≪39≫ 待ち人来る
ドラゴンは人に化けるという。
しかし、そのために作り出した傀儡は本体から独立させて動かすことができる。むしろ、術が未熟なドラゴンは自らが人の姿になることはできず、傀儡を動かすことしかできないのだ。
この姿はあくまで、術者であるドラゴンが自在に設定するもの。カファルの場合はルシェラの今の姿に合わせ、その母親らしくデザインした姿だった。
裏を返せばカファルは自在に傀儡の姿を変えられる。ルシェラそっくりの傀儡を作り出すことも可能だ。
この傀儡は、ドラゴン本体には遥かに劣るが、力がある。
竜気を纏い、魔法を使い、人ならざる怪力も持つ。
しかしドラゴンが本来持ちうる、天地を書き換えるほどの力は無いはず。竜命錫に対抗するほどの力は無いはず。
だからこそジュリアンも、炎を操る傀儡を見て、それがルシェラであると信じ込んだのだろう。
「あれは偽物……!
で、では本物は……」
ジュリアンは狼狽し、周囲を探る。
カファル本体は山の向こうに居て、しかも彼女は竜命錫の力を止めるため、火を吹き続けている。ドラゴンとしての力をここで振るうことなどできないはず。
つまり……あれが偽物のルシェラだとしても、本物のルシェラが近くに居て、偽物の代わりに力を行使していると考えるのは当然の成り行きだった。
偽物のルシェラと共に突撃したセトゥレウの騎士団……
その中に、めざましい活躍をする者が一人あった。長柄の大斧を馬上で振り回し、兵を薙ぎ払っていた小さな騎士だ。
フルフェイスの兜を含めた全身鎧姿なので何者かは分からないが、普通に考えるならドワーフの女騎士だ。ドワーフの女は、人間で言うなら十代前半ほどの外見で成長を止めるが、肉体は男性同様に屈強で、戦場において小さな身体はむしろ『的が小さい』という利点にもなりうる。この場に居ても不自然ではないのだ。ましてドワーフたちの好む斧を振り回しているのだから、ミスリードの材料は充分だった。
「っりゃあああああ!!」
「ごふっ!?」「あがあ!」
業火を纏う長柄斧がフルスイングされ、研ぎ立ての鎌で刈られた草のように兵たちが吹き飛んだ。
乱戦の中に紛れ、埋もれていたドワーフの女騎士は……
否、ドワーフの女騎士のために作られた鎧を着て軍勢に紛れていた本物のルシェラは、アンガス侯爵軍の陣列を切り拓き、ついに本陣へと肉薄した。
手薄になった横合いから、一直線に、モニカの所へ走る。
ジュリアンは偽物のルシェラが突撃してきたことで、護衛でもある精鋭部隊を動かして対処する必要に迫られた。勝利の機会を引き寄せる一手としても妥当ではあった。
だがそのために守りは薄くなったのだ。
「貴様かっ!」
さすがにジュリアンが気付いた。
カファルの傀儡が消えた今、竜気の発生源は一つ。なれば武人たるもの当然に気付く。闘気渦巻く戦場においても、それほどにドラゴンの力と気配は圧倒的なのだ。戦闘態勢に入ったルシェラには気配の隠しようも無い。
何も無かったはずの虚空から、水が湧き出る。
渦巻き、飛沫を上げ、蛇のようにうねる水の槍がルシェラ目がけて殺到した。
貫き、引き裂き、押し潰し、果てはトドメに凍らせるのだろう。味方を巻き込むことさえ辞さない攻撃だった。それは確かに直撃すればルシェラをも殺しうる。
だがそれを見てルシェラは、兜の中でにやっと笑った。
「ありがと。その水……全部もらったぁ!」
「何!?」
押し寄せる奔流がルシェラを貫く、かと思われたその時だ。
水の流れはルシェラの周囲を巡る見えない大渦に巻き取られ、轟々と回転し始めた。
――重い……! でも、正面からファイアブレスで相殺するより遥かにマシな筈!
直撃を避けても尚、押し潰されそうな重圧をルシェラは感じていた。
指の血管が切れているような気がする。
水流に直接触れているわけでもないのに、上下左右から大岩に押し潰されているような圧力を感じた。
ミスリル製の頑強な全身鎧が、ヘコみ、ひしゃげ、遂には吹き飛んだ。鎧の下に着ていた深紅の戦闘服の、帯が、スカートが、そしてルシェラの髪が、圧力に翻弄されてばたついた。
だがそれでもルシェラは踏みとどまった。
この世の根源たる水の力。
それをルシェラは、己のものとして扱える。
竜命錫の暴威を正面から受け止めることはできずとも、流れを変え、いなすだけであれば!
「あああああああっ!!」
ルシェラに受け止められ、回流していた水の力が、周囲に解き放たれた。
多頭大蛇がのたうっているかのように渦巻き状に地面を抉りながら、それは騎士たちを薙ぎ払う!
