≪43≫ 朝餉
マルトガルズは古く、元より大きな国であったが、今の形になったのは比較的最近のことだ。
現皇帝リチャード=デミトリス・アルニア・マルトガルズは、かつて武勇の王であり、二つの大国と十一の小国を併呑して、四つもの強力な竜命錫を持つ現在のマルトガルズ帝国を築き上げた。
なお、マルトガルズが『クグセ山のドラゴン』を放置し続けた理由としては、この戦争をする上で南からの侵攻ルートが経たれていた方が背後を気にせず戦えて都合が良かったから、というのも一応あるのだが、それはまた別の話である。
内乱や分裂の危機も存在したが、その度にリチャードの力によって全てはねじ伏せられ、今や皇帝の下に全てが統一された国家となっている。
超大国となったマルトガルズの中心にゼロから築かれた帝都・壮麗なるディアルマルトに、南東地域の旧帝都(王国時代の首都でもあるため、現在の帝都と区別して未だに『王都』と呼ばれることもある)から遷都が行われたのは三十年前のこと。
皇帝の住居であり、マルトガルズを動かす頭脳でもある皇宮は、神の御座もかくやというほど神々しく輝かしい、白亜の大宮殿だ。半端な大きさの都市など、この皇宮にすっぽり収まってしまうほどだ。
その皇宮の、中枢にて。
「何故このような蛮行を許した!」
皇帝と、帝国の最高幹部だけが集まって、国家の重要方針が決定される会議室『流星の間』。
馬鹿らしい程の金額を注ぎ込み、飾り立てられているその部屋の真ん中には、城壁から投げ落としたら攻め寄せる敵を殺せそうなくらい重厚な机が置かれていた。
その机に拳を叩き付けた男の名は、カイン・アルニア。
いかにも武人らしく肩幅広く、胸板も厚い彼は、現皇帝の長子であり、マルトガルズの皇太子だ。
皇太子カインは既に五十過ぎの歳。
戦いも政治も経験豊富で、父であるリチャードが死ねばすぐにでも皇帝として、立派にマルトガルズを導いていけるだろう。
……そう、父が死ねば。
リチャードが存命である以上、カインはあくまでも皇太子だった。
この御前会議においてさえ、特別な地位を与えられているわけではない。特別なのは皇帝だけだからだ。
「我が国はいつ、魔王の軍門に降り、悪魔の手先となった!?
戦いには勝つべきだ。だが、そのために人族世界を裏切れば、全てが我が国の敵となる!
次期アンガス侯の振る舞いは、国家の利益にも人道にも反するものであった! セトゥレウ王宮を独断襲撃し、竜命錫を奪った時点で何故止めなかった……
否! 止められなかったのだ! 目先の勝利に目が眩んだ貴様らが、彼奴を放任すべきだと主張したがため、慎重な意見は封殺されたのだ!」
ツバを飛ばして、カインは喝破する。
落雷の如き彼の声は、警備の近衛騎士たちが思わず身を竦ませるほどの圧力があった。
カインが非難しているのは、ジュリアン・アンガスによるセトゥレウへの攻撃を放任し、利用しようとした件だ。
他国の竜命錫に手を付けるのは、人族世界の禁忌。外交的に非常にまずい形の騙し討ちで、しかも竜命錫を奪ったというのは、相手が取るに足らぬ小国であったとしても危険だ。現在進行形で人族は相争っているが、建前としては、団結して魔族の脅威に立ち向かうべきだというのが人族全体のお題目なのだから。
だが。
あと少しだけ、ジュリアンに勝手をさせてから事を収めようというのが、先日の会議の結論だった。
その結果がこれだ。ジュリアンは竜命錫の力を逆転させて積極的に国を滅ぼそうという、最も外聞の悪い、非難に値するやり方でクグセ山を攻撃した。
それで勝っていればまだ取り繕えたのだけれど、好き勝手した末に負けたのだからマルトガルズにとっては目も当てられない。
ジュリアンを『使う』ことに慎重だったカインが激怒するのも当然だった。
そんなカインの絶叫を涼しい顔で受け流したのは、皺深く厳めしい顔をした、矍鑠たる老人だった。
「はて、おかしなことをおっしゃいますなぁ。
確かにこの場で慎重な意見を述べられた方はいらっしゃいましたな。しかしその方は、さしたる対案も持たずに不安を述べるばかりで……
『セトゥレウに詫びて許しを請えば、致命的に国内の戦意を挫くだろう』という私の意見にも、同意して頂けたと、そのように記憶しております。
さて、あれは誰だったか……この歳になると物忘れがねぇ……」
上品な口調であからさまな嫌味を述べた彼は、帝国宰相マヌエル・ウィーバー・ガントレア。
皇帝の補佐役を長年勤めた、実質的なマルトガルズのナンバー2だ。
マヌエルの嫌味に、カインはさらに激昂する。
「体面を保った上で落とし所を探れば良かっただけの話だ!
