≪6≫ 衣食足りて
それから、数日の時が流れていた。
死の淵から舞い戻ったとは言え、ルシェラは未だ本調子には程遠い。
怠さに任せてルシェラは日がな一日、ドラゴンの巣に転がって寝たり起きたりしていた。
楽は楽だが、暇は暇だ。
暇になれば考えるのは『果たして自分は何者だったのか』ということ。
ドラゴンから娘としての名を貰ったせいなのか、それとも半死半生の大怪我をしたせいなのか、ルシェラはこれまでの人生の記憶が掠れてしまっていた。
自分がどうしてクグセ山に入ったのかも、何故死にかけていたのかも覚えていない。
ただ、どうしても生きて帰らなければならないと思っていたような気がするし、誰かを烈火の如く怨んでいたような気もする。
手掛かりは自分が着ていた服くらい。穴が空いて血で染まった、成人男性向けの服だ。
腰にはナイフもあったが、これはどこにでも売っているような野外活動用のもので、戦闘用でもなかった。
――ドラゴン退治に来た勇者ってわけじゃないよな、俺。
うーん……よく覚えてないけど、そんな強かったら死にかけたりしない気がするぞ。
山の中のどこかには、ルシェラが死にかけていた場所があるはず。
それを探しに行けないかとルシェラは思っていたが、広大なクグセ山の中から特定の場所を探し出そうなんて現実的ではない。すぐに見つけなければ風雨や草木によって痕跡は消えてしまうだろうし。
――本当に俺、なんであんな場所で死にかけてたんだ? なんでドラゴンの住む山なんかに登ったんだ?
成人男性向けなのでもはや自分にはサイズが合わなくなった、穴が空いて血で汚れたシャツを、ルシェラは巻き付けるように着ていた。それを見てルシェラは首をかしげるばかりだ。
身体を貫通する刺し傷。
剣で突き刺されたか、あるいは長い角を持つ魔物にでも一突きされたか。
自分は強かった、という記憶は無い。
だから、こんな場所で死ぬ原因はいくらでも思い当たる。
問題はそんな戦うことすらできない男が何のためこんな危険な山に登ったのかという謎だった。
『グオオオオオオ!』
山が震えるかのような雄叫びが上がり、ルシェラはそちらに目をやった。
「おっ、仕留めたかな?」
植生豊かなクグセ山は木々のせいで見通しが悪い場所が多いが、ドラゴンの巣はすこし小高く盛り上がった場所にあり、しかも探す対象も小山のような巨躯なのだから見つけ出すのは容易だ。
小手をかざして遠くを見れば、緑の海みたいに並んだ木々の向こうに、背中と翼を突き出した深紅の巨体が見えた。
上空から急降下で獲物に襲いかかったドラゴンは、短い格闘戦でトドメを刺したようで、やがて何かを掴んでふわりと舞い上がる。
彼女が大きく羽ばたくだけで、木々は軋んでしなった。
遠くからでもしっかりシルエットが分かるほど大きい、レッドドラゴン。
それがさらに大きく、見上げるほどに大きく、みるみる近づいてきた。
太く強靱な脚に、ミスリスすら貫く爪に、がっちりと魔獣の骸を抱え込んで。
「わぷっ!」
ルシェラは羽ばたきの風圧で吹き飛ばされそうになる。
この巣の主、山の女王のご帰還だ。
彼女が着地するだけで、山がずんと揺れる。
巨大なレッドドラゴンは、隣に蹲っているだけでも凄まじい迫力だったが、こうして動いている姿を見ると圧倒されるほどだ。
体長はおよそ20メートルほどだろうか。ゴツゴツとした巨体は全体的にシャープな印象で、生物として洗練されている。
やはりドラゴンと言えば、そのブレスが代名詞のように語られるが、こうして相対してみればブレスなどオマケみたいなものだと思ってしまう。
ただただ存在の重さが違う。
彼女が軽く前脚の爪を振るうだけで、人など濡れた紙のように裂かれてしまうことだろう。
しかし彼女はその爪も牙も、ルシェラを引き裂くためには使わない。
彼女は巨大な顔の鼻面をルシェラに擦り付け『ただいま』の挨拶をすると、本日の狩りの成果をいそいそと解体し始めた。
それは、全身にカラフルな房飾りを付けた熊みたいな魔獣だった。ドラゴンの住処に特有の突然変異種であるため、元がどの魔物なのかはよく分からないが、恐ろしい強さなのだろう。ドラゴンの爪に裂かれて完全に事切れていたが。
ドラゴンは四足歩行でも後脚を支えに立ち上がっても行動に支障は無いらしく、鋭い爪を備えた前脚はいくらか器用な作業もできる様子。赤竜は鋭利な爪を肉と毛皮の隙間に食い込ませ、剥がし始めた。
魔獣の死骸は瞬く間に、毛皮と肉に分けられた。
ドラゴンは肉の一部を噛みちぎり、軽く咀嚼して柔らかくすると、肉を口に含んだまま炎を噴いて焼いた。
この世で一番豪華な竈だな、とルシェラは思う。
やがて、ほどよく焼けた肉がルシェラの前に吐き出された。
「……ありがとう」
ドラゴンを見上げてルシェラはお礼を言った。
だが彼女は特に反応を見せない。
ルシェラの言葉が分からない様子だった。
ドラゴンは人よりも賢く、人に化けるという話を聞く。
