≪36≫ 一撃離脱
『ガアッ!』
空が燃え上がった。
アンガス侯爵軍の軍勢上空より、カファルがファイアブレスを吹き付けたのだ。
ドラゴンはブレス攻撃を、少なくとも人が息を吐くとき以上には自在に操れるらしい。拡散させて広範囲に吹き付けるなり、周囲を薙ぎ払うように滞留させるなり。
このカファルのブレスは、どちらかと言うと閃光型の攻撃魔法のように一直線だった。炎は、貫く槍の穂先のように、山を砕くほどの勢いで一点突破、ジュリアンを刺し殺すべく打ち込まれる。
ルシェラは遠くから見ていて血が凍るように思ったほどだ。ジュリアンが居る場所にはモニカも居るわけで、あんなのが直撃したらまず命は無い。
だが、心配は無用だった。
おそらくジュリアンが居るだろう辺りから、天に向かって昇る潮流が発生し、カファルのブレスを迎え撃ったのだ。
竜命錫『慧眼の渦嵐』による攻撃だ。
火と水。
二つのブレスは空中で真っ向からかち合って、爆発的な水蒸気を発生させながら相殺する。
出力は互角、と思われたが、天への水流は徐々に炎を押し上げ始めた。
ドラゴンのブレスはその名の通り、吐息に乗せた攻撃である。ドラゴンの圧倒的肺活量を以てしても永遠に持続するものではないのだ。
劣勢となったカファルは、鍔迫り合い状態だったブレス合戦に見切りを付け、大きく羽ばたいて旋回。竜命錫より放たれた追撃を回避してカファルは息を吸い、次の一撃を地上に見舞う。
もちろんジュリアンはこれを迎撃。水蒸気が煙り立った。
辺りには、先程カファルを外した水がドカドカ降ってきて地面をぬかるませ、空には虹が架かった。
――すごい威力……ママのブレスが押し負けてる。これが竜命錫の力……
ルシェラは、今アンガス侯爵軍の先頭集団が居る場所よりもだいぶ上、山の五合目ほどに築かれた即席砦の屋上から戦いを見守っていた。
映したものを魔力で拡大視する『魔動双眼鏡』を通せば、陣営の中心で、宙に磔にされたような姿でジュリアンに追従するモニカの姿さえここから見ることができた。
「竜命錫の圧倒的な力で敵を薙ぎ払い、兵はその傷口を広げ、また竜命錫を守る……
教本のような運用だが、やはりこれが強い」
傍らでは同じく魔動双眼鏡を覗き込むクリストフが、敵方の動きを冷静に分析していた。
「小さなドラゴンよ」
「ルシェラ、でいいです」
「そうか。では、ルシェラ。少しばかり、私の所感を述べたい。
ここまでの戦いを見て私は、勝てると思った」
「……理由は?」
鼻の尖った彫り深い顔の中で、クリストフの目は炯々と光っている。
彼はルシェラの方を見ず、じっと戦場を観察し続けていた。
「興奮状態、だな。
あんなもの、初陣の熱に浮かされたヒヨッコの戦いだ。
あれではいかに机上で賢き者だろうと、頭が働かぬだろう」
「こんな遠くから見ただけで分かるんですか?」
「分かるとも」
二人の前には山の地図と、何枚もの通話符を並べた机があった。風で飛ばないよう、地図も通話符も文鎮で留めてある。
双眼鏡を下ろし、クリストフは全ての通話符を流れ作業的に撫でて起動。
この一枚一枚が、山の各所に配置した各隊の前線指揮官に通じているのだ。
「まずは引き込む! 向こうは時間との勝負だ、退却の選択肢は無い!
