≪6≫ 嵐の如く
クグセ山の北、マルトガルズの南東の端、アンガス侯爵領。
かつては南への山越えルートを押さえる要衝であったとのことだが、クグセ山にレッドドラゴンが住み着いてからというもの、重要度は低下していた。
しかし領主であったケネス・アンガスは大過なく統治を行っていて、政治的にも経済的にも安定し、東のグファーレ戦線からも遠い、平穏な土地だった。
その平穏が突然、破られた。
アンガス侯爵は、特に政治的な宣伝などもなく奇襲的に行われたクグセ山のドラゴン退治に失敗。侯爵自身と多くの騎士が討ち死にしたのだ。
アンガス侯爵領は、この事でどんな影響が出るかも未だ分からぬほどの、衝撃と混乱の渦中に突き落とされていた。
しかし、そんな中で早くも動き始めた者の姿があった。
アンガス侯爵領の領都・トルトミアの神殿に併設された神殿医院にて。
奥まった入院用の個室(寄進の額が多くなければ使えぬ場所だ)で、上半身から右腕に掛けて包帯巻きにして、ベッドに腰掛ける男が一人居た。
彼がただぼうっと床を見て痛みに耐えていると、のしのしと無遠慮な足音が廊下を近づいてくる。
やがて、ノックも無しに数人の男が病室に入ってきた。
「彼がクグセ山よりの帰還者の一人。侯爵様の騎士であった者です」
「『侯爵様』は、今は私だ。正式な継承がまだであろうと確実な未来であるぞ」
「はっ……」
数人の取り巻きを連れて現れたのは、二十代半ばほどの凜々しい青年だった。
上背があり、キビキビとした所作はいかにも武人的。狼の如く眼光鋭く、抜き身の刃のようにどこか触れがたい危うさがある男だ。
彼の名はジュリアン・アンガス。
ケネス・アンガスの嫡男であった。
傷ついた騎士はジュリアンが突然やってきても、頭が付いて行かない様子で呆然としていた。
それを見てジュリアンは不快げに眉をひそめる。
「何を呆けている。主を前にして頭を垂れぬか」
「ふぇ……へ、はぁ」
ジュリアンは、ベッドに座る男のすねを蹴りつけた。
すると傷ついた騎士はノロノロと身を起こし、床の上に跪いて頭を垂れる。
彼を見下ろすジュリアンの目には一欠片の敬意も無い。気遣いも、労いも。
ただ敗残者への侮蔑と、心を折られた醜態への嘲笑のみがあった。
「生き残り共から聞いて、何が起こったかは既に概ね把握してる。
だが、まだ一つ不明瞭な部分がある。
……ルシェラなる者の力だ」
「ルシェラ……? それは、一体」
ジュリアンは一枚の金属板を、騎士が見ている床に放り投げた。
冒険者が持っている『冒険者証』だ。
あり得ない数字が並ぶその冒険者証の持ち主の名は、金属板に浮かぶ煤で書いたような文字は、『ルシェラ』。
「父上が拾ってきた冒険者どもの話によれば、分かっているのは、この者が元は冒険者であったこと。
去年の夏頃にクグセ山で行方知れずとなり、先頃街に姿を現したときには何故か少女の姿となり、異常な力を手にしていたということ。
彼女らしき者がクグセ山の戦いで目撃されている。
炎の如き髪を持つ少女だそうだ。何も知らぬか?」
ジュリアンの言葉に、廃人の如き有様だった騎士が反応した。
頭を抱えて胎児のように身を丸め、叫びだしたのだ。
「あ、あああ……! あれだ、嫌だ、奴が来る、あああっ……」
「……おい。こいつを協力的な気分にさせろ」
「かしこまりました」
ジュリアンに随伴していた近衛騎士は命じられるまま、洗練された形状のバトンの如き短杖を取り出す。
魔法の才が無くとも魔法を使えるアイテム、雷の魔法が込められたマジックアイテムだ。
近衛騎士はそれを一振りしてから、丸くなった男を引っ叩く。
「ぎゃあああああっ!!」
