≪27≫ 人の世の掟
セトゥレウ王宮を訪れていたジュリアン・アンガスが、セトゥレウ王妃ロレイナの不義の娘であるモニカを用い、セトゥレウの竜命錫『慧眼の渦嵐』を奪取した……
その報せは、稲妻の如き衝撃と共に国々を駆け巡った。
宮中晩餐会にてゴーレムを解き放ち混乱を引き起こしたジュリアンは、その騒ぎに乗じてモニカを略取。彼女に『隷従の首輪』を使い支配下に置き、『慧眼の渦嵐』を奪取した。
その後、ジュリアンは警備の騎士を殺害し、王宮を半壊させて逃走。モニカ以上に適合率が高い竜命錫使いも当然その場に居たわけで、再奪取を警戒しての早逃げであったと目される。
そして、一夜が明けた。
* * *
「ジュリアン、正気か貴様!」
「口の利き方に気をつけろ。私はもはや貴様の生徒ではない」
トーガの如き装束を身に纏う、いかにも隠者めいた風貌の老人が、唾を飛ばして怒鳴りつけた。
劣種竜の一種・蛇竜の皮を張った新品の椅子に深く座ったジュリアンは、うるさそうに手を払う。この椅子は父の使っていた椅子が貧相だったことから、執務室を己のものとしてすぐ誂えさせたものだ。
その日、ジュリアンの執務室に怒鳴り込んできたのは、デミトリスという男。もう90歳も超える老齢の人間だが、足腰もしゃんとしている。
デミトリスは現マルトガルズ皇帝の師でもあった政治学者。マルトガルズでは名を知られた賢人だ。
ジュリアンの父・ケネスは、ジュリアンの師として多くの教師を呼び寄せていたが、デミトリスはそのうちの一人だった。
デミトリスが血相を変えているのには理由がある。
他国の竜命錫に手を掛けることは絶対の禁忌の一つだからだ。
竜命錫を失った国は、その土地が持つ荒ぶる力を押さえ込めなくなり、人が住めぬようになる。つまり竜命錫を奪うことは、国土を廃棄した上で民を皆殺しにすることにも等しい!
人族同士が戦ったとしても、征服すれば民は財産となる。人道上の問題もある。まして竜や魔族との戦争になったとしたら、人族は連帯しなければ生きていかれないのだ。
この世界の半分を占拠する、魔物という脅威に常に晒され、その戦いの記憶を受け継ぐからこそ人族国家には超えられない一線があった。
それでも結局なんだかんだ理由を付けて人族は相争っているのだが、竜命錫の扱いにはいつしか不文律が形成されていた。
狙うのは戦場に投入された竜命錫だけ。もし狙われても、そんな大事なものを戦争に使った方が悪い、という理屈だ(実際にはあまりにも強力なので竜命錫無しの戦争はあり得ないが)。
そして奪われた側は民の命の保証と引き換えに速やかに降伏し、奪った側もごねずに竜命錫を返還する。
これは人族国家の相互監視によって成り立っている、戦争のルールだった。調停が難航したときは周囲の国が寄ってたかって和平圧力を掛ける。なにしろそれが破られた先には破滅しかあり得ないのだから。
「単純な話だ。竜命錫の力によってクグセ山を突破し、セトゥレウを平定すればいい。
そして私の管理下で竜命錫を用い、セトゥレウの地を安んじるのだ。
民の命さえ守ると分かれば、くだらぬ掟を持ち出して咆える負け犬も徐々に減るだろう。勝者を罰することは、そも、難しいのだから」
事も無げにジュリアンは述べる。
それを聞いてデミトリスは、皺深い顔の中で目を剥いて絶句していた。
実際、似たような事は過去の戦争でも起こっている。
ただ、その時はあくまで戦いの中で竜命錫を奪ったのであり、攻める側も国家ぐるみで周到に政治的根回しをした上で疾風の如く動いたのだ。
よりによって王宮から竜命錫を奪い、独断専行し、勢い任せに動こうとしているジュリアンとは違うのだが、そこはあくまで一諸侯の立場でできることの限界だとジュリアンは割り切っていた。
勝算はある。ならば試す価値がある。付き合わされるマルトガルズがどう思うかなどジュリアンは気にしていない。ましてセトゥレウの民など千人万人死のうがどうでもよかった。
「そしてセトゥレウの竜命錫使いを皆殺しにして、この娘に私の子を産ませれば、名実ともに私がセトゥレウ王だ。私を追い落とさんとする者あらば、それこそセトゥレウの民を脅かす者、人の世の敵となろうぞ。
ふふ……まあ、あのような小国の王冠など私には不足だが、王というのも悪くない。私が治めれば、あのような田舎でもいくらかはマシになるだろう」
壁に背を預けて座っている少女を、ジュリアンは尊大に指し示した。
拘束衣を着せられ、首に『隷従の首輪』を保護する重厚な首当て防具も嵌められたモニカは、絶望の重さに堪えかねた様子でずっと頭を垂れていた。
その傍らには『慧眼の渦嵐』。しかしてモニカはそれを自由に振るうことなどできない。ただ命じられるままに竜命錫を使う装置として、モニカは今ここに在った。
デミトリスの顔が引き攣っていく。
「だがそれが失敗したらどうなるか、考えたか!
