≪42≫ 太陽
竜命錫による国土攻撃の被害は、レッドドラゴンによる時間稼ぎと迅速な竜命錫奪還によってほぼ阻止された。
ほぼ、というのは戦場であるクグセ山に近かった地域で被害が出ていたからだ。
異常な集中豪雨と湧き水の増大によって、治水機構の限界を超え、川が氾濫。クグトフルムの街は冠水した。
幸いにも死者は少なかった。避難の最中に流された者くらいだ。しかしゼロではない。
そして水が引いた後、街の人々には経済的な損害と、軒並み泥まみれになった建物の復旧という大仕事が残されていた。
「くそったれ、ぐっちゃぐちゃだ。さすがに捨てるしかねえな」
「まだ売る気だったのかよ」
「お前んとこはまだいいさ、二階を倉庫にしてたろ。俺んとこは地下に突っ込むしかなかったから悲惨だぜ」
泥まみれの野菜が散乱する店の中で、エプロン姿の男二人が片付けをしていた。
地下貯蔵庫から水を掻きだし、汚泥に塗れた野菜を引っ張り出し、店の前に積み上げていく。
壁には大人の腹くらいの高さまで、浸水の跡が刻まれていた。
洪水によって発生する泥水は、病を連れてくる。片付けをした上で店舗を徹底的に清めなければ、商売を再開することはできないだろう。
「生きてただけで儲けもんだがよ」
「まあなあ……」
汗だくで片付けをする男二人は、きつくなってきた腰を叩き、首から提げた手ぬぐいで汗を拭う。
ちょうどその時だった。
『オオオオオオオオ!』
「うおっと!」
「この声は……」
腹の底に響く大咆哮が、どこか高いところから街中に響き渡った。
男どもは片付けを放り出して通りに飛び出した。
大いなる翼を広げ、レッドドラゴンが街の上空を飛んでいた。
クグセ山に住み着いたレッドドラゴン。この街に住む者なら、彼女の飛翔する姿はもはや見慣れたものだ。
しかし、これまでの日常風景とは事情が異なる。
空には雲一つ無く、夏の太陽は輝きを増していた。
セトゥレウの夏は本来、蒸し暑い。だが今日の風はからりと乾いていた。
日光に晒されたずぶ濡れの物品は、奇妙なほどの速度で乾いていく。浸水していたはずの通りにも水たまり一つ見当たらず、今は乾いた泥が薄くこびりついているだけだ。
ドラゴンの力であれば局地的に天候を操るくらい可能だ。炎に親しいレッドドラゴンは日照りと乾きをもたらす。自然の暴威は時に容易く人の命を奪うが、時にそれは恵みともなるのだった。
『オオオオオオオオ!』
レッドドラゴンは空に向かって祝砲のように炎を吐いた。
作業の手を止めて天を見上げる人々は、彼女に向かって手を振った。
「ありがとー!」
「セトゥレウの守護神!」
「ドラゴン万歳!」
『オオオオオオオオ!』
街と国を守ったドラゴン目がけ、歓声がブチ上がった。
風を受けて舞い上がる海鳥のように、人々の声の中をドラゴンは飛んでいた。
*
日の光は眩しいが、カファルの背中に乗ったルシェラには容赦無い風が吹き付けて、むしろ涼しく思うほどだった。
もっとも、ルシェラはサウナの中でも厳冬の雪山でも平気で寝起きできるような身体なので、あくまでも快不快の話でしかないけれど。
カファルは今、街に乾きをもたらす事で復旧を手伝っていた。
陽光はより強く地表に突き刺さり、水を払い、熱で清める。
たてがみにしがみついて地上を見下ろせば、片付けの手を止めた人々がカファルに声援を送っていた。
「みんな大騒ぎだなあ……まあ当然か」
こんな風に歓声を浴びる経験など初めてで、ルシェラは苦笑した。
もちろん皆が見ているのはカファルの方で、背中に乗ったルシェラには気付いてすらいないだろうけれど。
カファルはジュリアンの策によって、セトゥレウの国土を鎮める『枷』が壊されようとした時、止めようとした。戦いが終わるまでの時間稼ぎをしていた。
そしてクグトフルムの街では、滅びの雨の中で、天に抗うドラゴンの姿を多くの人が目撃していた。
幸いにも戦いは素早く決着が付き、ビオラが取り返した竜命錫によって水害は食い止められたが、カファルの奮闘無くばクグトフルムの街は押し流されて地図から消えていただろう。
カファルの行動は、あくまで戦略的な判断。
同盟は相互利益のためのものだし、同盟を組むセトゥレウが傷つけば山の護りだって危うくなる。
だが、それはそれだ。身を挺して街を守ったカファルは既に街の英雄だった。
『やりすぎ、だめ。きをつけて。
にんげん、あついと、たおれる』
『分かったわ』
ルシェラがストップを掛けて、カファルは天へのブレスを止めた。
眼下の人々も再び、街の片付けへと戻って行く。
風と羽音の中。
鳥も畏れて近寄らず、空に浮かんだルシェラとカファルだけの時間。
ルシェラはジゼルの指輪を指に嵌めた。
まだルシェラ自身のドラゴン語技術では、全てを理解して伝えるには足りないから。
大事な話は、しっかりと。
『ねえ、ママ。わたしの名前を呼んで』
『えっ? ……ルシェラ。どうしたの急に』
『それ! その名前!