「くっ!」
新たに発生した水の壁が、ルシェラの解き放った水流からジュリアンを守った。
ジュリアンは己と、力の源泉であるモニカを守るので精一杯だった。
もっともルシェラはちゃんとモニカが巻き込まれないよう気を配ったが。
そのジュリアン目がけ、変なものが飛んだ。
ド派手なタイダルブレスもどきに注意を引かれたジュリアンは反応が遅れた。彼が気が付いた時には、足下に飛んできた物体が弾け、桃色の煙を撒き散らしていた。
「うっ、げほっ、ごほっ!」
「お届け一丁毎度あり。お代は皇宮にツケといてやらあ!」
「貴様っ!?」
「うおっと! 逃げろーい!」
古式ゆかしい投石機を手にした、アンガス侯爵軍の兵の姿をしたウェインが、驚異的な身軽さで脱兎の如く逃げて行った。
『今だ、残りの『変異体』を全部けしかけろ!』
ルシェラの懐に入れていた通話符が、クリストフの声で叫ぶ。手元の全ての通話符を起動し、全軍に呼びかけたようだ。
同時多発的に魔物たちの咆哮が上がり、響き合った。
ウェインがジュリアンに投げつけたのは、魔物向けの誘引剤。
戦場のあちこちで、てんでんばらばらに戦っていた『変異体』たちがジュリアン目がけて殺到する。
それだけではなくさらに何匹も……温存されていた鳥型のものや劣種竜の『変異体』が一斉に解き放たれ、敵味方が入り乱れる戦場を飛び越えて突撃してきた。
この『変異体』を退ける間、ジュリアンはモニカに力を返すことができない。
『隷従の首輪』を通した命令で、モニカ自身に抵抗させることはできない。
その、数十秒の猶予。
もはやルシェラとモニカとの間を遮るものは無い。
ルシェラが取り出し広げたのは、転移魔法陣を縫い取った、クッションくらいのサイズの小さなカーペットだった。
*
打ち鳴らされる武器。砲声。炸裂する魔法。
――罰だ。
悲鳴。叫喚。怨嗟。
――これは、罰だ。生まれた罰。生きていた罰。
モニカ自身には何の力も無い。禍々しい戒めの首輪に抵抗することさえできない。
ただ、親から受け継いだ血がそうであったというだけで、『慧眼の渦嵐』はモニカの言う事を聞く。
圧倒的な力が、モニカの意思ならざる意思によって振るわれ、数え切れないほどの命を摘み取っていく。
――それが罪だというなら、罰を受けるのは、私だけだと思ってたのに……
まるで自分が腕を振っているかのように、命を潰して消し去る感覚が返ってくる。
今、モニカは、ただただ殺すための道具だった。
――生まれるかどうかは選べないけど、死ぬかどうかは選べた。
やっぱり、私なんか、もっと早く死んでおくべきだったんだ……!!
心の中でモニカは幾度も自分自身を殺した。だが身体は生きている。ジュリアンが必要とする限り、きっと、まだ。
ただただ自分が不幸の源泉となる絶望の未来だけがある。もはや母や自分だけの問題ではない。まずはセトゥレウ、そして、それから。
「お待たせモニカ。よく頑張ったね」
名を呼ぶ声を、モニカは聞いた。
「誰……?」
顔を上げると、そこには術師らしき格好の女が居た。
知らない。
親しげに話し掛けてくるけれど、モニカは彼女を知らない。
ただ、短くまとめたその金髪はモニカと同じ色で。
平均以下の胸囲もお揃いで。
ビン底みたいなメガネを彼女が外すと、鏡の中のモニカと同じ、碧空の色の目がこちらを見ていた。
「……後はお姉ちゃんに任せときな!」
彼女が軽く手をかざしただけで、モニカは身体が軽くなったように思った。
右腕から右半面までを覆っていた、武装形態の竜命錫が、バラバラに分解されたのだ。
竜命錫の力で宙に浮いていたモニカの身体は支えを失い、墜落したが、モニカより小さな深紅の人影がそれを力強く抱き留めた。
自己分解した『慧眼の渦嵐』は、磁石に引き寄せられる砂鉄のように宙を流れて、術師の女の右腕を覆う。
人竜戦争の折、十匹のブルードラゴンを材料にして作られたという竜命錫・『慧眼の渦嵐』……
その武装形態は、まさにドラゴンの鱗と甲殻を継ぎ合わせたような外見で、錫杖と、右腕から右半面までを覆う鎧という形状になる。
モニカが手にしていたときもそうだったのだ。
形そのものは変わっていない。だが、先程までと何かが違った。
鱗は艶めき、甲殻は脈動する。
まるでそれ自体、生き返ったドラゴンであるかのようにモニカは錯覚した。
「聞け! 『慧眼の渦嵐』よ!」
竜命錫を手にした女は、朗々と、戦場全体に響かせるかのように声を上げた。
「我が意に従え! 清き水流るる地の戒めとなりたまえ!
……そなたの主たるフランチェスカ・ヴィオール・エトル・セトゥレウの名の下に命ず!!」







