≪38≫ 戦場の蜃気楼
アンガス侯爵軍の前衛は、長槍兵が槍衾を形成しており、敵の足並みが乱れ鈍ったところで左右から重装兵が圧殺する構え。
陣容そのものも分厚く、最前列からジュリアンが居る場所までは遠い。
しかしそれを意にも介さず、赤い人影は正面から突っ込んでくる。
「この人数を相手に正面突破を計ると?」
「勝算があるのだろう。おそらく、あれは規格外だ。雑兵どもでは相手にならぬ」
ジュリアンが手を返すと、雨が動いた。
どうどうと流れ落ちる滝のように。
獲物を捕らえる蛟のように。
非情な刃となって、セトゥレウの防衛部隊に打ち付けられる。
だがそれは、一つの命も奪うことなく爆散する。
割れた大地から灼熱の輝きが迸り、水撃を打ち払ったのだ。
辺りには水蒸気が立ちこめ、それを斬り裂いて騎士たちは突進する。
盾と鎧で槍をへし折り、あるいは傷を負うことも厭わずに、軍勢と軍勢は衝突した。
鬨の声か、破れかぶれの雄叫びか、双方から声が上がり、武器と防具のぶつかり合う騒々しい音が響き渡る。
たちまち乱戦状態となったが、そんな中、深紅の少女は燦然と輝く。
人ならぬ身体能力により兵たちの頭の上を駆け巡り、突き出された槍や剣をひらりと躱し、炎と爆発を叩き付けて周囲を薙ぎ払う。剣も盾も兜も、焦げた土と共に燃えながら巻き上げられてバラバラと降ってくる。
陣構えに穴が空いたその瞬間を狙い澄まし、ジュリアンは竜命錫の一撃を打ち込む。大地を串刺しにするほど鋭い水の大槍は、渦巻く炎の壁を打ち破り……しかし少女は既にそこにいない。
煙を突き破って軍勢に躍り込んだ少女は、迎撃として放たれた風の魔法を炎の激流で圧殺し、数十人を一瞬でまとめて焼死体に変えた。
「こ、侯爵様。これは如何様に……」
「このままだ。遊撃隊にも『変異体』対策に専念させる」
「なっ!?」
小さなドラゴンの暴威に動揺した様子の騎士は、ジュリアンの答えを聞いて愕然とする。
「レッドドラゴンを排除した今、奴を仕留めれば、この場に竜命錫を止められる者は無い。つまりそれが勝利に等しいのだ。
仮に奴がドラゴン並みに強いとしても、これだけの兵と戦わされれば、疲労し、手傷の一つも負うだろう。そこを私の竜命錫と、貴様らの力で仕留めるのだ」
「そ、それではどれほどの兵が死ぬと……」
「どうせこの状況では、雑兵を守り切ることなど叶わぬ。
よいか、戦いとは危険なものだ。知らなかったのか?」
ジュリアンは眉をひそめ、愚かな家臣を侮蔑した。
「全ては想定の内だ。
竜命錫を攻撃に用いれば、セトゥレウの破壊は中断され、レッドドラゴンはまた戻って来るだろう。故に竜命錫は牽制と、とどめの一撃に使うのだ。此度の軍はそのつもりで編成した。
私の命令に従い、己の役割を全うせよ。さすれば最も犠牲は少なくなり、我らは勝利する。
私の作戦に誤りがあると思う者は、許す、今ここで申し出よ。より少ない犠牲で、確実に、奴を倒す方法を語って聞かせるがいい。
だが、目先の危険に惑い、私に反抗するのであれば……」
ジュリアンは一人一人を睨み付けるように、近衛騎士たちを見回す。
周囲は特に実力の秀でた者で固めているが、その中でもジュリアンのすぐ近くに居るのは、家柄も、父の代の地位も関係無く、ジュリアン自ら抜擢した将来の腹心たちだ。
「この場にて戦う全ての兵の命と、我が国の利益を危険に晒す愚か者だ。
奴に殺される前に、私の手で排除する」
衝撃を受けた様子で立ちすくむ者もあった。
だが半分ほどの者は……特に若く、実力によってジュリアンに取り立てられた者らは深く感じ入った様子で、彼らの視線には信仰にも等しいほどの尊敬と賞賛が宿っていた。
反論は、無い。
話を聞いているような時間も、無い。
戦いの音は怒濤の如く、あり得ぬ速度で迫っていた。
陣列をひしゃげさせ、夜空を貫く流星のように駆け抜けて、深紅の少女は独り、迫る。
もはやジュリアンと彼女を隔てるのは、数十人の精鋭騎士のみ。
しかし、それは大きな問題ではない。もとよりここが勝負の場、今が勝負の時なのだ。
「さあ来たぞ! 追い詰めろ! さすれば私が仕留めよう!」
