≪2-1≫ 竜の野営
ひっきりなしに轟々と、水の音がする。
右かと思えば左から。近くからかと思えば次の瞬間には遠く。
夜空を流れる雲は竜の飛翔の如く躍動的で、かつ消えかつ結び、刻一刻と様相を変える。
それはまるで、雪の中を歩く者が白い息を吐くようにまったく自然に、しばしば轟雷を地面に叩き付ける。
……もっとも、この地の属性は『水』であるため、風に属する稲妻の勢力は控えめだ。何より水が恐ろしい。何の前触れも無く降ってくる豪雨が辺りを薙ぎ払っては消え去る。肌を裂くほど苛烈な雨だれは、人など容易く押し潰す。
大地はまるで、床に落とした皿のように割かれて砕け、その隙間を水流が渦巻く。
辺りには木の一本も無い。
この環境に適応できた、半分魔物みたいな水草だけが波打つ水流に漂い、あるいは陸地に辛うじて根を張っていた。
人は、これを魔境と呼ぶ。
人が住めず、住むべきでない場所と。
だがこれこそが本来の世界の姿。竜命錫によって大人しくなった天地こそが、本来は異常な状態なのだ。
今宵はそんな水の魔境の、島の一つに、場違いな明かりが灯っていた。
『へえ……そんな事があったのね』
『うん』
暖炉の前の猫のように丸くなって寝転ぶ巨大なレッドドラゴン、カファル。
その巨体を雨風避けにして、抱き込まれるようにルシェラは座っていた。
ルシェラの目の前では、焚き付けも無いのに煌々と炎が燃え続けていた。
ドラゴンは世界の組成に通じる生物。カファルの生み出した炎は、荒れ狂う水の力を払い鎮める。
ルシェラは裸足でその炎に両足を突っ込んで暖まりながら、鉄串に刺した肉を炙っていた。脂が浮かんできてジュウジュウ音を立てている。巨大魚の魔物の肉片は、ちょっと癖があるけれどなかなか美味だった。
『人族の社会……って言うか主に人間なんだけど……大変だよね。
わたしは別に、人間が他の人族に比べて殊更愚かだとは思わないんだけれど……これだけ数が多いと、社会が複雑になる分だけ、根深い腐り方をするんだろうなって』
野性味溢れる夕食をとりながら、ルシェラは先日、カファルが居ない間にクグトフルムの街で起きた事件の話をしていた。
『人間が嫌いになる?』
『ううん。わたしは元々人間だから、人間を簡単には見放せない、かな。見放したくないって願望もあって……』
ルシェラの言葉の尻尾は、ちぎれ飛んで消えた。
『元々人間』。当たり前のようにルシェラはそう言って、少し遅れて、言葉の重さを噛みしめた。
『そう言えば今のわたしって何なんだろ』
ルシェラはぽつりと呟いた。
びょう、と風の唸るような音がした。
カファルが息を呑んだのだ。
『ルシェラ、それは……』
『ごめんね、そんなつもりじゃなくて。
今が悪いとか、このままじゃダメだってことじゃなくって……』
ルシェラは慌てて自身の発言をフォローした。
カファルにはこの事を負い目に思ってほしくない。
出会いは運命だった。
そして、今ルシェラがここに居るのは、ルシェラ自信が娘であることを望み、カファルも母たらんと望んだからだ。
そのために苦労があったとしても、ルシェラはカファルを恨まないし、彼女の負い目にしたくない。
だから誰が悪いという話ではなく、これはルシェラの中の問題だった。
『……本当なら、狩りの訓練もあなたには必要無いのよね。
あなたはお金を使って、人から食べ物を買える。そして、それで充分だもの』
ルシェラとカファルの前には、人間などオヤツ感覚で一呑みにできそうな巨大魚が転がっていた。
カファルが捕まえたものだ。彼女が豪快に骨ごと食らったことで、もはや頭と尻尾以外はほぼ残っていない。そこから切り取った、ほんの僅かなおこぼれだけで、ルシェラは充分だ。
『確かに、この身体じゃママに比べて、食べる量もたかが知れてるもんね』
『そうね。ちょっと心配になるくらい小食だわ』
『これでもママに拾われる前の倍くらい食べてるんだけどなあ……』
ルシェラは苦笑する。
食べ盛りの子どもの姿になったためか、以前と比べると、とにかく腹が減る。一食抜いたら飢えて死にそうなくらいだ。