たとえば周囲の国がセトゥレウに味方し、一息に平定できぬとなったら……」
「少しでいい、先のことを考えてもみよ。
竜命錫を失ったことでセトゥレウが崩壊すれば、補給路をセトゥレウに頼るグファーレは立ちゆかなくなる。
さすれば誰が我が国を咎められようか?」
「我が国は人族世界の信頼を失い、子々孫々まで祟ろうぞ!」
「人と人も。国と国も。
『支配と従属』以外には何もあり得ぬ。
信頼だの友誼だのというのは体の良いお題目よ、ただの言い換えよ。
重要なのは如何にして逆らいがたい支配を行うか。そして、その不満を如何にして宥め、呑み込ませるかということよ」
ジュリアンは玉座のように豪勢な、執務用の椅子から立ち上がる。
窓の外には幾百もの屋根が整然と並ぶ街並み。眩いばかりの陽光が差し込み、ジュリアンの顔を照らす。
「我が国は強大だ。グファーレ連合という邪魔者が消え去り、さらに強大になれば、もはや我が国を排除することは不可能となる。
……排除すれば人族世界が立ちゆかなくなるからだ。
自由とは、力を得て支配することで初めて手にできるもの。私は……自由が欲しい」
「なんという……!」
ジュリアンが振り返れば、デミトリスは奥歯が砕けそうなくらいに歯を食いしばっていた。
「ジュリアン、私が侯爵様に請われ」
「今は私が『侯爵様』だ!」
「……お父君に請われ、お前に教えたのは、この国を強く豊かにすることが万民の平穏のためと信じたからだ。人と人が虎狼の如く喰らい合う、血風吹き荒ぶ修羅の巷をこの世に作り出すためではない!
支配と従属? 結構だ! だが支配者には支配者の矜恃が必要だと教えたな!?」
啖呵を切ってデミトリスは、執務室の扉を塞ぐように座り込む。
「さあ補習授業だ! お前が及第を取るまで私はここを動かぬぞ!
どうしてもと言うなら私を斬って行くがいいっ!!」
「そうか」
ジュリアンは飾り置かれていた宝剣を抜き、剣術の師に習った通りの動きで鋭く踏み込み、無抵抗な老人の身体を両断した。
一欠片の躊躇いも抱かなかった。
「ぐお……あああ……」
「職務の邪魔だ。どけ。
……ちっ、人を殺すというのは思ったより汚れるものなのだな」
デミトリスは呻きつつ血の泡を吹き、肉塊と成り果てた。
ぶちまけられた臓物の臭気。汚れた絨毯。返り血に染まった執務用のスーツ。
掃除の結果として掃除が必要になるという状況にジュリアンは思わず舌打ちを漏らす。
ジュリアンが初めて己の命令で人を殺したのは、遠乗り中のモニカ(の護衛)に大型ゴーレムをけしかけた時だ。しかしジュリアンが心動かすことはなかった。
そして今ジュリアンは始めて、己の手で他者の命を奪ったが、やはりそれに心動かされることはなかった。
「こ、侯爵様、何か声が…………うわあ!?」
「片付けろ。それと私の着替えを」
「は!? は、はいいっ!!」
悲鳴を聞きつけてやってきたらしい従僕の男が、ガタガタと震えながら掃除用具を取りに走り去っていく。
それを無感情に見送って、それからジュリアンは、モニカの方を見やる。
「しかしこの娘、貧相な身体よな。胸など真っ平らもいいところだ。
夜の街に立つ下賤な商売女どものようにとは言わぬが……これでは孕ませる気も失せる。どうにかならぬものか……」
既にドン底の状態だと思っているのか、目の前で死人が出てもさらなる衝撃は無いようで、ただ呆然としているだけ。
恐怖の涙も涸れ果てた様子のモニカは、よく聞くと小さな声で童謡を歌っていた。