≪23≫ 水遊び
翌日。
ルシェラは昼下がりに王都を発つ予定であり、それまで半日ほど暇だった。
モニカの所に行ってみようかとも思ったけれど、あんなことがあった直後なので、少し冷却期間をおいた方が良いように思った。
どうせシュレイの課す『試練』とやらを済ませたら、またすぐ王都に戻ってくる予定だ。その時でいいだろう。
「と言うわけで、なんか適当に遊びに行けるところがあれば聞きたいんですけど」
「『半日暇だから』で遊びに行けるとか、ちびっこのバイタリティ半端ねえな」
「半分はママの社会勉強です。人の文化をなるべく見てもらった方がいいかなって」
「ああ、そりゃ確かに」
ウェインは目玉焼きとベーコンを乗せたキツネ色のトーストをかじりつつ新聞を読んでおり、ティムは鎧を着たまま指立て伏せをしている朝七時。ビオラはまだ寝ていて、カファルはどうすればコーヒーミルを壊さずに豆を挽けるのか悪戦苦闘していた。
ぶっちゃけルシェラはセトゥレウ王国のことは、クグトフルムの街くらいしか知らない。
王都に来るのは今回が初めてで、全く勝手が分からないのだ。
そこで王都慣れしたメンバーの意見を聞くことにした。
「んー、そうだなあ。見所は色々あると言えばあるが……」
「やっぱアレだろうな」
「アレ?」
「……ところで、お前の前には二つの選択がある」
涼しい顔で指立て伏せをしていたティムは表情を渋くして、ビオラが寝ている寝室の方をちらりと見た。
「またしても着せ替え人形にされるが適切なアドバイスが得られるかも知れない未来と、自由で平穏だが道なき道を行く未来。どっちが良い?」
「はい?」
その時ベキッと音がして、カファルの持っていたコーヒーミルのハンドルがへし折れた。
不吉だった。
* * *
セトゥレウは水が豊富で、夏は蒸し暑い国だ。
そんな場所で人が何をするかと言えば決まり切っている。
「うっひゃー! 人、人、人だらけ!」
竜命錫の力によって生み出された、王都市街を流れる川は、数カ所に遊泳場が設けられている。
魔法によって人工的に作られた砂浜にはパラソルが立ち並び、水着を着た人々が思い思いに楽しんでいる。泳ぐ人、日光浴をする人、ボールを持ち出して遊ぶ人、砂山を作る人、何かを食べる人。
そんな客を当て込んで、遊び道具や食べ物を売る露店なども、砂糖に集まるアリみたいに群れていた。
護岸された道脇からビーチを見下ろして、ルシェラは感嘆した。
こんな風に高度にレジャー化された水遊びを見るのはルシェラにとって初めての経験だった。
ちなみにルシェラと、同行するカファルも既に水着姿だ。
ルシェラが着ているのは赤いワンピース状の水着……いや、これをワンピースと言っていいのだろうか。胴体しか隠せない布の塊に、スカートとすら言えないフリル状の装飾をくっつけただけの代物だ。
それでも隠す気があるだけまだマシなのかも知れない。この水着は既製品を近くの店で選んだものだが、1ミリ平方でもルシェラの水着の布地を減らそうとするビオラとの戦いに辛くも勝利を収めて、ルシェラは自尊心を勝ち取った。
水着の素材は鉄糸蜘蛛の糸を特殊な樹脂と薬剤で加工し、編んだ布。
これは濡れてもすぐ乾き、水を含んでも重くなりにくいことから、水泳着の一般的材料だった。かつてアイアンスパイダーの糸の採取は冒険者にとって定番依頼の一つで、水着は高級品だったそうだが、アイアンスパイダーを家畜化する技術が確立されたことで(時折発生する脱走事件と引き換えに)人類は安価な水着を手に入れたのだ。
カファルはルシェラと同じく真っ赤な水着だが、その造形はもうちょっと過激だ。
豊満な胸部を吊り下げるハンモックみたいなトップスに、下着そのもののボトムス。揺らめく炎のようなパレオを巻いている。
こちらは買ったのではなく、『人化の法』によって生み出された分身体が模ったもの。売るはずだった水着が目の前でコピーされて店員は愕然としていた。
そして二人は水着姿でここまで歩いてきた。
水着姿で、だ。それで大丈夫だとビオラに言われた時は正気かと思った。
しかし、なんだかんだ忙しくてほとんど街を歩いていなかったルシェラはついさっき気が付いたのだが、この季節のこの街を水着で歩く者はそう少なくもなかった。
だから問題は無いはずだ……老若男女問わず、道行く人々の熱い視線を集めてしまった気がするけれど気のせいだ。気のせいだったと思いたい。
日差しで熱された砂浜へ降りて行くと、水しぶきの気配が空気に混じり、肌のほてりを拭い去っていく。
カファルの姿を見た野郎どもは、呆然と口を開けて見送るなり、ひゅうと口笛を吹くなりしていた。
「さて……何も考えないで来ちゃったけど、何しようかな」
『……思ったより、深い……流れもある……』
気が付けばカファルは、グルルルル、という唸りすら聞こえそうな調子で川を睨んでいた。
確かに川は、真ん中の深いところなどは、大人でも足が付かないくらいの水深だ。
『ねえルシェラ。本当に泳ぐの?』
