≪30≫ 湯煙
一方ゲメルはしこたま飲んでいた。
「ば、化け物めぇ……あいつだ、あいつなんだ、山の力で化け物になって帰ってきたぞぉーっとぉ!
うえっぷ、うーい……ころ、ころろ殺されるる……」
既にほぼ空っぽのボトルをぶら下げて、街灯の明かりを縫うように、日が落ちた街をゲメルはふらふら彷徨う。
奴は、生きていた。
ドラゴンの山で生き延びて、ドラゴンの力を食らって強くなり、そして今、街に降りてきた。
ルシェラとかいう少女についてティムからそれとなく話を聞き出したが、全ては符合している。
間違いない。ルシェラこそが、名前を忘れてしまった『彼』なのだ。
それは普通に考えたら荒唐無稽な話だ。
しかしゲメルは物事の過程を余り深く考えないタイプの人物であり、そのために今回は偶然、偏見に囚われず真実を見抜いていた。
ティムが言うには、ルシェラは山に入るより前の記憶を失っているらしい。
――記憶? 記憶が無いって? じゃあ大丈夫なのか? でも思い出したら、俺は人殺しだ。
いや、その前にあの化け物にこ、殺される、殺される……
どう動くのが最善か、恐怖の中でゲメルは考えていた。
しかし、浴びるように酒を飲んで、もとから単純な思考がさらに単純化したことで、ついにゲメルは決断する。
「ウップ! ……うひぃ、そうだ、逃げよう、うん……生き延びるんだぁ、うはは、わはははあ!」
とにかく遠くに逃げる。
ただそれだけだ。
本質的に冒険者は土地に囚われないもの。“七ツ目賽”の力であればどこででもやっていける……
「“七ツ目賽”のリーダー、ゲメル様ですね」
声を掛けられてゲメルは初めて、目の前に男が立っていることに気が付いた。
ぐるぐる回転する虹色の路地に、頭が二つで腕が四本で黒ずくめの服を着た男が三人立っていた。
「んだよ……どけ、俺はまだ飲むんだよ……」
「未だ立ち入り禁止である、あのクグセ山の深部に以前入られたと」
はっと、ゲメルの酔いが少し醒めた。
路地は回ってないし薄暗いし、目の前の男は頭が一つで腕が二本で一人だけだ。
しかし黒ずくめの男は、そこに居た。
「なん、てめ。おい……」
ゲメルは酒瓶を手に、黒い男との間合いを計る。
“七ツ目賽”がクグセ山に入って荒稼ぎをしたことは、まあ、薬草を換金するのに何人かの売人を当たったから知っている人は知っているだろうけれど、こんな場所でその事実を突きつけてくるとあらば、何かの意図を勘ぐるのが当然だ。脅迫とか、脅迫とか、あとは、たとえば、脅迫とか。
「ご心配なく。私はあなたを咎めるためにここへ参ったのではありません。
それどころかあなたに感服し、そのお力を賜りたいと思っているのです」
「何……?」
ゲメルが身構えても、黒ずくめの男は動じない。
淡々と言葉を紡ぐ。
「案内役が欲しいのですよ。いかがです? もちろん、相応の対価はお支払いいたします……」
頭の硬い役人めいた、誠実で無味乾燥な勧誘だった。
* * *
クグセ山は今は静かな山だが、その身の内には炎を秘めているという話だ。
だからこそレッドドラゴンが住み着いたのだと。
その裏付けとでも言うように山の所々からは湯が湧いている……らしい。残念ながら山暮らしの中でルシェラは見ることがなかったが。
危険なクグセ山で採湯施設を築き、街までパイプラインを作るのは至難だが、幸運にもクグトフルムに近い山裾に湯の湧く場所があり、そこから引いた温泉がクグトフルムの街には行き渡っている。
そのためこの街は古くより湯治場として人気を集めた。
「お湯加減大丈夫ですー? ルシェラちゃん。
ここ湧いてるお湯が熱すぎるから冷まして使ってるんですけど普段私たちが使うとこしか設備のメンテしてないから調子が分かんなくって」
「大丈夫です……って言うか多分熱湯でも火傷すらしないんで……」
「あははは……まあそうよね。私だって熱湯くらいじゃ珠の肌に傷一つ付かないですよ。
クグセ山ごもりしてたルシェラちゃんなら全然平気かー」
一般家庭の三倍くらいの大きさの内風呂で、ルシェラは久々の入浴を楽しんでいた。