なんでちゃんと呼んでくれてなかったのかなって。
まだママからは、ちゃんと聞いてないし』
かつて、カファルがルシェラの名を呼ぶとき、それはただの音でしかなかった。
ドラゴンの名前であるなら、そこには付加的な『意味』を塗りつけられているものなのに、ルシェラの名前は音だけの真っ白な空白だった。人間の言葉と同じように。
今、カファルは本来の名でルシェラを呼んでいる。かつて喪った娘に付けるはずだった名前を、本来の形で口にしている。その事でルシェラは、卵の父である、水竜の血脈と繋がった。
カファルは、無視したのかと思ったくらいに間を開けてから、答えた。
『あなたを守るため。そのつもりだったの。
私の事情に巻き込みたくなかった。その名前の意味を知れば無関係ではいられないわ。
あなたを私のための犠牲にしたくなかった。
そのつもりで隠していたのに、結局……巻き込んでしまったわね。
そして私は何もできずに、また、あなたに助けられてしまったわ』
『何もできずに、なんてとんでもない。それこそ結果論じゃん』
カファルの声には後悔が滲んでいたけれど、それをルシェラは一蹴する。
カファルに真の名を託されて、ルシェラは上手くやった。
だがそれは、ルシェラを真の名で呼ばなかったカファルの判断を貶めるものではない。
彼女は自らの責任を想い、ルシェラへの優しさとして、隠し事をした。それはカファルにとって妥当な判断だ。
だからルシェラは、カファルの判断をどうこう言うのではなく、次の機会にはさらに妥当な判断ができるようにと考える。
冒険者マネージャーは合理的であるべきだ。
『何が一番良いかなんて、わたしにも分かんないし。
でも、だから、せめて隠し事はナシにしよう?
何か大変なことがあったら、自分だけで抱えないで、ちゃんと話し合うの。お互いに』
その言葉はルシェラにとって、自分への戒めでもあった。
大変なことを自分だけで抱えてしまった、その結果を、身を以て知っているので。
こうして約束しなければ、きっとルシェラは繰り返す。
そして、カファルにも自分の轍を踏まないようにしてほしいから、ルシェラはそう言った。
ただ、ドラゴンであるカファルがどうこうするレベルの出来事にルシェラが関わるのは、カファルにとって心配だろう。
ルシェラは人間離れした力を持つが、本物のドラゴンには及ばない。対等たらんと欲しながら、決して自分が対等でない事も理解している。
だから、ルシェラはもう一つ、約束を思いついた。
『それで、ママに頼れるところは、ぜーんぶ! 頼るから安心してね!』
『あらまあ、それじゃ……ママは大変ね』
『うん!』
まるで、生まれた時からずっと背負っていた荷物に今ようやく気が付いて下ろしたかのように、身体が少し軽くなった気がして、ルシェラは、母に甘えることを学んだ。
太陽はのどかに照りつけて、ルシェラとカファルの背中を温める。
営みを立て直す人々の声が、空まで聞こえてくるように思えた。
第二部はここまで……ではありません。あと1話あります。
ちなみに書籍化します。既にバレバレだった気もしますが正式告知しました。
1巻は11/29発売予定です!(一部地域では遅れる/早くなる可能性もあります)
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来年の割と早い時期にコミカライズも動き出す予定です。







