≪26≫ 竜命錫
セトゥレウ王宮の地下には、ドラゴンが寝床にできるのではないかというほどに大きな空間が存在する。
巨大な石造りのドームの外縁部は水路となっていて、絶え間なく循環する激流があり、そこから重力に逆らって地上に登っていく滝がいくつも存在する。
この場所で王都内の水路を流れる水が生まれているのだ。
五段になった中心の台座は、豪華に装飾された石彫。
ここにセトゥレウの竜命錫『慧眼の渦嵐』は安置されているのだ。
普段は。
今は違う。
台座の前には十人ばかりの騎士が居て、そのうち一人の手に、武器として『慧眼の渦嵐』はあった。
セトゥレウの地を治める竜命錫……『慧眼の渦嵐』。
竜命錫は状況に応じて形を変えるものだが、『慧眼の渦嵐』の武装形態は右半面を覆う仮面と、右腕を覆う重厚な鎧と、錫杖が一体化したような形状だ。
ドラゴンの甲殻と鱗を継ぎ合わせたような質感で、その色は深く昏い海を思わせる藍色。
騎士たちと対峙するのはジュリアン。
そして、蠢く麻袋を抱えたゴーレムが一体だ。
「竜命錫を狙うというのか?
おのれ、マルトガルズめ。血迷ったか。それは断崖への一本道。滅びへの覇道ぞ」
「ほう? 耄碌した古き大国ばかりが見えて、目の前に存在する私が見えていないようだ。
……実に愚かしい。だがその無礼は死を以て水に流そう」
いくらお供のゴーレムが居るとは言え、ジュリアンはこれだけの騎士を前にして、それどころか武装形態の竜命錫を向けられて尚、自信満々。
竜命錫番筆頭騎士・セベロは、そんなジュリアンの様子を見てうそ寒い心地だった。
「トバル公のご子息よ、私の情報が正しければ、セトゥレウの竜命錫に対するあなたの適合率は、モーリス計測指標で67%でしたな」
続くジュリアンの一言に、セベロは息を呑んだ。
王家の血筋を引く者は、生まれてすぐ竜命錫との適合率を調べられ、その後の人生が決まる。
適合率が高い者ほど武装形態の竜命錫の力を引き出せることと、子の世代に高い適性を引き継げるのだ。竜命錫使いは増えすぎても減りすぎても困り、その血筋が拡散することはなるべく避けねばならず、そんな中で純度を保つことが求められる。何処の国も血筋の管理は国家事業だった。
当然、個々人の適合率など国家機密だ。
だが。
よりによって他国の一貴族であるジュリアンがそれを知っている。
「な、何故そんなことを知って……」
「竜命錫の番人には、適性・家柄・強さ・国家への忠誠心……全てが求められる。
適合率がそこそこ止まりでも、他が素晴らしければ選ばれるか。血筋の選別もまともにできぬ、小国の竜命錫使いとしてはまあそんなものだろう」
せせら笑って、ジュリアンは軽く手を振り、ゴーレムに合図をした。
「私は『79%』をご用意いたしました」
「は……?」
ゴーレムは抱えていた麻袋を降ろして、その中身を取り出す。
藍色のドレスを着た少女だった。長く美しい金髪は乱れ、細い首には邪悪に滑るように輝く革の首輪が嵌められている。
怯えきった様子で周囲を見回し、状況を理解したらしい彼女の顔が絶望に染まる。
「……なんだ? 誰だ?」
「さあ、モニカ殿下。
竜命錫を奪いなさい。あれは貴女の手にこそ相応しい」
「……嫌……!」
そう言えばモニカという名前には聞き覚えがあるなとセベロが思いかけた時だった。
突然丸裸にされたような頼りない喪失感。
己の魂と繋がっていた強大な力が消え去っていた。
「なに!?」
セベロの身体に装着されていた『慧眼の渦嵐』が細切れのパーツに分解されて弾け飛んだのだ。
そしてそれらは磁石に引かれる砂鉄のように宙を流れ、モニカの右腕から右半面までを覆って再構成された。
「竜命錫よ、我が手に戻れ! 竜命錫よ!!」
「無駄だ」
セベロが叫べども竜命錫はモニカから離れない。
それもそうだ。
ジュリアンが言っているのが本当なら、モニカの血はセベロよりも深く竜命錫と同調できる。そこにセベロが割って入る隙間は無い。
「ふ……竜命錫を巡る争いには、これが起こりうる。
