≪34≫ 山の守り
クグセ山に、槌音響く。
今、クグセ山には、ここ数十年で間違いなく最多の人族が入り込んでいた。
王宮の意を受けてフォスター公爵家がクグセ山防衛部隊を編成し派遣、そして陣地構築を行っているのだ。
大きな切り株に広げた地図を、ルシェラは見ていた。カファルが住み着くより前に作られたクグセ山の地図だ。施設や道などは現在失われているが、地形はほぼ変わっていない。
地図を挟んで向かい合うのは、四十代くらいの人間男性。比較的軽装な鎧にローブ風のサーコートを身につけた騎士だ。武人らしく鍛えられた身体をしているが、元からそういう体つきなのか、骨張った印象も受ける。
彼はムルドゥ子爵こと、クリストフ・ムルドゥ。
爵位の意味は国によって多少異なるが、『人竜戦争』時の人族連合体からやがて国々が分化していった経緯により、世界的にある程度の共通項が存在する。
国によっては支配する土地によって爵位が決められ、複数の爵位を同時に持てる場合もあるのだが、一般的には家そのものの地位に従って当主に爵位が与えられ、それを世襲していくという形だ。
国王から直接領土に封じられ統治を行う『諸侯』は、立場によって公爵・侯爵・伯爵と呼ばれる。
そして諸侯の家臣には、都市や一定の土地を任される下級貴族として子爵・男爵が存在する(国によってはその下に更に準男爵という爵位もある)。これら下級貴族の地位は国王から叙爵されることもあるが、諸侯が家臣に対して勝手に与えることも許されている。
さらに重要な官職や専業軍人として貴族に召し抱えられた平民は、一代限りの爵位として騎士爵の称号を授かることもあった。
クグトフルムの街はフォスター公爵家の所領であり、クグセ山も(セトゥレウ国内では)フォスター公爵家の預かりという形になっている。
クリストフはフォスター公爵の家臣という立場だ。
ただしクリストフは、クグセ山をフォスター公爵家より預かった領主というわけではない。
クリストフが公爵家によって封じられた所領はさらに南の都市なのだが、此度は公爵家によってクグセ山防衛部隊の指揮官に任命され出張ってきたという形だ。
どのような人物かとルシェラは身構えていたけれど、幸いにもクリストフは、敬意を払うに値する人物だった。
「『変異体』は別にドラゴンの家来じゃないので、言う事は聞きません。
むしろ機会があれば食う、くらいの考えです」
「なるほど、ではどうやって制御するのだ?」
「普段は放し飼いにするしかないんですけれど……今回は、これを」
ルシェラは、癖の強い香木みたいな奇妙な芳香を放つ、黒焦げの石を取り出してクリストフに見せた。
「ブレスで長時間焼いた石です。人間にもニオイが分かるほどですが、魔物はさらに敏感です。
絶対ではないんですが、ドラゴンが縄張りを主張している場所に『変異体』はあまり近づきません。これをうまく配置すれば一定の領域に閉じ込めることができます」
ドラゴンのブレスには独特のニオイがある。
まあ、ブレスを浴びせられた獲物は大抵、ニオイなど嗅ぐ前に絶命してしまうわけだが、これはドラゴンの身体にも染みついた『ドラゴンのニオイ』だ。
カファルは巣の回りの木々を何本かブレスで焼いて、このニオイを焼き付け、縄張りを主張して『変異体』をルシェラから遠ざけていた。
ちなみにこのニオイは唾液に由来するようで、ドラゴンの唾液の成分を結晶化させた『竜涎香』は高級な香として用いられる他、錬金術素材としても高値で取引される。
ブルードラゴンの群れが提供した『変異体』は、元からこの山に居た『変異体』たちと同じように、ドラゴンのニオイと強さを知っていた。
それを利用すれば行動を制限することができるのだ。
「後は敵が来たら、誘引剤と興奮剤をぶっかければ、魔物はいきりたって襲いかかっていきます。これが効くのは実証済みです。
これで『変異体』を使うときまでじっとさせておくことと、必要な時に必要な方向へ突撃させることだけはできます」
「なるほど、充分だな。できれば今日中に配置を済ませたいが……」
「なんとかなると思います」
大いなる羽音が空を覆い、日が陰った。
見上げれば、狼頭の大蛸を後脚に掴んだカファルが飛んで行くところだった。
