮生だってこと、歓迎会で話しそびれてしまったことを伝え、そして名前を伝えた。きみもにこりと笑って、名前を教えてくれた。
あれが、きみとの最初の会話だったね。今でも心に焼き付いているよ。
必修落として留年したんだ、と頭を掻くきみと、次の週からは一緒に授業を受けるようになったね。
今回も一緒ですね、予習の答え合わせさせてください、って声をかけると、きみは笑って隣に座らせてくれた。本当は、早めに来て教室の隅で迷ったふりをしていて、きみが席に着くと声をかけていたんだけれど、気が付いていたかな。
その頃はきみとあまり話せなかったけれど、上京したばかりで関係作りも下手なところに、不器用ながらも拒絶しないでいてくれるきみがいて、本当に心強かった。
四月終わり、柄でもなく体育会なんかに入って、一週間でドロップアウトしたあと、授業とバイトの他は部屋に籠って過ごしていた。
学生生活もったいないぞ、というルームメイトの言葉に、今さらもう新歓は終わっていると返していた。けれど、探せばあると強く押されて掲示板をみると、軽音部のビラが目につく。まだ募集しているし、ゴールデンウィークにはライブもあるんだ、と見学を申し込んだ。
見学の日、楽器の音に導かれてサークル棟の軽音部の部室に進み、ノックの後、扉を開けた。
室内に溢れていた楽器の響きが一瞬止まり、また鳴り始める。芸術に満たされた空間、そのオーラに圧倒される。
名前を告げると、順に各楽器の案内が始まった。数人でのパート練習、個別練習の音が入り混じる中、ギターとボーカルの澄んだ調べが、ふと耳につく。
どこから?と見渡すと、部室の隅、椅子に腰かけてギターをかき鳴らすきみの姿があった。
フォルテ、ではないけれど、力強く、それでいて繊細な歌声に聞き入る。
我を忘れて聞き入っていると、歌い終えたきみと目が合った。
またお会いしましたね、と声をかけながら、心の中は、きみの歌声の美しさに魅了されていた。音楽は少ししか知らなかったけれど、きみの声の才能はすぐに分かった。
「ライブ来られる?」
と訊くきみに、はい、と即答すると、チケットを一枚差し出してくれたね。すぐに受け取った。
ライブの日、壇上に上がったきみ。何も言わず、しばしじっと立つきみに、今まで掛け声の絶えなかった会場が、しん、と静まり返る。
自作の曲と詞、至らぬ点もありますが、と恥ずかしそうに言うきみは、けれど、ひとたびギターの弦をはじくと、別人のようで。
歌うのは、初夏の海の情景。寄せては返す波、潮風が薫る中、海鳥が飛ぶ。互いに想う恋人同士が砂浜を歩きながら、一緒にいる日常が、打ち寄せる波のよう、いつまでも変わらず続きますように、と語らう。日差しの照り付ける夏でもなく、ロマンチックな夕暮れでもない、静かな初夏の午後。凪でもなく、シケでもない。
どこにでもある何気ない日常だけれど、きみの詞に乗せられると、かけがえのないその尊さを、論理を飛ばして、情緒に訴えかける。
芸術は、普段は内気な学生を、これほどまでに饒舌な語り手にかえるのかと、心揺さぶられた。
会場の誰もが、きみから紡ぎ出される言葉と旋律に聞き入って、きみが一礼すると満場の拍手が鳴りやまなかったね。
「終わったら、打ち上げ兼入部宣言会します」という声にはっと呼び戻され、入部を即決していたよ。
入部宣言会が終わり、参加者の多くが二次会へ向かう中、きみは帰路についていたね。
「キャンパスは暗いし、人通りは少ないし。同じ寮ですから、一緒に帰りませんか?」
言われてきみは頷いてくれた。
今日の感想を伝えたいというのが本音だったけれど、何と言葉にしようかと迷っているうちに、寮に着いてしまった。
気まずさを隠せないところに、
「明日、感想を聞かせてもらえますか?」