『王宮の地下で堅く守る』なんて考えている時点で話にならん。国内の安定にあぐらを掻いて備えを怠ったな、平和ボケのセトゥレウよ」
ジュリアンは得意げに見下して、笑った。自分が考えたことではなく先人の知見に過ぎないだろうに。
マルトガルズでは平時、保有する四つの竜命錫をそれぞれ別に、何も無い荒野のど真ん中に築かれた大要塞で保管してあり、これに無断で近づく者は王侯貴族でも問答無用で殺害されるそうだ。
何しろマルトガルズは、国内で竜命錫を奪い合う戦いになったこともあるのだ。国が丸ごと吹っ飛ぶような事態を避けるための措置だった。
今は竜命錫を東部の戦線に投入しているが、その場に何人の竜命錫使いを動かすかさえ緻密に計画を立てているとのこと。
セベロも竜命錫の番人として、そういった他国の事情をある程度は承知している。
セトゥレウが同じ事をやれないのは何もかもが不足しているからだ。
マルトガルズのような大きな国に比べれば、金も、土地も。
人口が少なければ、それを治める貴族の数も減り、竜命錫使いの血筋の維持に参加できる家も減る。
そして何より、人口という母数が少ない以上、竜命錫や王宮の防衛に配置できる超常的強者の数も少ない。
セベロは相手が劣種竜程度なら単独で渡り合えるほどの練達の武人だが、そこまで強い騎士がゴロゴロ居るはずもなく。
王宮の守りも竜命錫の番も、どちらもおろそかにはできないのだから、人材の利用効率を考えるならまとめて守るのが最善だ。反面、竜命錫を奪取できる諸侯に寝首を掻かれないよう国内の安定に細心の注意を払わねばならないが、それは必要なコストと割り切ったのだろう。
だがこのような状況は想定されていない。少なくとも、今は。
確かにマルトガルズは『友好国の敵』であり、緊張感のある関係だったが、竜命錫に手を出すことが許されるような状況ではなかったはずだ。
しかもセトゥレウ国内の、竜命錫使いの血筋にある者を伴って。
……『政治的抑止』を乗り越えてくる、権力と決断力を持ったバカの暴走。
そんなものに平時から備えておく余裕は、セトゥレウには無かったのだ。
「肩慣らしには丁度良いでしょう、モニカ殿下。
竜命錫の力を振るい、彼らを殺すのです」
「あ…………」
ジュリアンは、聞き分けの無い子どもに言い聞かせるような口調でモニカに命じた。
モニカはその顔を恐怖に歪めながらも、『慧眼の渦嵐』を掲げる。
「逃げて!!」
祭壇の間を取り巻く激流が、うねった。
セトゥレウの地に本来存在する、『水』の暴威を制御し人族が居住可能な領域とすることが『慧眼の渦嵐』の役目。
しかして、その力を戦いに用いたら。
そう、たかが、戦い如きに用いたとしたら。
鎌首をもたげる大蛇のように、水が、幾筋も立ち上った。
それは宙を駆ける奔流となり、螺旋に渦を巻きながら突進。
そして騎士たちを目がけて四方八方から交錯した。
*
白いモヤが辺りには漂っていた。
「あまり美しくはないが、まあ、綺麗に殺してやる必要もなかろう」
水流は交差して弾けたまま、凍り付いていた。
丸まったハリネズミみたいに刺々しく弾けた水は、そのまま凍てついていた。
巨大な氷塊の中には騎士たちの死体が……水に押し潰され、引き裂かれ、貫かれ、鎧ごとバラバラに砕かれた死体が、閉じ込められていた。
流れ出た血が水に混じったまま凍り付き、赤くまだらになっていた。
彼らもまた、竜命錫の番を任じられるほどの者なのだから、攻撃魔法の一発や二発で死ぬほど脆弱ではないはず。だがそんな猛者たちが、ゴミのように死んでいた。
ジュリアンはもう、氷の中で死んでいる者たちに興味は無い。
魔法の威力を確かめると、それきり踵を返した。
「さて、それでは帰るとしようか。
全く、小さな国というのは貧乏くさくてかなわぬ。貧乏が感染りそうだ」
「う、あ、あ、あああ……」
モニカは涙にまみれた顔を覆い、がたがたと震えながらへたりこんで失禁していた。
己の手で始めて人を殺したという恐怖と衝撃に打ちのめされているようだ。
「立て」
しかしジュリアンが命じると、モニカは逆らわず立ち上がる。