損耗を抑えつつ疲弊させろ! 『変異体』を適宜使い、別働隊が存在しないかは常に気を払え!」
『『『了解!』』』
いずれの札の向こうからも、勇ましい応えがあった。
* * *
レッドドラゴンのブレスと、ジュリアンが竜命錫から借りた力による疑似ブレス。
命懸けの花火大会みたいな戦いの足下では、山を防衛するセトゥレウ兵がアンガス侯爵軍を攻撃し、襲ってきた『変異体』と騎士たちの戦いが起こっていたわけなのだが、突然ぷつりと全ての攻撃が止んだ。
「敵兵及びレッドドラゴン、退却していきます!」
退却の判断は迅速だった。
騎士たちが『変異体』を仕留めるなり、即座だ。
高空へ退避するレッドドラゴンを見送って、ジュリアンは一息つきつつ、周囲の様子を確認する。
治癒の魔法を使える者らが、傷つき倒れた者を救護していた。
いかなる力によるものか、ミスリルの鎧が半ば溶けかけている者や、鎧ごとグシャリと半身の潰れている者もあり、それらは死亡確認後、短い祈りだけを捧げられる。
世の中には死者蘇生の魔法というものもあるが、死者を蘇らせるには『神殿などの儀式場』『状態のよい死体』『多量の魔法触媒』『実力ある術師』『運』の全てが必要で、どれほど多くが死んでも蘇生を試せるのは普通、一度に数人だけ。この場で死んだほとんどの者らの命が永遠に失われることは既に確定的だった。
「『変異体』が全滅するなり、即座に逃げを打つか。そして次の防衛線での攻撃に備える……」
ジュリアンは家臣や、まして彼らの集めた兵士が死んだとて、そんなことにいちいち動揺はしない。
しかし戦力が減ればマズいという事は当然分かっている。
竜命錫の(つまりジュリアンとモニカの)守護に当たっている騎士たちは、一般兵などとは隔絶した実力を持つ。ミスリルを殴りつけて手型を残せるような猛者ばかりだ。
そうした精鋭騎士が、ほんの少し前、ケネスと共にクグセ山で沢山殺された。残りを掻き集めた結果がこれだ。
数も実力も物足りないし、代わりは居ない。
――随分と景気よく『変異体』を出してくるものだな。どこぞに隠していたのか?
『変異体』の攻撃は明らかに、竜命錫の守りを薄くすることだけを狙っていた。
こういう攻撃をしてくることは想定していたが、考えていたよりも景気よく『変異体』を使い潰しているという印象だった。
――こちらの情報収集か、情報分析か……あるいは両方が誤っていたやも知れぬ。
……奇妙な動きをする魔物たちが夜陰に乗じて、クグセ山に何かを運んでいるという情報はジュリアンも掴んでいた。
セトゥレウが騎獣を用いて軍需物資を搬入しているのだろうと分析されていたが、実はそれだけではなくドラゴンたちが荷役用の魔物を使役し、『変異体』を運び込んでもいたのだということをジュリアンは知らない。
しかし。見込み違いがあったとしても、もはや退却は許されない。
そして退却の必要も、無い。
山腹の砦を見上げ、ジュリアンは地図を確認する。
こちらへの攻撃を仕掛けられそうな場所は、砦に攻め上るまでにまだ何カ所かあった。その度に『変異体』を爆弾代わりに叩き付け、こちらの軍を疲弊させジュリアンを丸裸にするのが、敵方の作戦と思われた。
「愚かしいほどに慎重な奴らだ。ならばこちらにも考えがあるぞ」
ジュリアンは、傍らのモニカを見やる。
竜命錫の力で宙に浮いたまま、彼女はジュリアンに付いてきていた。
もはや感情が絶望に振り切れたことでそれ以上動かなくなったのか、彼女は激しい戦いにも無反応で、じっと地面を見ているだけだった。
「竜命錫を振るえ、犬。
……このセトゥレウの地に嵌められた枷を、全て外せ」
正気とも思えぬ様子で項垂れていたモニカが、びくりと顔を上げる。
曇った目の奥に、久々に怯えの色がちらついていた。