≪1-5≫ この広い世界と生命
翌朝。
街の運営に関する話し合いに参加するそうで、ティムとウェインは朝早くから出かけていた。
一方ビオラは暇……というわけでもない。
世間はてんやわんやしている状態だが、姉妹の時間を取り戻す猶予くらい、彼女には与えられてもいい筈だ。
「今日も出かけます?」
「ええ。モニカに街を案内したいので」
「なら付いていきますよ。ちなみにニンジンは要らないです」
「うっ」
まともな服装に着替え、出かける準備をしている姉妹に、今日もルシェラは付き合う事とした。
モニカは昨日とはまた別の、落ち着いた雰囲気ながら高級そうな藍色のドレス風ワンピースだった。買ったのか貰ってきたのか知らないが、『岩トカゲ館』に住み着くにあたって着替えを用意してきたようで、亜空間への接続口が渦巻くスーツケースの中から彼女は色んな衣類を引っ張り出している。
ビオラはいつもの普段着兼冒険装束だった。どうやら同じものを二着持っていて洗っては替えているらしいのだが、どう考えてもモニカの服の十倍以上は値が張る高級防具を、洗濯中のスペアとしてもう一着持っているというのはなかなかとんでもない話だ。
ただ、考えてみればビオラは廃位されたとて、有力諸侯と王家の血筋を引く超VIPに違いないのだから、強力な防具を普段着とするのも合理的なのだろう。昨夜は下着姿だったが……果たしてビオラは、信頼できる仲間の傍以外で、あんな戦闘力的な意味で無防備な姿になれるのだろうか。
自力で着替えを済ませた(これができるのは貴族の子女としては珍しいことだ……本来なら)モニカは、顔を誤魔化すための『群衆の眼鏡』を掛けると、ちょっと俯いてそっぽを向いた。
「別に来なくていいし……」
「迷惑?」
「………………迷惑じゃない」
つっけんどんな調子で呟くモニカ。
それを、もうたまらないという様子でビオラは抱きしめた。
「もー! この子は素直じゃないんだから!」
「わわわわわわ」
ビオラが抱き込んで頭をわしゃわしゃ撫でると、モニカはたちまち真っ赤になった。
「やめてよ!」
熱烈な抱擁を振りほどいたモニカは、ベッドの陰に飛び込んで枕を盾に様子を伺う。
警戒心の強い猫みたいだった。
胸を押さえる彼女の鼓動が、ルシェラの耳にまで届くように思えた。
「ごめんなさいね……
モニカは自分に好意的な人との付き合い方がまだ分からないんですよ」
ひそっと、傍らのビオラがルシェラに囁く。
ルシェラは、なんとも言葉を返しがたかった。
ビオラはモニカに一歩踏み出す。
するとモニカは枕を掲げるが、ビオラはそれをさっと取り上げ、何故か自分の頭に載せた。
「どこに行きたい?
