≪35≫ 戦闘開始
クグセ山、北側の麓にて。
「向こうも備えを間に合わせたか。小賢しい」
ジュリアンは山を見上げ、独りごちる。
緑豊かな山から突き出すように、一枚の岩でできたかのような建物群が突き出しているのだ。
魔法によって緊急築城された防衛拠点であることは明らかだ。
「侯爵様、山の魔物どもがこちらへ向かっています」
跪く騎士が報告する。
何か、恐ろしいものに追い立てられたかのように必死の様子で、数体の魔物がこちらへ向かって来るところだった。
『変異体』ではないようだが、死に物狂いの逃走をする魔物たちは、行く手に人あらばこれを薙ぎ倒す勢いだ。
「開戦の号砲としては、実に手緩いな。
……竜命錫の力を私に寄越せ、犬」
ジュリアンの傍らにはモニカが居た。
武装形態の『慧眼の渦嵐』を手にした彼女は、宙に磔にされたようにふわりと浮かんでいた。
彼女は絶望に曇った目でじっと地面を見ていたが、その首に嵌められた『隷従の首輪』の力により、彼女の手は彼女の意思を無視してジュリアンの命令通りに動く。
細波のような音がジュリアンの耳に響く。
そして湖光の如き輝きがジュリアンに纏わり付いた。
身体が爆発しそうに思われた。圧倒的な力。全てを平伏させる力。それがジュリアンの中に流れ込んでくる。
竜命錫は戦闘に転用できるが、竜命錫使いの血筋は大抵の場合、王族や大物貴族のみによって占められている。
つまり竜命錫で戦うということは、必然的に、特に死なれては困る者が(場合によっては一国の王が)前線に立つということになりかねない。
そのため、ほとんどの竜命錫は戦闘を想定して、他者に権能を貸与する機能が組み込まれていた。竜命錫使い自身が戦場に立たなければならないのは同じだが、これによってある程度の安全を確保しているのだ。
もっとも、今ジュリアンが竜命錫の力を借りたのは、モニカという端末を介さずに自らの意思で竜命錫の力を振るう方が効率的に戦えるという考えのためだったが。
「まずは、一撃」
ジュリアンが攻撃の意思を抱くと、全てはたちまち思い通りになった。
地を薙ぐ水流が迸り、木も草も刈り飛ばしながら波紋のように広がって、それは迫り来る魔物たちにぶつかるなり、殺戮の波濤と化した。
大地より生まれる大波。
血混じりの飛沫。
木っ端のように吹き飛ぶ細切れの肉片。
魔物たちは一瞬で、一撃で、一掃されていた。
「行け。私が道を拓く。貴様らはただそこを駆け抜けよ」
ジュリアンの命令一下、軍勢は動き出した。
先駆けはジュリアンとモニカ。そしてそれを守る精鋭騎士が、白兵と術師を合わせて80ほど。
その後に続く先陣が約2000、待機する後詰めが約5000。
歪な編成にも見えるところだが、この作戦の要はモニカの(つまりジュリアンの)竜命錫だ。竜命錫で道を切り拓き、立ち塞がるものを薙ぎ払うというのが、まず第一に為すべき事。
ここで竜命錫を止められるのは、それこそレッドドラゴンくらいだ。
しかし、そうなれば逆にジュリアンがレッドドラゴンを止める事にもなる。後は軍対軍の戦いだ。さすれば物量がものを言う。
後続部隊を投入するのはそれからでいい。険しい地形の山中にただ一斉突撃をさせても効果は薄く、『変異体』の襲撃に対処できる猛者は少ないのだから、この場合は尚更だ。
「ぬん!」
轟と、どこからともなく湧き出した水が迸った。
ジュリアンがただそう望むだけで、この世の根源の一つたる水の暴威が振るわれて、進む先の景色を変える。
クグセ山の竜気を受けて育った、金剛の如き堅牢さの木々さえ、竜命錫の巻き起こす大渦は薙ぎ倒していくのだ。伏兵や罠の存在は、最初からあまり気にしていないが、これでは奇襲も難しい。
軍勢はただ歩みを進める。
――まさか私が砦の前に着くまで一度も仕掛けてこないつもりか?
