≪1-9≫ 独断専行
今最もやられたくない事、やられたら嫌な事は何か。
相手が賢ければ、確実に、的確に、それを実行してくる。
希望的観測などいつもいつも裏切られてきた。世の中は最悪だけでできている。だからこそ、予想は容易い。
宿の裏手に忍び寄る怪しい影があった。
袖や裾をたくし上げた動きやすい格好で、首には手ぬぐいをかけている。
体格が良くて、いかにも力がありそうな男だ。
そういう男は今、このクグトフルムの街に結構な人数、入り込んでいる。濁流がメチャクチャにしたこの街で、色々と物を片付けたり運んだりするのに必要だからだ。どこをうろついていても怪しまれはすまい。
しかし、彼がこの街でこなすべき仕事は、荷物を運ぶことでもゴミの片付けでもなかった。
復興作業で慌ただしい街に紛れ、やってきた彼は、周囲を伺って人目が無いことを確認すると、ズボンのポケットに手を突っ込む。
すると外見的には入っているはずがない大きさの、ガラス玉みたいな物体が出てきた。
袋や箱の中を亜空間に繋げて、多くの品物を仕舞い込むマジックアイテムというのが世の中にはあるわけだが、服のポケットをそのように魔化したり、あるいはポケットの内袋としてそういうものを仕込んだりもできるのだ。
ガラス玉のような物体……『薬玉』に充填されているのは、汚らしい色のペーストだ。
男はそれを見て『こんな物本当なら持ち歩きたくもない』とでも言う様子で眉をひそめ、それを、宿の裏口目がけて振りかぶり……
「うっ!?」
ほとばしる閃光に目を眩ませられて、たじろいだ。
「見つけた」
戸口の脇に身を隠していたモニカは、色籠を構えたまま姿を現す。
景色を写し取る魔法の箱には、間違い無く、汚いものを投げつけようとしている男の姿が焼き付けられていた。
ここは『岩トカゲ館』の裏口、ではない。
モニカが預けられている『サンザシ亭』という宿の裏口だ。
「ホント、笑えるくらい馬鹿で分かりやすいのね。餌を見せればすぐに食いつく。
釣り堀のお魚だってもうちょっと賢いんじゃない?」
モニカは、面食らった様子の男を嘲笑する。
そもそもモニカはここに転移魔法で密かに連れて来られ、預けられたわけだが、その意図が分からぬモニカではない。
にもかかわらず、何故、通りからも見える屋上に姿を晒して写真撮影に興じていたか。
この宿と自分自身を囮にして、『悪戯』の犯人をおびき出すためだ。
『サンザシ亭』は玄関側の通りが運河に沿っていて、見通しが良すぎる。そして左右は(壁の中は土地が限られるのでよくあることだが)人が入るのが窮屈なほどに別の建物にくっついている。
何かを仕掛けるなら建物の裏口が並ぶ裏通りだろう、というのは予測できる。
宿の主には少々申し訳ないかとも思ったが、このまま犯人を野放しにすればどうせ事は『岩トカゲ館』だけで済まぬのだ。
釣って釣れるならそれが上策だろう。餌は最も効果的であろうもの……モニカ自身だ。
相手は、モニカを今まさに匿っている者を攻撃する千載一遇の機会は逃したくないはず。……そう、全ては最悪の予測の内だった。
「それでどうするの? 観念して洗いざらい喋れば、減刑されるかも知れないけど?」
モニカは色籠をひらりとかざす。
それを見ていた男の顔が……威嚇する犬みたいに歪んだ。
「……んだテメェこのクソガキぁ!!」
「むぐっ!?」
気が付いた時にはモニカは大きな手で顔面を掴まれ、湿っぽい裏通りの石畳の上に押し倒されていた。
唇が自身の歯で切れて、口の中に血の味が広がった。
――この男、私を知らない……!?