と声をかけてくれたね。明日八時、寮の入り口で会いましょうと約束して。
次の日、ゴールデンウィーク最終日、キャンパスはいつもより人通りが少なかったけれど、誰かに見られるのは気まずくて、奥へ奥へと進んだ。
木の下、小さなベンチに腰掛け、言葉を探したけれど、すぐに出てくる訳もなく。
けれど、きみの、「何でも言って」という言葉に、堰を切ったように思いが溢れ出して。混乱してしまったけれど、最後に、
「日常って大事ですね」
そう言ったのを覚えている。きみははにかんで、
「分かってもらえてうれしい」
と返してくれたよね。
キャンパスの中、木漏れ日の下で。
日常って大事。その一言が、その後の、きみとの運命を言い表すことになるとはね。
それからは、サークルで練習に励んだよ。いつか、きみみたいな、偉大なアーティストになろうって。選んだ楽器はもちろんギター。
小学生の頃、少しピアノを習ったけれど、それ以来楽器からは離れていたから、基本のコード進行すら怪しかった。
それだけれど、きみは、ときにやさしく、ときにきびしく、根気強く向き合って教えてくれた。音楽という、新しい世界の扉を開け放ってくれたのは、きみだよ。
朝早く一緒に寮を出て、部室で楽器の手入れをして、昼は並んで授業を受けて、そして夕方からはサークル棟が閉まるまで、一緒に楽器を奏でた。
寮に還る夜道、その日の練習の出来を話しながら思うのは、きみとは、同じ大学の寮の仲間、サークルの先輩後輩、楽器の道の師弟……、それだけじゃ言い表せない、友達以上の特別な関係になっているよね、ってこと。
けれど、もし、きみは違うって思っていたらどうしようと不安で、口には出せなかった。
寮でルームメイトに囲まれて、付き合ってるんでしょ、って言われたきみが、頬を赤らめながら、違うからって無気になっているのを見たときは、へこんだよ。
そう思いつつ、同じことをルームメイトに言われたときには、違う! と声を上げてしまったけれどね。
「ねえ、一緒に自然公園に行かない?」
と言われたときは、どきどきが止まらなかった。
自然公園っていうのは、一つ隣の駅の近くにある、広い緑地のこと。都会に残された森の中、大きな池があって、二人乗りのボートがたくさん。近くにはたくさんのカフェも。
これはもしかして、って戸惑っていると、
「違うから! インスピレーションを得る方法を教えようと思って!」
と即座に返されたね。
初めて自然公園に行ったのは、授業が終わった木曜の午後。
はぐれないでね、と子供に言い聞かせるみたいに言うきみに、人もまばらなのに、大丈夫ですよ、と返した。
ゆっくりと園路を歩くけれど、何を話す訳でもない。胸のどきどきも収まってきて、飽き始めた頃。
「おしまい。わかったでしょ」
と唐突に言うきみ。きょとんとしてしまっていると、
「もう。来週もう一回来なさい」
と言われちゃったね。
次の週の木曜日も、その次の週の木曜日も、公園に行ったね。
園路を歩いて、きみをよく見ていると、少しずつ分かってくる。
きみが聴いているもの、きみがみているもの、きみが感じているもの。
人々の語らう声、揺らぐ青葉、水面を吹く風。最初は何も感じなかったけれど、今ここにしかないこの奇跡。当たり前すぎて気づかない、人々の営み。
ああ、きみが受け止め、歌っているのは、このことなんだって。
「分かったんだね」
というきみと、岸辺のベンチに座る。
「ライブで演奏した、初夏の海の歌、この池を見ながら作ったんだ」
うんうんと頷くときみは続ける。
