≪41≫ 雨上がり
マルトガルズは皇家の(より正確に言うなら皇帝の)権力が強く、国家運営の仕組みと共通規格を作ることに長け、諸侯も縦割りの組織の一部といった趣がある。
そのことには功罪あろうが、大きな利点を一つ挙げるなら、戦場で指揮官が討ち死にしても誰が指揮を引き継ぐか自動的に決定して全軍がそれに従うという点は見逃せない。
戦いを続けるにしても、止めるにしても。
「私はアンガス侯爵家の家臣、パウロス・グレイライン男爵だ。
全ての上位者が戦死したことで、この場においてアンガス侯爵軍全軍の指揮権を持つ。
……我が軍は其方に対し、降伏を宣言する」
ジュリアンを守っていた本陣の騎士の一人、パウロスは、ルシェラが持っていた通話符で砦に居るクリストフと連絡を取っていた。
もはや戦場は一方的な虐殺の様相を呈していた。
アンガス侯爵軍の前衛部隊は半包囲状態で攻撃を受け、崩れた隊列はもはや反撃も防御もままならない。未だに踏みとどまっているのは、ただ単に後ろがつっかえて逃げられないからだ。
後詰めの兵はもはや統率を失い、順々に逃げ出していた。
戦死者が最も多く出るのは、勝敗が決した後の追撃戦だとも言われる。
それを止められるのは、指揮官や国による降伏宣言だ。
『こちらはクグセ山防衛部隊指揮官、クリストフ・ムルドゥ。
貴公の賢明な判断に敬意を表する。
そちらは信号弾を上げられる状況か? であれば慣例通り、五連続の『白』を。
確認し次第、こちらも白の信号弾を上げると共に、戦闘終了を全軍に命じる』
「了解した。貴公の寛容に謝意を申し上げる。
≪信号弾≫の魔法は心得ている。では、直ちに」
敗走する兵が我先にと駆け抜けていく中、パウロスは手を掲げる。
彼の指先から撃ち出された魔法弾は、残光を引きながら駆け上がり、雨雲の払われた空で白い光と煙を放って炸裂した。それが、五発。これが敵味方に全軍降伏を告げる証だった。
ほんの少し時間を置いて、山腹の砦から同じものが一発、打ち上げられた。降伏を認める証だ。
『総員、戦闘を停止せよ! 暴れている者のみ対処するように』
防衛部隊全軍に対するクリストフの命令が通話符から漏れ聞こえ、悲鳴や干戈の響きが急激に静まった。僅かに残った音も徐々に消えゆく。
乱戦状態にあった両軍だが、セトゥレウ側は隊列を整えながら一歩退く。
打ち下ろされる魔動砲の砲声も聞こえなくなった。
代わりに、負傷した兵のうめき声が聞こえるようになった。
そして戦いは、終わった。
「……さて。今のは人の世界の話です。
何故あんなのに従っていたのか教えてくれますか。
返答如何によっては降伏者だろうと、わたしのブレスで全員骨まで灰にします」
「ルシェラ……」
マルトガルズの騎士たちは、疲れ切ったように立ち尽くすか座り込んでいる。
それをルシェラは睨め回した。
物騒な言葉を聞いてティムは驚き諫めようとしたけれど、ルシェラは聞き入れなかった。
降伏すれば戦いは止まり、外交的な解決に委ねられ、個々人は人族世界の秩序に則って裁かれる。だがその場で問われるのはあくまで人に対する罪だ。
なれば、ドラゴンの縄張りを侵した者にはドラゴンの裁きがあるべきだとルシェラは考えた。正義や公正ではなく、そこには畏れあるべし、と。
パウロスはしばし、言葉を探していた。
フルフェイスの兜を装備している彼がどんな顔をしているか、ルシェラには見えない。
「それが最善と…………いや、妥当、であると信じたのだ。
国家と侯爵家への忠義。民の安寧。政治の安定。利益。己の地位と命……
考えるべき事は多すぎた。だが、従っていれば何かを得る見込みは比較的大きく、失う見込みは比較的小さい。
逆らったところで一族郎党もろとも反逆者になるだけだ。そして死ぬ。
何かを得て生き延びる、その見込みがある方へ……行くしかない。
世はなべて、何もかも思い通りにはならない。せめて、波の合間をすり抜ける木の葉のように…………」
彼の言葉は震えて尻すぼみになる。
ゴミ箱に押し込んで蓋をしていた迷いが、溢れ出してのしかかり、彼を押し潰しているかのように。
「私には、何か他にやりようがあったのだろうか……?
