≪30≫ 溶岩問答
赤く、白く、輝くものの中に、ルシェラは肩まで沈んでいた。
肌も口の中もカラカラに乾いて、押し潰すように膨大な熱量が全身を苛む。
「う……」
呼吸をする度、炎を吐いているように思った。
ルシェラは体内を流れる力を強く意識し、それを手足の先まで循環させていた。
当たり前だが人間の身体は、溶岩の中で生きていけるようにはできていない。
ルシェラの肉体は熱や炎に対して異常な耐性を持つ。だが、この溶岩の池は、ちょっと気を抜けばルシェラを焼き尽くしてしまうという感覚があった。
――ただの火とは密度が全然違う……それに、温度だけじゃなく、何かが……
ふっと気が遠くなって、世界が無限に拡大していくような奇妙な錯覚を感じる瞬間がある。
炎の渦しか存在しない悪夢の中で、燃えながら奈落へ突き落とされているようだった。
この場に見えている溶岩は、世界が秘めた荒ぶる力のほんの一欠片。爪の先程度でしかないのだと思えた。ルシェラを苛む熱は、世界と繋がっている。世界の全てがルシェラを呑み込もうとしているような気がした。
それはただ、大きなものに対して生き物が抱く根源的恐怖だった。
「なかなか頑張るな」
溶岩の池の上にふわりと浮いて腰掛けたシュレイは、涼しい顔で笑っていた。
ルシェラが溶岩の中から腕を持ち上げてみれば、痛々しく焼けただれた肌が焦げた煙を立て、すぐに再生していく。
もはやルシェラの身体は『便宜的に生きている』とでも言うべき状態だった。
物理的には破壊と再生を繰り返しながら、内部で魔力を……あるいは魔力でなく『竜気』と呼ぶべきものかも知れないが……循環させ、ダメージをどうにか受け流して存在の定義を保っている。
自分を削り取られ続けているような、耐えがたい苦痛だった。
「これは、どうすれば……終わりなんですか……」
「さて、どうしたものかな」
「うぇっ?」
とぼけた調子で思案顔を浮かべるシュレイに、ルシェラは一瞬、苦痛も忘れて素っ頓狂な声を上げた。
「ドラゴンは契約を重んじるものと聞き及びます。
それは、何の約束もない相手には何をしてもいいということですか」
「儂らと対等のつもりかね?
こうして機会を提供しているだけでも大幅な譲歩ではないかと思うがね」
「わたしは何をするかも分からないままここに来て、問答無用でこれが始ま……あうっ……始まりました。はーっ……今更ですが、ルールを、決めませんか……」
何をすれば、何が対価として得られるか……曖昧なままで仕事をしては痛い目に遭う。
状況に呑まれて条件が不明瞭なまま溶岩に飛び込むことになってしまったのは、自身の手抜かりだとルシェラは思っていた。
シュレイとルシェラは、決して対等ではあり得ない。しかしその上で、ルシェラは己を主張せねば永遠に『小さきもの』のままだ。
「では明日の朝、日が昇るまで耐えられたら、主を認め報いよう」
『そんな、お父様!』
無慈悲なシュレイの言葉に、成り行きを見守っていたカファルが悲痛な声を上げた。
それではまだ、今から丸一日近い時間を耐えることになる。
「殺す気ですか……」
「もう弱音を吐くのか?」
「わたしだって、自分の力くらい、分かってるつもり、です。少しは……」
荒ぶる炎に身を晒したことなど初めてだから、実際どこが限界なのかは分からない部分もあるけれど、推測はできる。
今の調子では日暮れまで身体が保つかどうか。
そこから限界を超え、根性と気力だけで歯を食いしばって耐えたとして……明日の朝日は拝めないだろう。そうルシェラは感じていた。
そして。
「きっと、あなたも」
「ほう?」
「あなたは無理難題と分かって言っている。
ならば何か別の意図があるはずです」
シュレイを見上げて、ルシェラは言った。
この老爺を侮るべきではないと思っていた。それは、あらゆる意味で。
ルシェラの力の程など一目で分かるのではないか、という気もするし、既にこの『試練』が始まってから少なくとも一時間程度は経過しているのだから、消耗の度合いも測っているはず。何しろ彼は飽きもせず、ずっとルシェラを観察していたのだから。
