≪37≫ 破滅の引き金
染料をぶちまければ、辺り一面の色が変わる。
それと同じような何かが起こったと、ルシェラには感じられた。
「……は?」
隣に居るクリストフが、彼らしくない素っ頓狂な疑問の声を上げた。
ルシェラのみならず彼にも何かが感じられたようだ。
暖炉に炎が揺らめく暖かな部屋を出て、突然寒風に晒されたような、冷たく無慈悲な心細さを覚える。
命を脅かされる感覚だ。
致命的な何かが、戦場から波紋のように広がって、世界を書き換えていく。
「空気が変わった! これって……」
「……『最悪の想定』だ。
やりおった。やってくれおった」
牙を剥く獣のように、クリストフは歯を食いしばって顔を歪める。
「奴め! 本当に全てを破滅させる気か!」
ルシェラは全てを悟った。
竜命錫の制御を失った土地は、やがて本来の力を取り戻して荒れ狂い、人など決して住めぬようになる。セトゥレウは竜命錫『慧眼の渦嵐』という抑止力を失い、徐々にその状態になりつつあった。
だが、今、ジュリアンは破滅を加速させた。
『慧眼の渦嵐』によって嵌められた枷を、逆に破壊するべく世界を操作したのだ。
戦場に天変地異を引き起こしたいなら、ただ竜命錫の力を使えばいい。なればジュリアンの狙いはセトゥレウという国全体を危機に晒すことで対処を強要し、こちらの足並みを乱すこと。
悪魔と手を結ぶような最悪の侵略行為だった。
もはやマルトガルズは『ジュリアンの暴走』で済ませられない。咎をジュリアンに押しつけたとしても何らかの代償を払わされることになる。
だがそれは決して、マルトガルズに敵対するセトゥレウなどにとっても良い決着とは限らない。
水面に投じられた石が水底に沈んでも、投げかけられた波紋は広がっていく。
人族世界に混乱が起きる。『人竜戦争』も昔話となり、ある種の安定を保っていた世界が、混沌の中に突き落とされようとしている。
とは言えこの場に居る者たちは今後の国際秩序のことなど心配している場合ではない。
自分たちが生き延びられるか、そしてセトゥレウという国が、そこに住まう全ての人々が生き延びられるかの瀬戸際なのだ。
竜命錫は平時、世界を鎮めるべく封印の鎖を手繰り続けている。
積み重ねられた強固な封印は、同じ大きさの力を逆方向に掛けたところで、そう簡単に解けるものではない……理論上は。
しかし、抑圧されていた世界の力が、封印の解除を後押しする。さらにセトゥレウの封印は、『慧眼の渦嵐』を失って数日経過しているために既にほころび始めているはずだ。そんな中でどれだけ耐えられるのか、前例が無い事態だけに予断を許さない。
『グルルルル……』
「ママ!」
上空を旋回していたカファルが、唸りながら南側へと山を越えていった。
晴れ渡っていた空に、重く濃い雲が広がり始めていた。戦場上空に生まれた雲は、徐々に、南へ向かって広がっていく。
まるで澄んだ水にインクの雫を落としたかのようだ。
その雨雲目がけて、カファルは。
『グオオオオオオ!!』
火を噴いた。
太陽が二つになったかのように空が明るくなり、吐き散らされたファイアブレスが雨雲を焼く。
ただ雨雲を火炎放射で払っているというだけの話ではない。
ドラゴンは本質において世界と結びついており、その力は竜命錫と同質のもの。……いや、竜命錫こそがドラゴンの力を模倣し、人の意のままに操れるよう作られたものだ。
今、カファルは『慧眼の渦嵐』より発せられた力を相殺し、掻き乱している。
時間稼ぎでしかないとしても、そうせざるを得ない。さもなくばクグセ山に最も近いクグトフルムの街は間もなく嵐に呑まれ、少なく見積もっても数百数千の命が失われるだろう。
「竜命錫の力も、即座に全土へ伝播するわけではなかろうが……
これでどの程度、猶予を作れる?」
「わたしにも分かりません……!」
この展開もクリストフは想定し、事前に対応を考えてはいた。
実現しないでほしい最悪の想定として。
竜命錫の力を防いで時間を稼ぐことはカファルにしかできない。即ちカファルの助勢無しで『慧眼の渦嵐』を奪還しなければならないのだ。
「攻め下れ! 敵はこれ以上後退できぬ、高所の優位を取れ! 『変異体』の誘導を誤るなよ!」
遠話によって指令を下すクリストフの表情は、絶望してこそいないが、険しい。
彼の判断一つが、戦場に居ない者も含めた多くの命を左右する局面だ。まともな精神を持つ者なら当然に重圧を感じるだろう。
「……我らは全員の命を捧げようとも、竜命錫を止める。だが、そのためには……」
「分かっています」
クリストフの唇は重たげに言葉を紡ぐ。
ここまで状況が切羽詰まれば、セトゥレウという国を守るため彼らも手段を選べなくなる。
竜命錫を止めるために、最も簡単なやり方は、何だっただろうか。
「その前に、一つだけ試させてください。このまま終わらせたくないんです」
それでもルシェラはまだ諦めていなかった。
*
マルトガルズは、その広大な領土を、四つの竜命錫によって治めている。
荒ぶる自然の力をねじ伏せ、人が住める領域に変えているのだ。
今ジュリアンが立っている場所は、マルトガルズの竜命錫の効果範囲から一歩出た場所だった。
つまり普段は『慧眼の渦嵐』の効果圏内である場所。力を通す導線として均されている、謂わば血管の先だ。