流石に『変異体』は人の手では扱いがたいので、カファル自ら配置しているのだ。
「『砦』はどうです?」
「想定の三倍は立派なものができそうだ。山の女王が枠を作ってくれたから後は柵を作ればいい」
クリストフは、地図に鉛筆で書き加えられた一本の『道』を指で辿る。
「このクグセ山は、ドラゴンが住み着くまでは交易路だった。
おそらくアンガス侯爵軍は、その街道の跡をなぞるようにやってくるだろう。既に道は山に埋もれているが、地形的に、軍を進ませるには一番楽な進路になるであろうからな。それに彼らの目的は、この山に道を作ることだ」
ちょうどこの道を塞ぐように、突貫工事で要塞を作っているところだった。カファルがいつぞや『家』を作ったときのように、魔法で岩の建物を作り上げ、それを基盤として砦に変えている最中だ。
これは軍隊が即席の拠点を作る際にしばしば使われる手だが、カファルが手を貸したことで、人の魔法によるものよりはるかに大きく堅牢なものができているらしい。
「本音を言うなら、この山から採れた材木をたかが防壁ごときに使うのは勿体ないが……
やるしかないだろうな。最高の材料を貰ったからには、我が工兵団が最高の作品に仕上げてくれるだろう」
「お願いします」
「ああ。
……しかし、これも竜命錫への対抗策にはならぬ」
クリストフはまだ敵兵の姿も見えない今から、既に一分の隙も無いほど緊張に満ちた表情だった。
「我らはセトゥレウ王国と万民のため、命を賭して戦おう。
しかし、此度の戦いに勝利するためには竜命錫を止めなければならん。
それも止めるだけではなく取り返さなければならないのだ。そのためには……」
「はい」
ルシェラは皆まで言わせず、頷く。
竜命錫の数が拮抗していない戦いは、しばしば一方的になる。それを覆すには人智を越えた力が必要だ。
即ちカファルと……カファルに比すれば微力ながら、ルシェラが。
騎士たちの協力無くして山の防衛はあり得ないが、逆もまた然りなのだ。
「山中での戦闘となる以上、敵はまともな陣形を組むのが難しくなる。
基本的な作戦は、構築した陣地で敵を足止めし、『変異体』を突撃させて混乱させ、君ら『対竜命錫部隊』が竜命錫奪うというものだ。
山の女王には空中からの援護を願いたい。竜命錫を防御に使わせることで、攻撃の隙を与えなければ、地上は十全に動ける」
「そう上手くいくもんかね……」
通りすがったウェインが訝しみ、くちばしを挟んだ。
彼はティムと共に建設作業を手伝っていて、二人がかりで巨大な丸太を抱えて運んでいるところだ。
ウェインが言ったのは、ルシェラも思ったことだった。
アンガス侯爵軍が単純に動いてくれる想定に思われた。魔物ですら事前の想定通りに動いてくれるとは限らないのに、まして人の軍隊はどうなるか。
「分からぬ。だが、だからこそ戦略の大枠は単純であるべきだ。
致命的な失敗をしにくくなるし、余裕があれば敵の小手先の動きにも対応できるからな。
そしてそれは同じ事がそっくり相手方にも言える。竜命錫という切り札を持っているのだから、それを最大限に活かす正面突破を仕掛けてくるのではないかと私は見ている」
クリストフは難しい顔をして慎重に予想を述べる。断言はしなかった。
彼も熟考の上でさらに悩み、不安を抱きながらも決断しているのだ。
「その上で、正面突破以外にいくつかのシナリオを想定して、それぞれにどう対抗するか考えているところだ。
最悪の想定でもどうにかなる目途は立っているが……
いずれにせよ、無血での勝利はあり得ない。どうか少しでもマシな決着になることを祈るばかりだ」
クグセ山に、槌音響く。
カファルがせわしなく飛び交う空は、地上の重い空気を嘲笑うかのように晴れ渡っていた。
爵位の意味は歴史上でも国によって違ったりするんですが、私の作品はだいたいこんな感じで統一してます。
史実の西洋では元はと言えば、支配する土地によって爵位が決まるもので、たとえば『○○侯爵』と言えば『○○の土地を支配する侯爵』だったりしますが(家名は別で存在する)、『フォスター』は家名であり支配している土地の名前ではありません。ここは史実に寄せるよりも私の好みで。