これは彼女の首に嵌められたマジックアイテム『隷従の首輪』の力だ。
この邪悪な(……あくまで比喩表現であり、本当に悪魔の力を借りて作られたわけではない)マジックアイテムは、装着された者を命令者に絶対服従させる、強力な精神操作能力を持つ。
いかに竜命錫に高い適性を持つと言えど、モニカ自身は何の力も無い小娘だ。首輪の呪縛に抵抗することはできない。
晩餐会に集まった貴族の中には、モニカ以外にも竜命錫の使い手がいた。
今回に限っては、モニカを狙い難いようなら、他にも標的候補はいくらでも存在したのだ。わざわざ王宮の側が人を集めてくれたのだから、ジュリアンにとっては願ったり叶ったりだ。先日大型ゴーレムでモニカを狙った(ルシェラに阻止されたわけだが)のは、あくまでも事前に確保しておく上で都合が良い標的だからで、晩餐会の場で竜命錫使いを調達する作戦に変えた今、必ずしもモニカを使わずとも良かった。
それでも再びモニカを狙ったのは、騒ぎを起こしている間に彼女を狙う方が成功率が高いとみたから。また、万一にも『隷従の首輪』に抵抗できない脆弱な標的だったから。そして、今後のことを考えたとき、モニカには竜命錫を使わせるに留まらないもう一つの用途があるからだった。
全ての水流が凍り付き、静寂に包まれた祭壇の間に、無粋な足音が近づいてくる。
「竜命錫が!?」
「……ふん、追いついてきたか」
ようやく騒ぎを聞きつけたらしい近衛騎士たちが、祭壇の間に押し入ってくる。
番人たちはあくまで非常配置についただけで、ジュリアンに先回りしたわけではなかったのだ。
だからこそジュリアンは一歩先んじた。
「こ、殺せ! 竜命錫を取り戻せ!!」
「邪魔だな。壊せ。王宮ごと連中を吹き飛ばすんだ」
「そんな……!」
襲い来る騎士たちに、モニカは錫杖を向けた。
「あ、ああ、ああああ……!」
ズン、と何かが突き上げるかのような衝撃。
大地が揺らぎ、騎士たちはよろめいた。
石床にヒビが入る。ヒビが。亀裂が。
そしてそこから水が噴き出した。噴水のように。いくつも。いくつも。
そして床が膨らんだかと思ったら、それは、爆ぜた。
「うわあああ!?」
水の爆発が全てを吹き飛ばした。
崩落する瓦礫の向こうに騎士たちの悲鳴が呑み込まれていく。
月明かりが差した。
千切れ飛んだ木材と石材が雨あられと降る中、ジュリアンとモニカを抱えたゴーレムは、泡のような水の防壁に包まれて全てを撥ね除け、地上に向かって浮上していく。
王宮の建物を爆発でごっそり抉って作り出した吹き抜けを通り、二人と一体は夜空に浮かぶ。
「あれは!?」
地上にて叫ぶ者の姿あり。
睥睨するジュリアンの視界に、鮮烈に赤い人影が二つ、あった。
「おや、北へ向かったはずだが……取って返したか。
ご機嫌いかがかな。少なくとも私は最高だ」
「首輪……?」
ルシェラは、ゴーレムに腰を掴まれたモニカを見て、燃えるような怒りと驚愕の表情でジュリアンを睨んだ。
「『隷従の首輪』か!? そんなやり方で竜命錫を!?
ジュリアン、貴様! 自分が何をしてるか分かってるのか!? 世界がメチャクチャになるぞ!?」
「ならば私を止めればいい。それとも、同じ事をマルトガルズにやり返してみるかね?」
「はあ!?」
必死に咆える彼女の姿を見ているうち、ジュリアンは腹の底から笑いが込み上げてきた。
これほどに強き者も、これほどに愚かであるのだと。
「できぬだろう。
弱い、弱い、弱い! 知恵も無い、覚悟も無い、そんな愚か者どもがぬるま湯のような世界を築き! ある者は怠惰に支配し、ある者は蒙昧に服従している!
下らぬ!! 世界を変えるだけの覚悟も無い者が、何を成せるか!
貴様らはいつまでも負け惜しみを呟きながら……」
月明かりが照らす。
半壊した王宮を。
逃げ惑う貴族たちを。
城壁上にて見上げる兵を。
集まるだけ集まって何もできない騎士を。
竜の親子を。
「影も残さず死んでいくがいい! やれっ!!」
「に、逃げて、ルシェラっ!」
溢れ出す水が全てを圧し包んだ。