だからこそ、ここからであれば『慧眼の渦嵐』の力をセトゥレウ全土に送り込める。
竜命錫による封印解除は、ドラゴンの妨害がなくばやがてセトゥレウ全土に広がっていくことだろう。
ともあれ第一に影響を受けるのは、ジュリアンが居るこの場であるらしく、天には雨雲が立ちこめて刺すように冷たい雨がぱらつき始めていた。
「レッドドラゴン、南へと飛び去りました!」
「ああ、そうするしかないだろうな。
……これほどまでに何もかもが思い通りでは退屈にすら思えてくる」
先程まではジュリアンと護衛たちが先頭になっていたが、後続であった兵たちがゾロゾロと追いついてきて、布陣し始めていた。
長槍兵が槍衾を作り、重装兵が大盾を並べ、弓兵は敵弓兵の出現に備えて対抗射撃の構え。操機兵は敵の大砲や大規模魔法攻撃に備えて障壁の展開を待機している。術師たちは地の元素魔法で、敵の突撃を防ぐ壁だの堀だのを定型通りに張り巡らせていく。
今やセトゥレウ側のクグセ山防衛部隊は、セトゥレウという国全てを人質に取られた状態だ。この場に出てきて早期に決着を付ける以外、できることは無い。なればアンガス侯爵軍も、そのつもりで迎え撃つ態勢を取ったのだ。
レッドドラゴンが戦場を離脱し、その上でセトゥレウ軍が釣り出されてくれるなら、山を登っていくより遥かに有利な戦いになる。
もし意地を張って籠城するようなら、最終的にセトゥレウは滅び、もはや何者もマルトガルズを止められなくなる。他国の善意と気まぐれに縋って戦いを避けるという、ジュリアンには理解できない気持ち悪い平和状態には終止符が打たれる。世界をあるべき姿にすることができる。
ジュリアンにしてみればどちらに転んでも構わない状況だ。
そして、いずれにしても、ジュリアンの手元には個人的に使える竜命錫が残ることになる。
ちなみに、セトゥレウ国土を直接狙うこの作戦は土壇場まで誰にも相談しなかった。と言うか此度の戦いのことは徹頭徹尾、誰にも相談していない。愚か者共に意見を乞う必要性などジュリアンは感じなかったからだ。
未だに軍勢のほとんどは何が起こっているか知らない。状況が分かっているのはジュリアン自身と、周囲の者だけだ。
セトゥレウ国土への直接攻撃は、この場で強硬にジュリアンを止めようとした家臣も居たが、特に頑なな(つまり特に愚かな)者から順番に三人ほど排除したら残りは静かになった。
「空の脅威は消えた。空行騎兵、全騎発進せよ。
もし敵方に空を飛ぶものあらば、私が撃ち落とす」
ジュリアンの命令が下るや、雨空へと騎影が飛び立つ。
ヒポグリフに騎乗する騎士たちだ。
三次元的に戦場を駆ける空行騎兵たちは、敵の戦列を掻き乱し、大打撃を与える。制空権を奪われた軍勢は、弓や魔法の高射によってどうにか敵を撃ち墜とせるよう祈るしかないのだ。
竜命錫による超強力な魔法攻撃は、地上の乱戦を支援するには向かない。味方をも巻き込みかねないからだ。
空の敵を狙撃する方が容易いだろう。射程も威力も申し分ない。
そして相手の空戦力を奪ってしまえば、ほとんど勝ちが決まったようなものだ。
と、ジュリアンは楽観していたが、敵勢の動きを見てすぐに気を引き締める。
こちらの軍勢を丁度、ぎりぎり射程に収める距離の遠い稜線上に、魔力投射砲が生えてきた。
大砲を丸ごと収められる高性能の収納用マジックアイテムにて運び、あの場所に設置したのだろう。魔導双眼鏡を覗いてみれば、大砲を操る操機兵と、陣地を防衛する術師の姿も見て取れた。
早すぎる。
――敵の動きに迷いが無い……
この場での戦いすら想定していたというのか? 小癪な!
だが、分かっていたとて止められまい!
もし自分の考えを見透かされていたとしたら、と思うと、己の賢さを否定されているように感じ、ジュリアンは少し、苛立っていた。
しかしそれも冷静になればどうでも良いことだ。本当に強く賢いのは、最終的に勝った者なのだから。
やがて周囲の小高い場所からドドドドドッ、と音がして、黒い雨の如く矢が射かけられる。
味方の弓兵もこれに応射し、それから即座に光の屋根が陣列状に展開される。降ってくる矢のほとんどは光の屋根に防がれる。運悪く同じ場所に連続で矢が突き立つと、魔力によって編まれた障壁は割れて穴が空き、その下に居た者が犠牲になった。
だが、この射撃は被害を出すためのものではなく、あくまで障壁を張らせて反撃を封じるのが目的。
一斉射撃とほぼ同時、鬨の声がクグセ山に谺した。
なだらかな斜面をアンガス侯爵軍目がけて駆け下りるのは、騎乗した騎士たちだ。
その先頭、疾走する馬たちを率いて、馬より早く駆けてくるのは、鮮烈に赤い小さな人影。
――竜気を掻き乱すほどの……いや、発生源である故か。この強烈な気配!
ジュリアンは怒濤の如く押しつけられる『気』に当てられ、吐き気すら覚えた。
これほど離れた場所で、これほど濃密な気配を感じることなど、普通はあり得ない。
「侯爵様!」
「分かっている。
……出たか」
ジュリアンはいつでもセトゥレウの破壊を中断し、竜命錫による戦闘を再開できる。
そこに軍勢を突っ込ませても犬死にするだけだ。
だからこそ備えを用意したのだろう。
レッドドラゴンには遥かに劣るにせよ、天地の力を操れる、ドラゴンもどきの少女を。