だがルシェラは、このレッドドラゴンが人の姿になるところなど見た事がなかった。
そもそもルシェラの言葉すら理解していない。
別に、このドラゴンに限って頭が悪いわけではなさそうだが。単に人と触れずに生きてきたために人の言葉を知らないのだろうか、だとしたら他のドラゴンはどこかで人と関わったために人の言葉を覚えたのか、などと、考えても仕方ないことをルシェラは色々考えていた。
ともあれ、ルシェラは供された食事に手を付ける。
ドラゴンの炎で焼かれた魔獣肉は、なんとも形容しがたい癖のある味だった。血抜きもしていない獲れたての肉だ。食べると不思議な熱が腹の中に溜まっていくように感じられた。
ルシェラが食べ始めると、ドラゴンは首をユラユラと揺らしながらルシェラを見ていた。ドラゴンの表情はよく分からないが喜んでいるようだ。
妙な話だ。
豪雨災害で卵を失ったドラゴンが今、死にかけていた人間を拾って、娘の名を与えて世話をしている。
彼女は甲斐甲斐しくルシェラの面倒を見ている。それこそ本当の娘のように。
そして、それを楽しんでいる……ように、見える。
――子を亡くせば、ドラゴンでも寂しいのか。うん、まあ、そりゃそうだろうな。
気まぐれと呼ぶべきなのか。
愛玩と言うべきなのか。
それとも、寂しさの埋め合わせか。
その全部か。
命を救われたのは有り難いけれど、彼女の感情をどう受け止めれば良いのか、ルシェラにはよく分かっていない。何しろ言葉も通じない相手だ。何を考えているのかよく分からず、お互いに手探りでコミュニケーションを取るしかない。
ドラゴンはルシェラの食事を見ながら、熊の魔獣の毛皮をさらに切り刻み始めた。
手足の部分を裁ち落とし、首も落とし、肉をこそぐ。
すると胴体部分だけの綺麗な毛皮が残った。房飾りのようなカラフルなアクセントを入れた、鼠色の毛皮だ。
彼女はその毛皮を摘まみ上げて確認すると、肉を食らっているルシェラの背中にいきなりそれを被せてきた。
「おうっ!?」
なかなか重かった。
「えっ、何? 着ろってこと?」
見上げればドラゴンはユラユラと首を動かしていた。
今、ルシェラは、サイズが合わなくなったブカブカシャツをワンピースのように着ているだけという、ちょっとみっともないし防寒力もあまり見込めない格好だ。
まだ暑い季節だが、秋にもなれば夜は涼しい。シャツ一枚ではしのげないだろう。
そういう事情をどこまで理解しているかは分からないが、ドラゴンは防寒の必要性を認識したようで、そのためにわざわざ毛皮が暖かそうな獲物を探して仕留めてきたらしい。
「ありがとう……」
お礼を言ってはみたものの、それが通じないのは分かっている。
――ありがとうって言っても、それが伝わらないんだよな。人同士ならニュアンスとか様子を見て分かると思うんだけど……
そこでふとルシェラは思い立ち、逞しいドラゴンに歩み寄ると、彼女の脚に鼻から顔を擦り付けてみた。
彼女がルシェラに対して、しばしば見せていた仕草の真似をしたのだ。
『……ルルルルルルル……』
「あはは、ちょっと……ふわぁ!」
ドラゴンはすぐさまやり返してきた。
やさしく喉を鳴らしながら首を伸ばし、ルシェラに擦り付けたのだ。
巨大なドラゴンにそんなことをされたもので、ルシェラは柔らかな枝葉の上に尻餅をついて一回転した。
ルシェラは、背中に被っていた毛皮と絡まり合って倒れ込む。
「…………生臭い」
獣から大雑把に引き剥がしただけの、加工も何もあったものじゃない毛皮はむせ返るほど生臭かった。
が、凍えるよりはマシだ。ニオイは……そのうちマシになるだろうと思うしかなかった。
『……ルォウ……オウウウ……』
ドラゴンが何かを喋った。
それは音としては極めて単純ないななきでしかないのだけれど、それを聞いたルシェラの頭には吐き気をもたらすほど多量の情報が入り込んでくる。
念話という、相手の精神と心だけで会話をする魔法が世の中にはあるようだが、似たようなものだろうか。
ただ、ドラゴンの言葉は、魔法が使えないルシェラにも容赦無く降りかかって情報を叩き付けてくる。
もちろんルシェラにはドラゴン語など分からない。それはまるで、頭の中で強制的に難解な暗号を解かされているような気分だった。
『ルシェラ』。
その名前だけは意味が拾えた。
ドラゴンが与えた名前。
「……ルシェラ。ルシェラ」
ルシェラは繰り返し呟きながら、自分の身体にぴたぴたと触れる。
それからドラゴンの顔に触れて、見上げた。
『あなたの名前を教えて』。
そう言ったつもりだ。
ドラゴンが意味を掴みかねていたのは、数瞬だ。
牙を剥きだし彼女は短くいななく。
『……クルルル……ルゥウオオオ……』
『カファル』。
ルシェラには確かに、そう聞こえた。
「カファル? ……カファル」
呼び返すなり彼女は熱烈に鼻先を擦り付けてきて、もし彼女が力加減を誤ればルシェラは圧死するところだった。