≪32≫ 継承
『ルシェラ!』
カファルの呼ぶ名に、ルシェラは始めて『意味』を見た。
――『ルジャの娘、我らが愛し子、天地の一欠片なる者よ!』――
その、名前の軽さが気にならなかったのは、ルシェラが元々人間であったからだろう。
ドラゴンの言葉は多層的に、多次元的に意味を含む。
今、カファルは、本当の意味を含めて『ルシェラ』を呼んだ。
『ルシェラ』という名前に、本来そういう意味があるということではなく、名前に添加された意味まで含めたものがドラゴンの名前なのだ。
――今までママは、敢えてこの名前から『意味』を抜いて、わたしを呼んでた。
分かっている。
それはカファルの気遣いだ。あるいは、青の群れへの警戒か。
直接はルシェラと関係ない、ルシェラを拾った時点で既に死んでいたルジャのことなど……その因縁など背負わせるべきではないと。二頭の間に生まれた卵ではなく、カファルの一存で拾われた子なのだから。
だがそれも今更な話だ。
――どう足掻いてもついて回る因縁なら、わたしが決着を付ける。
わたしは……ドラゴンの娘になると決めたんだから!
ボロボロの身体に力が満ちる。
ルシェラは、カファルから名前を貰ったとき、少女の姿となり、人を超えた力を手に入れた。
それと同質の変化が再び、起ころうとしていた。
世界を巡る力がルシェラと繋がった。
大いなる循環の一部にルシェラは繋がった。
流れ込み、流れ去る。それは湧きいずる炎の力より強く……
――深く、青い!!
ぽつり。
雨粒がルシェラの鼻先を掠める。
晴れ渡っていた空はようよう暗くなり、分厚く重ねた毛布のような雲が、空を覆い始めていた。
どうどう、轟々と、耳に奥に響く音がした。
クグセ山は水が豊かな山だ。多くの雨を受け、それを川と為している。
その川が、どこかで勢いを増して溢れかけているのだ。
腕が破裂しそうな奇妙な感覚。
ルシェラが溶岩石の剣を振ると、飛沫が弾けた。
『あれは!』
ブルードラゴンの化身たちは、もちろん、この異変に気が付いていた。
分厚い雨雲から奇妙な雨が降ってくる。
竜巻のように渦を巻き、指向性を持って、一つの流れを形成する雨が降りてくる。
ルシェラは走った。
まだまだ雨は地面を軽く湿らせている程度だったが、足下では水たまりを踏んだように水が弾けた。
シュレイは炎を纏う。渦巻く炎の障壁が立ちはだかる。
――……破れる!
剣が重い。
天を引きずるように、ルシェラは走った。
手にするのはただの溶岩石の剣では、もはや、ない。カファルの体長ほどにも至ろうかという、天より落ちる巨大水流が渦巻く、暴嵐の剣である!
「りゃあああああああっ!!」
身体を丸ごと回転させるようにして、ルシェラはその剣を、一閃!
爆発的な水音の後に、そして、静寂。
シュレイの張っていた炎の障壁は打ち払われ、人型をした彼の胸部は裂かれていた。背後の岩壁にすら高水圧の傷跡が深く大きく一直線に刻まれ、そぼ濡れている。
『……水流ブレス、見事』
『ルシェラに、こんな力があったなんて……』
濡れ鼠になった赤の竜王は、静かに笑って膝をついた。
* * *
雨上がりの空を、翼竜が二頭、飛んでいた。
片方の背中には、赤と青、二人分の人影。
『お前が納得する結果になってくれて、まあ、よかったわい』
シュレイは自らが飼い慣らした『変異体』を手繰りつつ、意地悪く笑って言った。
既に胸の傷は塞がっている。仮の肉体をいくら傷付けられようと、それを補修する力が残っている限り何ほどのこともないのだ。
同乗している青の貴公子は溜息交じり。『してやられた』という顔だ。
『あんなものを見せられては納得するしかあるまい!
さては初めからこのつもりだったな、赤の』
『フハハハ、さて何の事やら』
シュレイは呵々(かか)と笑う。
ルシェラが、カファルの名付けによって『ドラゴンの娘』と定義され変質したなら、その名を元々持っていた仔の父の性質も受け継いでいると考えるのは自然だった。
ところが当のルシェラに会ってみれば、水の力を感じない。
その理由は、カファルが彼女を呼ぶのを聞いてすぐに分かった。
カファルは『ルシェラ』の名を半分だけしか与えていなかったのだ。
何故かとは問うまでもない。不器用な娘の考える事など、海千山千の老竜にはお見通しだ。
だから少しばかり、背中を押してやった。
それでルシェラがいきなりあれだけの力を使えたのは、実際のところ、予想以上ではあった。これまでに積み上げてきた修練の成果なのだろうか。
彼女はドラゴンの名に恥じぬ力を示した。ひとまずブルードラゴンたちを説得する手間が省けたのはいいことだ。
これでシルニル海の群れの協力は取り付けた。
後はカファルに全てを託すより他に無い。群れとして、人族同士の戦いに手を出すことはできないのだから。
人とドラゴンが地上の支配権を賭けて殺し合う、悲惨な『人竜戦争』の再来だけは避けなければならない。
百年以上続いた戦いで、あんなに多かった人族は半分以下に数を減らした。
逆に人族も、長期的視点から最もドラゴンに打撃を与えられる戦法を取るようになった……何十万の犠牲を出そうとも、未熟なドラゴンの仔や卵を絶対に殺すべく攻撃を仕掛けてきたのだ。
双方が数を減らし疲弊しきったことで、土地を巡って争う必要が無くなり、人竜戦争は終戦の協定も何も無くただ終わった。あの戦いを繰り返さないというのは、今のところ人とドラゴンの共通の目標だ。
だから人族はドラゴンの群れを狙うことを厳に戒め、ドラゴンも群れとして人族と戦うことはしない。
人族の戦いに関われるのは、一時的にでも群れを出たドラゴンだけだ。
シュレイが娘に対してできるのは、ほんの少しの贈り物だけ。後は、上手くやってくれることを祈るしかない。
……義理の孫ともども。
『全く。人間などに懐かれて喜んでいるようではベルマールの竜王も随分と丸くなったものだ』
青の貴公子は苦い口調で毒づいた。
親しいからこそ無遠慮に。
『お前こそ、己が何者か明かせば良かったのではないか? 青の。
相変わらず若作りに化けよって』
意趣返しとばかりにシュレイは、最後までルシェラに対して名を名乗りもしなかった同乗者を、ちくりと咎める。
『『おじいちゃん』と呼んでもらえたかも知れんぞ』
『なっ……!』
青の貴公子は……シルニルの青竜王・トグルは、突然槍でも呑まされたかのように驚き戸惑った表情で絶句した。
絶句する程度には衝撃的な威力のある、何かを想像したらしかった。
『……全く! お前は何百年経っても食えん奴よ!』
『わはははははは!!』
誤魔化す調子で青の竜王はそっぽを向き、赤の竜王は大笑する。
朗々として陽気な咆哮は地平まで響き、夕焼けの前兆に向かって飛ぶ鳥たちを脅かした。
『竜王』という言葉に厳密な定義は無く、規模が大きくて支配領域が広い群れの長が敬称としてそう呼ばれます。
ちなみにドラゴンは一夫多妻もありですが、ライオンみたいに大人のオスが一匹だけの群れ構成ではありませんので、全員が群れ長の子どもか妻というわけではありません。