しかしそれでもドラゴンの巨体を維持するための食料と比べれば、ルシェラが食べる量はまったくもって微少だった。
ドラゴンは生きるために広大な狩り場を必要とし、人では挑むことも難しいような大型の魔物さえ、しばしば餌とする。
今、ルシェラが人の世界を離れ魔境を訪れているのも、ドラゴンが仔に施す最も重要な教育のひとつである『狩り』を、カファルから学ぶためだ。
いかに竜気満ちる魔境と言えど、竜命錫の力が及んでいるクグセ山は、まだ人の世界の一部だった。
竜の狩り場はまず苛烈な環境の中にあり、そしてそれに適応した猛者どもの楽園だ。ここに生息する魔物たちは、純粋に力比べをするなら『変異体』には及ばぬだろうが、それを狩る困難さは別格だった。
ドラゴンは生きるために狩りをしなければならない。
しかしルシェラは、違う。
『だけど、ママがどうやって生きてるのかは見ておきたいし、できればそれに付いて行けるようになりたい』
本物のドラゴンになれないとしても、ドラゴンのように学び、ドラゴンに近づくことで何かが見えるかも知れないと、ルシェラは思っていた。
『人の生き方』なんてものに、斯くあるべしという唯一絶対の道は無かろうが、多くの先人が踏み固めた轍……定型は存在する。
『ドラゴンの生き方』も、そうなのだろう。
では、人ともドラゴンとも言い難く、しかして両方でもあるルシェラは、どうするべきなのか。
決して人の枠には収まらない存在になってしまったのに、『人ならばこうするのが正しいだろう』という判断を積み重ねて、時に妥協的にドラゴンとして振る舞うのであれば、ただの人間もどきに過ぎない。
逆も然り。ルシェラは人を超越した存在となったが、ドラゴンとしては生きられない。
ルシェラと全く同じ立場から生き方を説ける者はおそらく居らず、ルシェラに続く者さえ現れるか分からない。
「ひゃっ!」
すぐ近くにいきなり雷が落ちて、ルシェラの鼓膜を震わせた。
それからいきなり、槍衾のような通り雨がルシェラ目がけて降ってくる。
今居る小さな島までぐらりと揺れたような気がして、ルシェラはカファルにしがみついた。
カファルは身体を寄せて片翼を広げ、ルシェラのために屋根を作った。
炎が渦巻いてカファルを纏い、夜闇を照らす。蒸発する水分が靄となった。
『キャンプするだけで一苦労だ……』
『今からでもクグセ山に戻る?』
『ううん、大丈夫。ママが居るから』
『……うふふ』
火の粉の混じった息を吐いて、カファルは笑う。
轟々と、水道管の中に居るとでも錯覚しそうな雨が打ち付けてきて、数分後には収まった。
カファルが獲った巨大魚の残骸は半分くらい流され、残りの半分は水圧で潰されていた。
きっと、朝までに何度も、こんな雨が降る。
――ここだって酷いけど、ドラゴンの群れが住んでる本物の魔境は、もっと酷い。
そこではわたしだって、きっと、生きてはいけない……少なくとも、今は……
ルシェラは、カファルに名を与えられたことで、『レッドドラゴンとブルードラゴンの娘』としてこの世界に定義された。
火と水に親和するルシェラは、水が荒れ狂うこの地でも、そう簡単に死にはしない。
ただ、それは『生きていけるかどうか』とは次元が違う話だ。
死の豪雨に晒されても揺るがない、母の巨躯を見上げる。彼女はこんな酷い環境でも、丸くなるだけで眠れるようだが、ルシェラが同じ事をしたら海の果てまで流されてしまいそうだ。
ルシェラは、カファルの娘になると決めた。だがスタート地点は大きく異なる。彼女のようになれるかは分からない。
母と同じである必要は無い、のだと思う。しかし、母と同じ歩幅で歩き、付いていきたいと思うのは、ルシェラにとって不思議なくらい自然な欲求だった。
『おやすみなさい、ルシェラ』
『おやすみなさい、ママ』
母の胸(鎧のような胸殻だが……)と、母の灯した炎に包まれ、ルシェラは暖かな眠りに落ちていく。
この温もりの中では全てを忘れることができた。
悩むのは、また明日だ。