突然の、あまりにも突然の暴力に、モニカはただ唖然と困惑して身体をこわばらせることしかできなかった。
誤算は二つ。
まず第一に『悪戯』の犯人は一人ではなかった。モニカや“黄金の兜”の動向を調べ、実行犯に指示を出す者が居たのだ。黒幕の意を受けて、事情を全て把握し、動いているのはそちらだった。
この実行犯の男はモニカを直接見た事さえ無かった。本来の姿も、そして『群衆の眼鏡』によってカモフラージュした今の姿も。政治や政治的事情にも全く興味が無く、十数年前に国を揺るがし、王妃と第一王女の廃位に至った大スキャンダルさえ知らなかった。
そしてもう一つは、モニカの想像力が、犯人の愚かしさに追いついていなかった事だ。
モニカは生まれてこの方、多くの悪意に晒される人生を送ってきた。
そのため敵意や悪意には非常に敏感で、他人の心の奥底まで透かし見る性質だ。
だが彼女には、『下賤な悪意』に晒された経験が決定的に欠けていた。
モニカを追い詰めた貴族たちは、教養があり、失うものがあり、とにかく外聞を気に掛けるのだ。だからこそ彼らの仕打ちは、返り血を浴びぬよう慎重なやり口で、じわりじわりと精神を参らせるような、えげつなくも迂遠なものだった。
そう……彼らの悪意は洗練された複雑なものだったのだ。
この『悪戯』を仕掛ける側にとって、モニカに直接手を出すというのは最大の悪手の一つ。だからこそモニカはここに姿を晒している。
だが相手が賢いとは限らず、常に熟慮して最適の行動を取るとも限らない。
モニカの想像の下のさらに下を行く者が、世の中にはいくらでも存在するのだ。
怒りが腕に直結している者もある。後先のことを微塵も考えず、『なんかヤバそうだしムカつくから』という理由で致命的暴行に及ぶ者が世の中にはいくらでも存在するのだ!
護身用と言うにはちょっと大振りなナイフを、男は抜き放つ。
汚れた刃先がギトついた輝きを放った。
「むーっ! む゛ーっ!!」
「大人を……ナメんじゃねぇ、クソガキが……
あんだぁ、正義の味方ごっこか……っぜぇんだよ!」
男は、喉を狙った。
急所でもあるし、人を呼ばれないため喉を潰すというのも、まあ妥当ではあろう……5分後の安全だけを考えるなら。
その一撃は稚拙ながらも躊躇いなく、力強く。振り下ろされるナイフは。
「ぎゃっ!!」
男と一緒に、宙を舞った。
風のような速度で横合いより駆け込んだ騎士が、大柄な男の身体を蹴鞠のように鋭く蹴り転がしたからだ。
ナイフは回転しながら石畳の上を滑っていった。
モニカの心臓は大きな音を立てて脈打っていた。呼吸が乱れていて、モニカは必死で息を吸った。
身を起こしたモニカの前で、二人の騎士が男に馬乗りになり、蛇鎖(投げつけると勝手に相手に絡み付くミスリル製の鎖)で男を幾重にも縛り上げていた。
「確保!」
「衛兵だと!? ガキ、てめ、呼びやがっ……」
男はもがいたが、戒めを解くことはとてもできそうになかった。
男は勘違いしている様子だが、彼を捕らえたのは衛兵ではないし、モニカが呼んだわけでもない。
市民風の格好をして街に溶け込めるようにしているが、よく見れば服の下にミスリルの鎖帷子を身につけ、剣を刷いている騎士だ。
おそらくはフォスター公爵の家臣。
彼らはつかず離れず、モニカの護衛を……いや、監視か。モニカの動向を見極め、公爵に報告し、必要とあらばモニカの行動を咎めることもあるのだろう。そのために遣わされた騎士だ。
どこから監視していたか知らないが、裏通りで何か起こっていると察し、駆けつけたようだ。
「モニカさん!」
「モニカ!」
丁度そこで、宿の裏口をぶち破るほどの勢いで開けて、ルシェラとビオラが飛び出してきた。