≪29≫ 竜の試練
クグセ山に一歩踏み入った瞬間から、何かが違うとルシェラは感じていた。
全身を縛り上げられているような圧迫感。
刃物を突きつけられているような緊張感。
天に雷が滞留し、背中を狙っているようにも思われた。
山に竜気が満ちている。
のみならず、何かの枷が一つ外されているように思えた。
このクグセ山はセトゥレウとマルトガルズに挟まれ、両国が保有する竜命錫の力が波及して土地の本来持っている力が抑え込まれている……はずなのだが、今は、何かが違った。
地面という薄皮一枚の下に恐るべき何かが渦巻いている。踏み抜いたら、その瞬間、溶けて消えてしまいそうだった。
山の奥深く、カファルの巣に近い場所に、闘技場のような空間ができていた。
隆起した岩の『観客席』に囲まれたすり鉢状の空間があり、そこでは、形だけは人の姿をしている赤と青のものが待ち構えていた。
『来たか。逃げてはおらぬかと思うたぞ』
『逃げはしません』
ルシェラがやってくると、シュレイは、牙剥くかのように笑う。
シュレイは老爺の姿をしてこそいるが、弱々しさは皆無。山に満ちた力を更に濃縮したような何かが、人と同じ大きさのこの身体に、爆発寸前まで詰め込まれているように思われた。
シュレイと並んでいる、青竜の化身たる貴公子は、相も変わらず不機嫌そうだ。
『観客席』には彼のお供らしき二匹も人の姿で控えており、カファルの本体も岩の穂先に巻き付くようにして不安げにルシェラを見守っていた。
『そちらの話はまとまりましたか?
この試練というのをクリアしたら、協力を……』
『我ら『シルニル海の群れ』はベルマールの竜王と契約を交わした。それが全てだ』
青の貴公子はぶっきらぼうに言葉を投げつける。
交渉の相手はあくまでもシュレイで、ルシェラなど歯牙にも掛けないのだと、彼はハッキリ言っている。
だがそれだけでは気が収まらなかったのか、彼はルシェラに詰め寄って、渦巻く潮流のように揺らめき輝く目でルシェラを見下ろしてきた。
『おい、人間。
貴様は『ルシェラ』と呼ばれていたな。
その名は、ルジャの仔の名だ。それがどういう事か分かっているか?』
視線だけで、圧倒されそうなほどの力がある。
ルシェラが無言で踏みとどまっていると、青の貴公子は、その細面を歪めた。
『貴様は我が群れに連なる者でもあるのだ。その名を持つ限りな!
卑小な人間を群れの末席に加えたのだから、我らは物笑いの種よ。それがどれほどの不利益を群れにもたらすか、分かるか?
カファルは我らに断りも無くその名を人間に与えた……確かに禁じてなどおらなんだわ、そんな事をするドラゴンが現れるとは思っていなかったからな!』
何もかもルシェラには与り知らぬ事であったのだから、少し理不尽に思ったが、驚きつつ納得する部分もあった。
ドラゴンに名前を貰うという事がどれほど強い意味を持つのか、ルシェラは文字通り身を以て知っているわけで。それがカファルやルシェラにとってだけではなく、『ルシェラ』の父親や、その血族にとっても深い意味があるのだということまでルシェラは考えていなかった。
カファルのした事は、軽はずみだったのかも知れない。
だがルシェラはその結果として、今、ここに生きている。
『……ママがわたしに、その名前をくれたこと。間違いにはしません』
『ほざきおる……』
唸るような青竜の言葉に、ルシェラは震える。
山の『変異体』と幾度も戦い、その血肉を食らって力をつけたルシェラが、それでも恐怖を覚えた。力の差を理解してしまったがための生理的恐怖だった。
『もう良いか、青の。
この山は近いうちに騒がしくなりそうだ、我らが長居をするわけにはいかぬぞ』
『分かっている……!』
シュレイに諫められて、青の貴公子は引き下がる。
空間に波紋を残して一歩。
気が付けば彼は高く突き出た岩の上に座って、ルシェラを見下ろしていた。