『そのために、きた』
『人間は、膝までの深さの水でも溺れるって聞いたわよ。まして、こんな場所……』
カファルはルシェラの手をしっかり掴んでいた。
『ね、ねえ、泳ぐのはやめて水辺で何かするのはどう?』
『そんなに、しんぱい、しなくて、へいき。
すのちかくの、かわでは、みずあび、してた』
『だって、あの場所は私も知っている場所だもの。
周りのこともよく分かっているし……こんなに人は居なかったし……
それに、山の中だったら私は本体で手を出せるもの』
不安な様子のカファルは、テコでも譲らない。
今のルシェラが一般的な人間と比較して遥かに強靱であることは、カファルも分かっているはずなのだけれど。
『溺死』という死因がほぼ存在しないだろうドラゴンは、何がどのくらい危険か、人間レベルの基準を持っていないのかも知れない。
しばしルシェラは考える。
それから。
『えいやー!』
『あ、ちょっとルシェラ……!』
しっかりと握られたカファルの手を引いて、ルシェラは走り出した。
転がるようにカファルは引きずられ、二人はそのまま、川の中に飛び込んだ。
水しぶき。乱舞する泡。浮遊感。
ずぶ濡れになって、二人は浮かぶ。
『ぷぁっ!』
心地よく冷たい水がルシェラの全身を洗い清める。
カファルも水の中から顔を出し、濡れた犬みたいに身体を震わせた。長い髪が水気を帯びて身体に纏わり付いていた。
『えへへ。ぶんしんでは、わたしに、ちからで、かなわない』
『もう……』
『だいじょうぶ』
カファルは、ルシェラが何を言っているか分からない様子だった。
手を繋いだままルシェラは立ち泳ぎをしている。泳ぎは、別に取り立てて得意というわけでもなかったけれど、今のルシェラには身体を動かすこと全般が容易い。
『だいじょうぶだよ』
もう一度、ルシェラは言った。
気持ちは分かる。
これは……水だ。
カファルがどうやって卵を失ったか、ルシェラは知っている。
おそらく彼女の中では、我が子を失う恐怖と『水』が結びついているのだ。
だからこそルシェラが水に触れることには必要以上に臆病になっている。
心配してくれる気持ちは嬉しいけれど、そのせいで水遊びもさせてもらえないのではたまらない。
だいたい、そんな些細なことで逐一心配していては、いくらドラゴンの心臓でももたなくなるのではないか。
カファルは何か言いかけたけれど、何も言わずに溜息をついた。
肩の力を抜くかのように。
『そうね……分かったわ、一緒に泳ぎましょ』
『うん!』
晴れてルシェラはお墨付きを得た。
ならせっかくだ、自分の力を確かめがてら泳いでみようかと思ったところで……ルシェラは、はたと気が付く。
『……まま、およげる?』
カファルがこの姿で泳げるかどうか確認していなかった。
『簡単よ、こんなの……』
カファルは水に飛び込む獣みたいに深いところへ突っ込んだ。
そして、水上に下半身だけ出してばたつかせながら飛ぶような勢いで進み始めた。
『まま!?』
『あら? どうなってるのかしら』
一旦体勢を立て直したカファルは、今度は完全に水中に潜った状態で螺旋の軌道を描きながら戻って来る。
それから、深いところでしばらくぐるぐるとうねった後で、遂に彼女は川底に足を突っ張って立ち上がる。
『これなら流されないわ!』
「ママそれ泳ぐって言わない」
カファルの頭だけが水の上に出ていて、炎のような髪が川面に広がっていた。
『しょーがない。にんげん、およぎかた、おしえる』
『……分かったわ』
カファルの表情が一瞬で三回くらい変わった。
言葉のニュアンスを加味して考えるなら、『こんなこともできないなんて』という悔しさから『折角ルシェラと遊びに来たのに』という無念、それから『でもルシェラに泳ぎ方を教わるのも楽しそうだ』思い直したようだ。
ルシェラはすいっと水を掻いて平泳ぎをする。
このカファルの分身体も能力は高いのだから、やり方を見せてコツを教えればすぐ泳げるようになるだろう。
『どらごん、みずあび、する?』
『海や、大きな湖に住んでいるドラゴンはするんじゃないかしら。
私は、ほら。私が水浴びできるような場所はクグセ山に無かったでしょ』
『たしかに』
『だから炎で身体を清めていたの。
群れに居た頃は溶岩浴をしていたわ。レッドドラゴンはこれができて一人前なのよ』
「よ、溶岩浴……スケールが違いすぎる」
何故だか嬉しそうなカファルの説明を聞いて、ルシェラはちょっと引いた。
一人前の証と言う通り、レッドドラゴンであっても鱗や甲殻が未発達な雛竜には命取りだろう。流石にルシェラも溶岩に飛び込んで無事かは自信が無い。
まあ、溶岩浴をしているレッドドラゴンであっても、溶岩の中でバタフライなんてできないはず。
泳げないのも当然と言えば当然だった。
余談ですが、人化の法を学んでいなかったカファルと違い、ブルードラゴンは大抵みんな人化できます。
人に化ければ、たった樽一杯の酒でも飲みきれないくらい大量に感じるので。