まるで出口の無い迷路を彷徨っているような日々だった。その果てがこんな、こんな……」
いかつい銀色の籠手をつけた手で、彼は頭を抱えた。
「もし私がドラゴンのように強ければ、こんな思い悩むこともなかったのだろうか……」
「……ドラゴンにはドラゴンの悩みがあります」
「そうか、失言だった」
パウロスはそう言って、長い溜息をついた。
彼には選ぶべき道など無かった……その事を以て彼を許すかは別の問題だが、誤魔化す気配を感じなかったことで、ルシェラは少し心証を良くしていた。
必要なのは、ドラゴンと向かい合う時に身を守るものなど何も無いという恐怖、畏怖だ。ジュリアンを殺害した今、これ以上の見せしめは無くてもいいように思われた。
「私は、許されたのかな?」
「いいえ。ですが、後は人のやり方に委ねます。
どうか後悔の無い時間を過ごしてください」
「痛み入る……」
事は人族世界の存亡にも関わる大事件だ。おそらく教皇庁も介入してくる。
兵はともあれ、指揮官級の騎士たちが死罪となる可能性は高いだろう。人族世界の裏切り者という汚名と共に。
セトゥレウ王国としてはそれよりも身代金を毟りたいところだろうが……
ルシェラは首を振って、それで、終わりにした。
後はルシェラが関わるまでもないことだ。
「……ビオラさん、そっちの様子は?」
戦場のど真ん中では、まだビオラが錫杖を掲げていた。
とち狂った者が襲いかかってこないか、ティムとルシェラは警戒していたが、逃げ去りゆく者さえ何かを憚るようにビオラを避けて通っていた。
もはや注意を払うべき敵も居らず、代わりに投降したアンガス侯爵軍の兵たちをすり抜けて、防衛部隊の騎士たちが……おそらくはフォスター公爵の臣下であろう者らが駆けつけてくる。
「私も竜命錫なんか使うのは初めてなのでよく分かんないですが大丈夫じゃないですか。こんなに綺麗なんだから」
空にはもう雨雲の切れ端しか残っておらず、透き通るほど青い空には虹が架かっていた。
大きな羽音が聞こえた。山を越え、カファルも帰ってくる。
で、あるなら山の向こう側も落ち着いたという事か。
それを見てビオラも竜命錫を収めた。身体に纏わり付いていた、大げさな腕鎧みたいな展開部位が折りたたまれて、『慧眼の渦嵐』は再び安置するための、一本の錫杖のみの姿となる。
「お……お姉、様?」
まだ事態に頭が追いついていない様子で、モニカはへたり込んだまま、呆然とビオラを見ていた。
『隷従の首輪』はまだ首に嵌められていたけれど、これは命令機か命令者が居て始めて力を発揮するものだ。ジュリアンが殺害されたことで全ての命令は破棄されたらしい。
ビオラはモニカの前に跪き、目線を合わせた。
「そう。あなたのお姉ちゃんのフランチェスカ。
普段はビオラという名前で身分を隠して冒険者をしてるのよ。
この眼鏡どう? これ『群衆の眼鏡』ってマジックアイテム。見る者の認識に働きかけて『自分が知っている人』の記憶と結びつけられなくするのよ。お陰で日常生活レベルならほぼ気付かれることなく……」
「おい、ビオラ」
いつまでも続きそうなビオラの脱線トークを、ティムが遮った。
「どうして、ここに」
「あなたを助けに」
モニカはただ、本当に、ビオラがここに居る理由なんて一つも思いつかなかったから聞いたようだった。
そしてビオラの迷い無き答えも、やはり彼女は想定していなかったように見えた。
ビオラはモニカを抱きしめる。
困惑する彼女を、強く、強く、もう離さないように。
「ごめんねぇ……もっと早くこうしてあげたかったんだけどね。
随分長く待たせちゃったね……」
「ふ……ぅ、う、うえ゛え゛え゛え゛え゛ん……!!」
モニカはやっと、声を上げてみっともなく泣いた。
巣から落ちて凍えていた雛鳥のように、彼女は身を震わせ、ビオラの平坦な胸に顔を埋めて抱きついていた。