閃光が迸り、傷ついた騎士は悶絶した。
「話せ。何があった。ルシェラとは何だ」
雷撃を浴びせられてゼエゼエと息をつく男の手を踏み、ジュリアンは問う。
すると彼は絞り出すように答えた。
「あいつには……鱗も無い。牙も無い。翼も無い
……ただ、それだけの……ドラゴンだ……」
その言葉だけで彼の精神は限界を迎えたようで、彼は四つん這いになったままさめざめと泣き始めた。
* * *
神官たちが使う神聖魔法は癒やしの業を得意とする。
そのため神殿は魔法による治療を行う医療機関でもあるのだ。
そんな、絶対安静の病人もいる神殿医院の廊下を、ジュリアンは足音も荒く颯爽と進む。
「状況は概ね把握した。クグセ山攻略の準備を始めるぞ」
「今、何と?」
ジュリアンの言葉に、お供していた近衛騎士は我が耳を疑った。
「山の『変異体』が減っている状況に違いはあるまい。今、かのレッドドラゴンを駆除せねばいつできるのかという話だ。
最悪、二匹のドラゴンを相手にする気で準備をすればやってやれんことはあるまい」
「し、しかし! 侯……お父君とて失敗されたのです!
家臣や退治人も失いました。周辺諸侯の協力を得るよりありませんでしょうが、二度目の挑戦となれば皆、二の足を踏みましょう」
それは、どう考えても無謀すぎた。
そもそもクグセ山のレッドドラゴンを討伐することは、王宮よりケネスへの命令だ。命令だけではなく竜狩りを雇うための支援もあり、優秀な退治人も貸し与えられたわけだが。
だがケネスは失敗し、自らの命と共に多くのものを失った。
今後、王宮がクグセ山をどうするつもりなのか。諦めるのかどうかさえまだ明らかになっていない。だというのにジュリアンは前のめりだ。
「『竜命錫』を使う。さすれば皆、後に続こう。
あるいは協力など不要かも知れぬがな」
ジュリアンの言葉は、供の騎士らを凍てつかせた。
『竜命錫』。
それは、国が国たる要。
自然界が持つ荒ぶる力を鎮め、人が住める領域とするためのアイテムだ。
人族の国家はほぼ全てが竜命錫を持ち、国土を安んじている。
しかし、この竜命錫にはもう一つ、重要な特徴があった。
……自然界を左右するほどの力を秘めた超兵器を、戦いに用いたらどうなるだろうか?
確かに王家から竜命錫を借り受けたのであれば、クグセ山の攻略は成るだろう。
だがそれはもはや、あり得ない未来を語る子どもの夢物語だ。
「……侯爵様。
東方の戦線は、我が国が持つ四つの竜命錫全てを投入してようやく維持されているのです。
その一つでもこちらへ動かしたら、確実に隙を突かれましょうぞ。
いや、仮にそれが大丈夫だとしても政治的に……」
「馬鹿者。誰が我が国の竜命錫を用いると言った」
「は……?」
夢物語、かと思われた。
一秒経って戸惑い。
二秒経って理解し。
三秒経って畏れる。
「まさか」
「父上に一度、献策をした事があるのよ。そして一笑に付された。
……私は戦争をしているつもりだったのだがな。父上も、皆も、国と国の戦いを馬上試合の延長程度にしか考えていない。
牧歌的で実によろしいことだ。死人は少なく済むかも知れんな」
騎士たちは異論を差し挟めなかった。
それはジュリアンの言い草に納得したからではない。自分たちの信じてきた世界が、存在すると思っていた秩序が、壊れる恐怖のためだ。
その恐怖はそっくりそのままジュリアンにも向けられる。
この男はただの阿呆か、それとも変革者なのか。いずれにせよ、常ならざる者なのだと。
「私は、愚かな父上とは違う。
セトゥレウ如き、一呑みにしてくれよう」
何かを潰すように、ジュリアンは拳を握りしめていた。
 