「水面を見ていると、いろんな波、波紋が伝わってくるでしょ。水鳥が泳いだ航跡、魚が跳ねた丸い水門、みずすましの滑った水紋。池の水面を行き交う、波、波、波。行き交うのは波だけじゃない。岸辺には、人が絶えないでしょう。木曜の午後だけど、ここは都会だから。若いカップルから、お年を召した夫婦まで。日々、この公園を、思い思いに歩き、立ち止まり、語らう。日常のそれは積み重なって、やがて生涯の記憶になっていく。ああ、これだなって。そのまま歌ったんじゃ面白くないから、海辺に置き換えたらどうなるんだろうって。それで、あの曲ができたんだ」
すっと入ってくるきみの言葉。一緒に歩いたから、通じ合う心。かけがえのない、日常の尊さ、子供の頃に戻ったような、驚きに満ちた世界を、きみと音楽とが取り戻させてくれたね。
きみは驚くほど日々の出来事に鋭敏だったね。
寮への帰り道、街の明かりに照らされた夜空に浮かぶ月。薄雲に隠れても、きみは寸分違わず月齢を言い当てた。二十四節気、七十二候は当たり前、今日が何の雑節に当たるのかまで覚えていて、その日にちなんだ写真をスマートフォンの待ち受けにしていた。
刻一刻と変わる都会の空模様を、目を細めながら見上げていたきみの横顔を忘れないよ。
そんなに敏感だったらストレス溜まって生きづらくない? と問いかけると、疲れるけど、アーティストだし、と返すきみは、いつまでも年を取らないようで。
実際、きみは二回目の留年をして、ひと学年追い越されてしまったね。一年経ち、二年経ち、きみとは相変わらず、日々の季節のことから、芸術のこと、就職活動のこと、人生の選択まで、何でも話せる仲、けれど、好きです、その一言だけは言えなくて。
いつの年のゴールデンウィーク明けだったかな、帰省したとき、きみのために買ったお土産を手渡したね。
そのとき、ほんの少し、きみと指が触れて。一瞬だったけれど、とても、温かかった。
こんなに一緒にいたのに、一度も手をつないだこともなかったなんて。それでも、好きです、の一言と一緒で、手をつないでくださいとは言えず、すっと引っ込めてしまった。
きみも顔を赤らめて。思えば、これが元気なきみの温もりを感じた、最初で最後だったね。
そう、何気ない日常が何よりも尊いと語り合った二人には、残酷な運命の暗い影が忍び寄っていた。
「いつまでも一緒にいたいね」
そう語りかけるきみに、
「いや、社会人になるんだから、今までみたいには無理だよ」
と返したのは、卒業式の前日。
大学に残るきみは、それじゃあ、とSNSのアカウントを教えてくれた。あれ、SNSなんて使っていたんだと意外だったよ。
訪問してみると、フォロワーは三桁、投稿内容は面白おかしく、ユーモアにあふれていた。人って、こんなにも違う一面をもつことがあるんだ、ってびっくりした。
「ね、意外でしょ」
そう言うリアルのきみは、やはり顔を赤く染めていたね。
就職した後、きみとは何回か会ったけれど、大学時代よりずっと少なく、月に一回あるかないかになってしまった。
もっと会いたいな、とも思ったけれど、仕事が忙しかったし、何より、SNSで、面白おかしい話、あるいは季節の話、どたばたな日常の投稿をしていたから、それを確認して満足していたんだ。元気に、何事もなく過ごしている。何百人ものフォロワーと一緒に。
ある日のこと、私が死んでも、ネット上、SNS上の情報をかき集めて、AIか何かで私の行動を再現すれば、私はネット上では生き続けることになるんだろうか、そんな投稿をしていたね。
縁起でもないな、と思いながらも、まあ、感性豊かなきみのことだし、ふと思いついたんだろう、と流してしまった。
数か月に一度会うときは、久しぶりにきみに会えることで頭がいっぱいで、他のことには気が回らなかった。きみの体は、確実にサインを発していたのに。
会うのは決まって公園近くの軽食屋だったけれど、そこで頼むメニューが、何年か前の並盛から、小盛へ、ミニサイズへ、そして最後にはサンドイッチ一つになった。