だいたい、有利な条件でグファーレ連合と引き分ける機会はいくらでもあっただろう! それをしなかったからこそ、我が国と民心は疲弊し、進んでも戻っても崖下に転がり落ちるような状況になったのだろうが!」
「後知恵ですな。戦場のことを後から考えれば、誰でも名軍師になれるものです。
過去は過去。今ここで論ずるべきは未来のことでしょう。
……そも、我が国に不当な要求をしたグファーレ連合を打ち破り、マルトガルズの威光を知らしめることは皇帝陛下の御意志に他なりませぬ」
「貴様、よくもまあ臆面も無く……」
マルトガルズの上層部は『武器の無い内戦』と言われるほどの激しい対立状態にあった。宰相派と皇太子派に分かれ、国家の大方針から晩飯のメニューまで争っているのだ。
この対立自体は昨日今日始まったことではないが、今、最も過熱している話題はジュリアンの所業に関してだ。
宰相派はジュリアンに勝手をさせて利益を掠め取ろうとした。皇太子派はそれに異を唱えたが押し切られた。
だが皇太子派が穏健かと問うならば、それも少し本質を逸している。
長引く戦いに疲労した国民感情を追い風として使うため、このような立場を取っているだけで、詰まるところ穏健な態度も宮廷内の権力闘争の手札に過ぎないのだった。
「静粛に! 皇帝陛下の御前であるぞ!」
近衛騎士長が槍の石突きで床を突き、いつまでも続きそうな二人の言い争いに水を差した。
近衛騎士長はこの場の話し合いに口を挟む権利こそ持たないが、争いを止めることだけは許されている。彼の立ち位置だけ、床石が削れてヘコんでいた。
その槍の音で眠りから目覚めたかのように、重たげに、首を持ち上げる者がある。
部屋の奥、一段高くなった場所の玉座に座り、金銀の刺繍を施した豪勢な装束で身を包む、肥満体の老人だ。
彼がリチャード。このマルトガルズの皇帝である。
デミトリスという第二の名は、征服された民族にとっても自分が絶対の君主である事を示すもので、また、彼にとって政治の師である賢人デミトリスに対する敬意でもあった。
リチャードは、若かりし日は軍勢を自在に操り、自ら剣を手に切り込む無双の武勇にて。
やがては苛烈ながらも、巨大な国を統制し富ませる優秀な政治手腕にて。
人族世界最大級の国家、マルトガルズの皇帝として君臨する男だ。
「……余は……」
洞窟に吹き込む風のように重く響く声で、リチャードは言う。
「お、おお……余は…………腹が減った」
そして、ぶるぶると震える手で苛立ちのままに、威嚇する猿のように玉座の肘掛けを引っぱたいた。
「何故、何故だっ! 何故、朝餉が遅れておるっ!
こ、皇帝がっ、腹を……空かせておるのだぞっ!
料理長は、何をしている! ゆ、許さぬ! 首! 首を斬れぃ!!」
「陛下! どうか、怒りをお鎮めになってください!」
「あ、朝餉……ふぅ、ゲフッ、ゲフッ」
リチャードは息を切らし、咳き込んだ。
窓の外では昼下がりの太陽が夕焼けになりかけていた。
「朝餉の支度だ! 皇帝陛下は退室される! 皆の者、跪け!」
一同はガタガタと椅子を鳴らすほどの勢いで立ち上がり、跪いて頭を垂れる。
そんな中、皇帝リチャードは近衛騎士長に肩を支えられて出て行った。
マルトガルズは国家の制度設計が巧みで、また皇帝の権力が極めて強い。
皇帝は全てにおいて優先される。皇帝をないがしろにするような仕組みは存在しない。少なくとも自分が生きている間は他の者に権力を奪われないよう、リチャード自らが作った制度だ。
……年老いて耄碌した皇帝を排除する仕組みなど、存在しないのだった。
* * *
御前会議は参加者に疲労感だけを残して終わった。
だがそれも既に、いつもの事だ。
皇宮深奥にある太く立派な、しかし通る者は極めて少ない廊下を、マヌエルは数人の腹心を従え闊歩していた。
「昨晩料理長になったキャベツを断頭台に架けておけ。
死体は刑吏衆の預かりとする」
「御意に。鍋に放り込んで処分させます。後任はニンジンで構いませぬか」
「うむ」
皇帝の命令は絶対だ。
従っても反しても大して変わらない命令なら、従っておけばいい。
「これから、どうなるのでしょうね……」
「分からぬが、この国が壊れることだけは確かだ」
部下の言葉にマヌエルは、さしたる感慨も無く答えた。
マヌエルはマルトガルズ王国のリチャード王が最初に征服した国で、一介の農兵として戦いに参加していた男だ。
やがてマルトガルズ軍に参加し、手柄を立てて出世した。
金を得た、部下を得た、爵位を得た、領土を得た、皇帝に次ぐ地位を得た。
そして……
「だが、それならそれでやりようがある。
我が手に入らぬ国であれば不要ぞ。
砕けて磨り潰されてこそ……手に取れるやも知れぬ」
マヌエルは、かつては剣を握っていたその手で、大きな窓から差し込む光を握りしめる。
皺が深く刻まれても未だマヌエルの手は、巌の如く重厚だった。
ここまでお読みくださいましてありがとうございます!
第二部はこれにて完結となります。
引き続き第三部の更新を開始します。
活動報告で言ったような感じの理由で、第三部は中編x3みたいにする予定です。