この街のことは大概知ってるからどこでも案内できるよ。
浸水被害を受けた施設なんかはお休み中だから行っても見るだけになっちゃうけど」
「なるべく色んなものが見える場所に行きたい」
内容は曖昧だったけれど、モニカはすぐに答えた。
それほどに、彼女にとっては悩むまでもない答えだったということか。
「色んなものが見える場所……どこが良いでしょうねルシェラちゃん?」
「だったらママを呼んで背中に……
いや。その前に、あそこかな」
ルシェラも大して迷うことなく、答えを出した。
* * *
グファーレ連邦方面からクグトフルムへやってくると、必ず通る道。
東からの街道が稜線を跨ぐ、小高くなった場所。そこはちょうど、山裾の街が一望できる場所だ。
「わあ……!」
山から流れ落ちる川を人工的に拡張し、東西に延ばして『川の十字路』を作り運河とする。山裾から、その運河を抱え込むように広がっているのがクグトフルムの街だ。
傾きかけた日を浴びて輝く運河は、まるで街を彩る宝石のようだった。この運河がほんの数日前に濁流と化して溢れかえったわけだが、このセトゥレウは水の力が濃い土地。流れる水は既に清さを取り戻していた。
川に張り付くように艶めく屋根の建物が並んでいる。そして、魔物対策の壁がぐるりと街を囲んでいた。壁の中は未だ、流れ込んだ泥水の痕跡や、裂けた流木などが見受けられたが、それを片付けて日常を取り戻すべくせわしなく動き回る人々の姿もまた、あった。
クグセ山を含む山並みも。
清らかな川がいくつも流れる平原地帯も。
そこに広がる水田や畑も。
どこまでも青く澄んだ空も。
ここに、あった。
「絶景ですねえ。あんな被害の後でなければもっと綺麗だったかな」
「そんなのどうでもいいわ。ここ、広くて、広くて、遠くまで…………」
モニカの声が急に湿り気を帯びた。
彼女は、自分の目から流れた涙を不思議そうに拭って、一つしゃくり上げると、もう堪えきれなくなった。
「えっく、ひっく、広く、て、うう、広ぐで……」
「よーしよしよし」
ビオラの平坦な胸に顔を埋め、モニカは泣いた。
ここは景色が良いだけの場所だ。
それがモニカにとっては、何にも代えがたい幸福だった。
ビオラに縋り付いていたモニカは、ちょっと落ち着いてくるとルシェラの方に振り向いて、泣き濡れた顔でキッと睨む。
「……見てんじゃな、ひっく。ないわよ」
「ご、ごめんなさい」
ルシェラに対してはちょっと見栄を張りたいようだ。
モニカは崖に向かって立ち、深呼吸をする。
もう一つ。それから、何度も。
匂いも、温度も、全て余さず、そこにある全てを知ろうとしているかのように。
「外を見るのが好きだったの。普段はずーっと、狭いお屋敷の中で……庭に出ることも許されてなかったもの」
彼女はしみじみ、呟いた。
モニカがこれまでどんな生活をしていたか、ルシェラはある程度知っている。
様々に制限が課せられた中で、彼女に許された娯楽の一つが遠乗りだった。モニカはこれが好きだったようだ。だがそれも許されるのは時々で、出かけるときは数日前からスケジュールが決められ、モニカには車窓から外を見ることしか許されないものだった。
しかも、その理由が貴族たちの意地の張り合いと折衝の成果なのだから虚しいことこの上ない。
今は違う。
彼女は自分の足で地に立っている。
誰かが守ってくれるなら、見渡す限りの世界を歩んでいける。
「……ねえ。『色籠』ってマジックアイテムがあるわよね」
「あるね」
「ありますね」
「私、『色摘み』をやってみたい」
色籠なるものは、眼前の景色を魔法によって瞬時に写し取り、記憶するアイテムだ。
冒険者たちは主に調査活動で色籠を使うが、他の用途に使う者も在る。美しい景色や人などを写し取って絵にする芸術家が世の中には居るもので、それは色摘みと呼ばれた。
もっとも、色籠は高価なので、色摘みなど金持ちの道楽という考え方もまた強いのだが。
「この世界には色んな場所があって、色んな人が居て、全部違って……
それを沢山見てみたいの。でも、あんまり色々見ていたら、最初に見たものを忘れちゃう気がするわ。
だから形にして……そう、最初は絵を描こうって思ったの。でも別に私、絵が描きたいわけじゃないのよ。そのままの景色を残して、それを後から見ることができるなら、手段は絵じゃなくていいの。絵を描くのは、ちゃんと形になるまで時間が掛かりそうだし……
色籠ならボタンを押すだけで見てるものが全部残るし、だから……ぷはっ」
若干しどろもどろながら、ビオラとの血の繋がりを感じさせる勢いで、モニカは必死でまくし立てた。
息継ぎで言葉が途切れ、モニカと他二名はまじまじ、見つめ合う。
「あっ、えと……
私、変なこと……言った?」
「いいえ全然! ねえルシェラちゃん」
「はい! すっごく良い考えだと思います」
「そ、そう」
小さく呟いたきり、モニカは俯いて鼻をすすった。
よく見れば彼女は笑っていた。まだ他人に慣れていない幼子の、はにかんだ微笑みのように。