違うだろうな。有利な地点を防衛線として、こちらの疲弊を狙い攻撃を仕掛けてくるはずだ。丁度、このような場所で……
街道跡は、緩やかな谷間を横断する。
ジュリアンを含む隊列先頭が登りに入ると、長く緩い坂道の上に多くの人影が現れた。
「敵襲……!」
ドドドドドッ、と一斉に弓弦の返る音がした。
待ち伏せていた弓兵が矢を射かけてきたのだ。
戦場において一般的な攻撃手段の中で、最も長射程なのは大砲。次いで弓だ。中距離戦となれば魔法が猛威を振るうが、それより遠くなれば弓の世界だ。
文字通りの矢継ぎ早に放たれた矢は、より射程を長く取る、山なりの軌道。
これは威力が低い。
精鋭騎士たちの鎧は、ミスリルやオリハルコンなどの堅牢な金属で造られたうえ魔化によって防御力を高めてある。その鎧を貫き、なお超人的身体能力を持つ猛者たちに十分なダメージを与えるには、射手の側も常識外れの強弓を用いて、さらに矢を重力に任せず直射にて直撃させるしかない。超人同士の戦いにおいて、弓の有効射程は実際の射程より短いのだ。
曲射では雑兵がいくらか死ぬだけだろう。
しかし、矢に仕掛けがあれば話が変わってくる。
降り注ぐ矢は雷光の軌跡を宙に残し、流星群の如く迫る。
矢尻に雷の魔法を込めて造られ、発射と同時にそれを解き放つ魔力矢だ。
「他愛ない!」
ジュリアンが咆えて、凍てつく風が一閃!
飛来する無数の矢はことごとく打ち払われ、砕けながら舞い落ちた。
だが、その弓射さえ囮だった。
ジュリアンが矢を打ち払った瞬間、辺りは桃色に染まっていた。
……横合いより色付く風が吹き付けたのだ。凍てつく竜巻の如きジュリアンの魔法は、吹き付ける桃色の風を吸い上げて呼び込み、辺りを染めていた。
「なんだ? 桃色の粉……?」
「毒か!?」
騎士たちは身構え、特に術師である者は回復と防御の魔法を準備するが、これは毒ではない。ある意味で毒よりも対処しがたいものだった。
それは痺れ毒蜂のフェロモンを使った、魔物向けの誘引剤と興奮剤だ。誘引剤は魔物をおびき出して捕らえたり駆除するために使われるのだが、もちろんこの場合、目的は異なる。
「ウオオオオオ!」
「ルオオオオオン!!」
辺りに甘ったるい香りが満ちて、たちまち獣の叫喚が響き渡った。
「『変異体』だ!」
全身に十本以上の角を生やした牛みたいな魔獣や、脚と鉤爪が肥大化した地を駆ける鳥など、異形の魔物たちが姿を現し、いきり立って襲いかかってきた。
当然ジュリアンはこれに対処しようとするが。
『グオオオオオオ!!』
現れたのは『変異体』だけではない。
怒りで天を埋め尽くすかの如き咆哮に、誰もが身を竦ませた。
生きとし生けるもの全てに己の卑小さを自然と悟らせる、他と隔絶した圧倒的な存在感。腰を抜かして崩れ落ち、盾を掲げたまま震えるばかりの兵もある。
雲より遥かに濃い影が、地に落ちた。
強大な羽音と共に現れたるは深紅の巨影。
天を舞うレッドドラゴンが、地に在る人々を睥睨する。
「来たか、ドラゴンめ。我が前に立ち塞がるのであれば、貴様もまた、我が栄光の糧としてくれる!」
ジュリアンはそれでも尚、不敵に笑った。