騎士たちは一斉に少女に打ちかかった。
噴き出す炎が数人をまとめて蹴立てるが、攻撃が来ると分かっていれば守り、備える。
上等な装備・強靱な肉体・培われた体技を持つ練達の武人たちは、ドラゴンの業火に晒されても即死まではしない。そしてそれが重要なのだった。
術師たちが回復と支援の魔法を次々打ち込み、騎士たちは粘り強く食い下がる。渦巻く炎の中、騎士が少女に斬りかかる。
飛び跳ねて剣を躱した少女は、騎士の兜を蹴りつけて宙返り。空中から猛炎の波で辺りを薙ぎ払い、着地と同時に左右に両手を突き出し、掌底で鎧を砕きながら騎士たちを吹き飛ばした。
「そこだ!」
少女の動きが止まった一瞬。
ジュリアンは『慧眼の渦嵐』から力を引きずり出し、それを叩き付けた。
竜命錫による攻撃は、ドラゴンのブレスと同じ、世界を動かす歯車で直接挽き潰すような原始的現象。そのため魔法のような前兆も乏しく、鋭く唐突だ。
魂すら凍てつかせるほどの冷気が地より立ち上ったかと思われた、刹那。
まるで地面から巨大な槍が何本も突き出したかのように、ドラゴンもかくやという大きさの氷塊が形成されていた。
複雑に光を反射する氷の中で、深紅の少女は動かなくなっていた。
* * *
戦いの前……
「冒険者の間じゃ『初見殺し』って言葉があるんだ。『分からん殺し』って言ったりもするが」
山腹の砦。
急ごしらえゆえ、まだ簡素な机くらいしか無い軍議の間にて、防衛部隊長クリストフと“黄金の兜”の面々は作戦会議をしていた。
「魔物の中には、見た目から推測しにくい能力を持ってる奴も居ます。
それで、致命的な能力を隠し持ってる奴に知らずに近づくと、意表を突かれて殺されます。
そんな風に、初めて見る魔物の能力が分からなくて殺されるのが『初見殺し』です。
もしくは『初見殺し』を発生させやすい魔物そのものが『初見殺し』って言われたりもしますね」
ティムとルシェラの話を、クリストフは真剣に聞いていた。
騎士たちは武人、軍人。多対多の戦いこそが本分であり、ある程度規格化された手札をどう運用してぶつけ合うかが真骨頂だ。
対して冒険者は、奇想天外な能力を持つ魔物たちと、あらゆる状況下で臨機応変に戦う必要がある。
変な力をどう使うか、という点に関しては一日の長があった。
「ルシェラの能力はある程度まで、向こうに割れてると思って良いだろう。
だが『変異体』が増えたことだけでも向こうの計算は狂うはず。
そしてルシェラには仕入れたばかりの新技がある」
「『慧眼の渦嵐』は水の竜命錫です。
絶対に向こうの方が強いと思いますが、武装形態での攻撃は、水を操るわたしの『タイダルブレスもどき』である程度受け流せるはず。
炎による相殺だけだと思わせておけば、確実に一度、隙を作れます。後はそれをどう勝利に結びつけるかですが……」
「それも策が?」
「ええ」
ルシェラは頷く。
「ママに手伝ってもらうんです」
軍議の間の窓は、赤い壁によって埋められていた。
もとい、窓からはカファルの大きな顔が覗いていた。
* * *
もしジュリアンが今少し戦いの経験を積んでいたとしたら……あるいはそういった者から助言を受けられたとしたら、気付いていたかも知れない。
あれだけの雑兵を薙ぎ払ってここまで辿り着いた深紅の少女が無傷であるのみならず、戦塵を寄せ付けず、まるで絵に描いたように小綺麗な姿だったという違和感に。
戦場を駆ければ、土埃や泥の飛沫が身体と装備を汚すだろう。しかし深紅の拙いヒトガタは、まだそこまで物理的性質を再現できていなかった。
戦場のど真ん中に突き立った大氷塊……
その中に、もはや深紅の少女は居なかった。
ふと、少女の姿が掻き消えたかと思うと、その代わりに燃えるように赤い髪の美女が大氷塊の前に跪いていた。
「なんだとぉ!?」
「……だます、むずかしい」
呟いて彼女は、すうっと姿を消す。
山の向こうからはレッドドラゴンの咆哮が轟いていた。
ずっと手前で足踏みしてたんですが、総合評価点が6万超えました!
皆様のおかげです。本当にありがとうございます。