窓の外からは設備をいじっているビオラの声が聞こえてくる。
ここは“黄金の兜”が拠点としている宿。
その客室の一つに付いている内風呂だった。
「すごいですね、宿一つ丸ごと拠点ですか。
さすがこの街のトップパーティー……」
「と言ってもここはウェインのばあちゃんの宿ですからね。
もう歳だし体力的にキツいからって閉めることにしたとこで『じゃあ私たちが使います』って言って。
一応ご飯の用意とかはしてもらってるし『宿泊料』も払ってるけど一般のお客さん入れなければ体調悪いとき融通効きますんで」
「……ウェインさん、あんな格好してるからどこかのお尋ね者かと思ってたんですけど、普通に地元出身だったんですね」
「あははは……ウェインは形から入るタチで駆け出しの頃からあの格好でして。
でも結果として今は街のトップパーティーですもん。形から入るのも大事ですよ。最初は形だけだったものがいつか本物になったりしますからね」
カラカラ笑ってビオラは窓から覗き込んできた。
堂々とした覗きだ。だが部屋内から噴き出す湯気がすぐに彼女の眼鏡を曇らせた。
「カファルさんはご一緒ではないので?」
「来るって言ってたけどご遠慮いただいた」
「あらまあどうして」
「どうしても何も……」
既にビオラはカファルの行動パターンを読み切っているようだ。
実際カファルはルシェラの入浴に付いてくると言ったのだけれど、ルシェラはそれを断った。
色々な意味で恥ずかしいからだったのだけれど、何故かカファルはしょんぼりした様子で、何か悪い事をしてしまったような気分になっていた。
――一緒に風呂入るなって言うの、そんなショック受けることなのかな? ドラゴン的に……
山に居るときは度々、俺のこと舐め回して身体を清めてたもんな。それと同じ事を人間流にやろうとしてるのかな?
山に居た時は、まあ、あれで良かったのかも知れない。
しかしここは人の街だ。
「カファルは……やっぱり徹底して、俺のお世話をしたいのかな」
「そうかもですねえ。甘えちゃえばいいじゃないですか」
「うーん……」
「恥ずかしいんです?」
「それもありますけど……」
突き詰めて言うのなら、過剰に子ども扱いされるのが恥ずかしいという話。
だけど、そんな心持ちになったのには理由がありそうだった。
「山の中に居た頃はもっと……甘えてた、気が、するけど……それは俺が山の中じゃ圧倒的に弱くて、カファルに頼らなきゃ生きてくことさえできなかったからで……
でもここは人間の街だし、今はカファルを守るために動いてるわけだから……気持ちがちょっと違う、って言えばいいのかな……
人目があるから、ってのも理由だと思うけど……」
「ふむふむなるほど。
ルシェラちゃんは悪くないのかもですがカファルさんはちょっと寂しいかもですね」
「そう、いうものですかね」
もし、カファルとしては以前と同じように甘やかしているだけのつもりで、そのやり方をただ人流にアレンジしただけのつもり、なのだとしたら。
それは寂しく思うものなのかも知れない……
「るしぇら!」
「わあっ!?」
その時唐突に、カファルが戸を引き開けて浴室に姿を現した。
彼女は元々、魔法で作った仮の身体を動かしているに過ぎない状態なのだが、その仮の身体から炎のドレスみたいな服を消し去り、一糸まとわぬ姿となっていた。
肌は気高く白い。瑞々しくしなやかな肉体は機能美を感じさせるほど無駄なく完璧な造形だが、母性の象徴とでも言うかのように特定の箇所のみが重量級だった。
「うぇいん、に、おそわった。にんげん、ほんとう、の、きもち、しる。『はだかのつきあい』」
「何教えてくれやがってるんですかねえあの野郎はー!!」
「あらう」
「待って、ちょっと待って!」
スポンジを持参していたカファルは、湯の中からルシェラを引っ張り出すと自分の前に座らせ、全身くまなく泡立てて磨き始める。
「お熱いですねえ」
「それ普通、恋人同士に言う言葉でしょーが」
窓から見ていたギャラリーは勝手な感想を言った。