最初はダイエットでもしているのかな、と思ったけれど、病的な色が隠せなくなっていた。
「ちょっとダイエットしすぎて」
と、はぐらかすきみを問い詰めて、
「食欲が落ちて、いつもの量食べると体調崩してしまって」
と白状させた。
年度が替わり、きみもやっと大学を卒業した。
そうだ、楽器を演奏できるカラオケに行こうときみを誘うと、手ぶらで現れる。
ギターは? と訊くと、売って生活費の足しにしたという。あんなに音楽を愛していたのに、ただ事ではない。
「就職できなくて、最低賃金のバイトなんだ」
そういうきみに、深くきくことはできなかった。
事情を聞かなくては、相談に乗らなくては、思いながらも仕事の忙しさにかまけて、SNSを見て、生きている、それを確認するだけで時間が過ぎた数週間後、再会したきみは、痩せこけ、生気がなく。覚悟しなくてはいけない、というのが一目で分かったよ。
「もう歌えないんだ。声出そうとするだけで、息苦しくて、吐きそうで。ごめんね。馬鹿だよ、日常が大事っていう歌を歌う人が、強がっちゃって、その日常が失われていくことを、一番大切な人に伝えられないんだからさ」
きみが吐血して、救急搬送されたと聞いたのは、その数日後だった。
進行性の末期の胃がん。肺、肝臓、リンパ節に転移している、何でこんなになるまで放っておいた、と怒る医師に、きみは、最初に行ったクリニックで、まだ若いんだから、ストレス減らしてきちんと食べていれば治ると言われたから、と説明したと聞いたよ。
「素直すぎるんだよ」
そう、病床のきみに投げつけてしまう。
「だって、みんなに心配かけたくなくて、弱いところを見せたくなくて」
最後に手を握りたいと伝えても、頑なに拒否して。
「いくら弱さを見せたくない、弱った体に触れさせて悲しませたくないっていっても、やりすぎだ」
というと、出ていってほしいと病室を追い出されてしまった。初めてのケンカを、こんなところですることになるなんて。泣きながら、きみに謝り続けた。
きみが、電子の海、ネットとSNSの世界にその痕跡を残して旅立ってしまってしばしのち、体調を崩して退職し、東京を離れて故郷に戻ったよ。
鬱鬱として月日が過ぎた。日々の変化に気付いて、助けてあげられてこそ、本当の恋人じゃないのか。
最後まで、好きですとは言えなかった。
変わらない日常が大切と言うのに、日常は変わらないものと錯覚してしまった。
音楽が手につかなくなり、きみと弾いたギターは売り払った。
塞ぎこむばかり。もう、人生を楽しむ資格はないんじゃないかって
そんな日々だったけれど、故郷で、好きと言ってくれる人に出会ったよ。
他に思い人がいるんだと断ったけれど、もういないきみのことだとはすぐに分かってさ。言われたのは、
「助けられなかったご友人を忘れられず、想い続けることは、仕方がない、いえ、自然なことです。ただ、あなたは過去に生きて、今の日常、一度きりの今この瞬間を見失っている。どうしても私の想いを受け入れてほしいとは言いません。気づいて頂ければ、それで」
はっとした。
その人の想いを受け入れることにしたよ。
きみを救うことはできなかったし、きみの分まで生きるなんてことはできない。けれど、それを理由に、きみが命をもって教えてくれた、大切な日常を、自責と後悔のなかに捨ててしまうのは、きみをないがしろにするのと変わらないんじゃないかな、って。
―――――――――
そのような経緯で、電子の海、ネットの世界に漂うきみと、偶然このページを読んでくださるだろう方々に向けて書いています。
変わらない、けれど気づかないうちに失われてしまう、尊い日常を大切に、それを心に刻んでください。
そうすれば、きみと、きみが教えてくれたことは、みんなの心の中に生き続けるから。
さようなら。
永遠の想い人のきみへ
敬具