『……それで、試練とは何をするのです?』
『そうさな。まず服を脱げ』
『はぃい!?』
続くシュレイの言葉に、ルシェラは我が身を守るように抱いた。
それは冗談ではなく、全くもって事務的な言葉だった。
『な、ななな、なん、なんなん、なんで裸に!?』
『そうして布一枚剥ぎ取られることにそれほど羞恥を覚えるのだから、人というのは不思議なものよな』
『だって!』
『それは防具だろう? だがそれは、儂が課す試練において何の意味も無い。
何より、そのような価値あるものが無意味に失われるのはドラゴンの誇りにかけて許し難い。安全な場所に置いておけ』
シュレイの言葉は気の利いた冗談とかではなく、やはり真剣で真面目な調子だった。
ルシェラはこの『試練』に臨むに当たって、例の冒険装束を着てやってきた。それをシュレイは惜しんだ様子だ。
ドラゴンは人よりも賢い……とされるが、彼らも欲望を持たないわけではない。
とりわけ、財宝を集めて貯め込むことにかけてドラゴンたちの執念は凄まじい。これは概ね全てのドラゴンに共通する性質だった。ドラゴンたちは価値あるものや稀少なものを見抜く審美眼があり、それらを愛しているのだ。
そして長い命の中で再び出会うことを願ってか、自分の持ち物でないとしても、価値ある品が失われることを厭うようだ。
『は、はあ……お気遣い、痛み入ります』
『その指輪もだ。ドラゴンの言葉を話せるようになる指輪なぞ、そうそう見かけぬぞ。外しておけ』
指輪のことを話した覚えはなかったが、カファルから聞いたか……
いや、ルシェラの様子から察したのだろう。シュレイの洞察力を侮るべきではない。
ルシェラは、観察されながらの脱衣にはかなり抵抗があったが、勇んで着込んできた冒険装束を脱いでいく。
適当に畳んで、すり鉢状になった空間の隅っこに置いて、その上にジゼルの指輪を置いた。
――この、とんでもなく頑丈な防具が……失われるかも知れない試練だって?
赤を基調とした冒険装束は、山の『変異体』の毛皮から作られたもの。
見た目はワケが分からないただの奇抜な衣装だが、秘めたる力は凄まじく、半端な攻撃では傷一つ付かない。間違いなく、この世界最高の防具の一つだ。
それが『無意味に失われる』とシュレイは言った。
ルシェラ目がけ、夏の日差しと、竜気を孕んだ熱風が吹き付ける。ルシェラは素肌でそれを感じた。
今日は暑かった。
……あるいは、熱かった。
異様な熱気が大地より巻き上がっているように感じた。
焼けた砂浜を歩いたときのように、足の裏が燃えるように熱い。今のルシェラの身体は、熱や炎に対して常軌を逸した耐性を持つ筈なのだが、何故か。
シュレイは、ルシェラが置いてきた服と指輪を見て、クイと指を振った。
するとそれらは高く吊り上げられ、周囲を取り巻く岩の先に引っかかる。
この置き場所ではまだ危ない、ということらしい。
『では、始めるとしようか』
『わっ!?』
シュレイの一言で大地が鳴動した。
毒ガスを吹く呪いの沼地みたいに、地面がボコボコ泡立った。
同時に、魂を炙られているような猛烈な熱を感じる。
『人族は竜命錫とやらを使い、天地の力を×してようやく生きていける××な生物だが、ドラゴンは違う。
火の力が満ちた土地には、赤々と溶岩の大河が流れ続けるのよ。我らの群れでは、溶岩で身を清められるようになってはじめて成竜と認めるのだ。鱗や甲殻が×××な幼竜には命取りともなるからな』
赤い光が染み出し、満ちた。
煌々たる溶岩の中に大地は少しずつ沈んでいき、辺りは燃え上がるプールと化す。
ルシェラの立っている場所だけ、一歩も動くことができないほど小さく突き出た足場となっていた。
『……人の身には辛かろう。だが、乗り越えてみよ』
シュレイが言うや、ルシェラの足下もグズグズと崩れ、ルシェラは溶岩の中に放り落とされた。