その上でルシェラ自身にも分かるような無理難題を吹っ掛けてきたことには、きっと、何かの意図がある。
『きづかい、むよう。どらごんの、ことば、わかります。
なにか、かくす、している?』
たどたどしくもドラゴンの言葉でルシェラは迫る。
いつの間にかシュレイが人間語で喋るようになっていたのは、ジゼルの指輪を外し、ドラゴン語を喋るほどの余裕も無いルシェラに気遣ってのことかと思った。
だがそこに意図があるとしたら、どうか。
ドラゴンの言葉は、何かを偽り隠すには向かないのだ。
『……生意気な奴め。
さて、ならば主はどうする?』
シュレイの言葉に、目が付いている。
ルシェラにはそう思われた。
彼はルシェラを凝視している。何かを見透かそうとしている。この会話は……『試練』のうちだ。
「どうともできません。わたしは認めてもらう立場ですから。
ただ、狙いが『試練』の名のもとにわたしをいじめ殺すことだとしたら、出方を考えなければなりませんので、違うならそうと言っていただけると助かります」
『仮に儂が、主を殺す気だったとして、それを止められると思うかね』
「思いません」
ルシェラは断言する。それは万に一つどころか、億に一つもあるかという望みだ。それくらいは理解していた。
「思いませんが、それでも戦います。
その場合、どんなに小さな可能性でも、『力尽くであなたを協力させる』というのが相対的に最も大きな希望だろうと思いますから」
『己が都合良く生き延びる道を、消極的に探っているようにしか見えぬがな』
「ええ、そうですよ。
ですがわたしは生き延びるためなら、どんな戦いにも臆せず挑みましょう。
命と引き換えても、なんて、格好付けた考え方は……もうしません。自分を大切にできない奴が落ちていく先は、悲劇だけだと分かったから……」
その言葉を、ドラゴン語で伝えられないことがルシェラはもどかしかった。
魂を賭けてもいい確信だ。
かつて■■■■■は……即ちルシェラは、ジゼルのために、戦えもしないのにクグセ山に踏み入るという無茶をした。その結果としてルシェラは多くの奇跡的な偶然に出会ったけれど、結果だけを見て判断の正しさを論ずることはできないだろう。
本当なら何もかもが手遅れだったはずのタイミングで、ようやくルシェラは、身を捨てることの罪深さを知った。
だから、そんなことは二度としない。カファルにも、させない。
『わたしは、ままと、いきる。
それが、わたしの、かくご、です』
『ルシェラ……!』
固唾を飲んで見守っていたカファルが、感極まった声を上げた。
シュレイは不動、かと思われたが、一拍おいて、耳まで口が裂けそうな笑みを浮かべた。
『面白い! 生死の狭間まで苦しめて見定めてやろうかと思っておったが、気が変わったわ』
そんなシュレイに驚き恐れる暇もなく。
ルシェラを包んでいた溶岩の海が、脈動し、逆巻いた。
「うわわっ」
宙に渦を巻くかのように溶岩が舞い上がり、熱気に煽られてルシェラは転びそうになる。
溶岩の池はすっかり消え去っていた。
全身を苛んでいた熱が遠のき、溶岩と比較すれば吹雪に思えるほど涼やかな夏風が、ルシェラを撫でた。
重力に反して巻き上げられた溶岩は、徐々に、二つの流れに収束して落ちてくる。
大量の溶岩がシュレイとルシェラの前でそれぞれ小さな形に圧縮され、炎の輝きが消えた時……そこには、長くてゴツゴツした岩の塊が地に突き立っていた。
「剣?」
まだ痛み以外の感覚が曖昧な裸身を庇って立ち、ルシェラは眼前の物体を観察する。
柄のように細い持ち手があり、鐔のように広い部分があり、刃のように鋭くなった部分があり。
それは、大雑把に剣の形をした溶岩石だった。
『それで儂に一太刀浴びせてみよ。さすれば主の××××、口ばかりの威勢ではなく真に覚悟あるものと認めてやろうではないか』
自らもルシェラと同じ剣を取り、人型をした赤の竜王は、牙を剥いて笑った。