≪2≫ 命名
■■■■■が次に目を開けたとき、全身が石のように重くて、ほんの一瞬でも気を抜いたら命を放棄して本当に石になってしまいそうで、だけど■■■■■はまだ、確かに生きていた。
■■■■■は、乾いた枝葉を積み上げて作った、二十人くらい一緒に寝られそうな天然のベッドの上に倒れていた。
空は明るく、のどかな風が吹き抜けていく。
野ざらしのベッドは、その巨大ささえ無視すれば禽獣の寝床そのものだ。
■■■■■は何かを考えるのも億劫なほど衰弱していたが、何が起きたか必死で理解しようとした。
もっとも、考えるまでもなく、ちょっと見回せばすぐそこに圧倒的事実が存在したのだけれど。
■■■■■の傍らには、パッと見て人間の数十倍はあろうかという巨体が、器用に身体を丸めて蹲っていた。
優美にして力強い隆々たる肉体は、艶やかに赤い鱗と、それが溶け合うかのように形成された分厚い甲殻によって形成されている。
長い首と尾は、長くしなる鞭のようで官能的にすら見える。
頭部は鋭角的で、双眸は焼け付く太陽のようで、鋭い角が天をも貫くばかりにそびえ立つ。
その背には、今は折りたたまれている強大な皮膜の翼……
――ドラゴン……!
恐怖と感動のあまり息も止まるほどの偉容だった。
■■■■■は理解する。
つまり、自分が今寝そべっているのはドラゴンの巣だ。
ここはクグセ山。ドラゴンの住む山。
人の近づくべきではない場所。
そこで死にかけていたのだから、まあ、後はどうなるか察せようというものだ。
――俺は、餌になるのか……?
クグセ山に住まうドラゴンは、確か今、卵を抱いているという話だった。
弱り切った死にかけの人間……なるほど、生まれたばかりの雛竜の最初の食事にはうってつけだろう。
ドラゴンは、■■■■■が目を開けたことに気付くと、その長い首を伸ばして大きな顔を近づけてきた。
そして、すんすんとニオイを嗅いできた。
大人の男の腕より太いほどの牙が間近にちらつき、食いつかれるだけで死ぬなぁと、■■■■■は考えた。
しかし、ドラゴンは■■■■■を噛み裂こうなどとしなかった。
代わりに何か大きなものを咥えて持ち上げると、■■■■■の隣にどさりと落としたのだ。
それは、熊と猪を足して2を掛けたような、黒い毛皮を持つ奇怪な獣だった。
■■■■■はこんな魔物見た事が無かった。おそらくこいつはドラゴンの発する気によって異常な変異を遂げた魔物だろう。
そいつは腹部に巨大な傷を穿たれていて、もはや事切れていた。間違いない、このドラゴンがやったのだ。
ドラゴンは魔獣の死骸を■■■■■の目の前に置いて、鼻先でついと押しやった。
『……グルルルルル……ルゥゥゥ……』
喉の奥で息を転がすようにドラゴンは鳴いた。
威嚇とは思えない、人に喩えるなら『猫なで声』とでも形容すべき声音で。
■■■■■は何事か理解できなかった。
ただそこにある屍肉の塊を呆然と見ていると、ドラゴンは、首でもかしげるかのようにうろうろと顔を動かして、それから魔獣の腹にかぶりついた。
その大きな牙は、生半可な矢では跳ね返してしまいそうなほど分厚い魔獣の毛皮を容易く貫き、逞しい前脚で押さえながら引き裂いた。
血の滴る肉が露出する。
ドラゴンはそれを自ら口にはせず、ただ、ずいと■■■■■の方へ押しやった。
――な、なんだ? こいつ……何を……?
さては、自分に餌をやり、太らせてから食おうとしているのかと■■■■■は考える。
そんなまどろっこしいことをしなくても、この魔獣の肉を食えばよさそうなものだが。
ともあれ■■■■■は、自分が、何かを食わなければ死ぬ状態なのだということは分かっていた。
血を流しすぎた。
身体の中にエネルギーが足りない。
はらわたを切り裂くような飢えを感じる。
補うためには何かを……たとえそれが得体の知れない生肉であっても食うしかない。
■■■■■は僅かに頭を上げて這いずり、生肉にかぶりついた。
じわりと滲む血の味が、鉄臭く口の中に広がった。
そして、すぐに力尽きた。
硬すぎる。
人間の口の力は、生肉を噛みちぎって食う肉食獣に遠く及ばない。
まして衰弱して力が出ない今、これを食うことなど不可能だった。
『……ルルルルル……ォォォォォ……』
突っ伏した■■■■■の頭の上で、ドラゴンは何故だか悲しげに鳴いていた。
ドラゴンは、今度は自分が魔獣の死骸にかぶりつく。
肉を噛みちぎって口に含むと、それをグチャグチャと咀嚼し、呑み込まずに吐き出した。
ミンチになった肉が■■■■■の前に積み上がる。
血と、ドラゴンの唾液に塗れた肉塊は、しかし生のものよりも遥かに柔らかくほぐされていた。
なるほど、これなら食えるだろう。
何故このドラゴンはこうまでして自分に肉を食わせたいのかと疑問に思ったが、だがその答えを考えるより先に、意識があるうちに食わなければおそらくこのまま死んでしまう。
■■■■■はミンチ肉を口にした。
そして、飲み下そうとしてむせ返り、嘔吐した。
「うえっ! うげええええっ! うべっ!」
飲み込みかけた肉と、黒い血の混じった胃液が■■■■■の口から吐き出された。
血生臭い生肉はそもそも人間の身体には受け付けないものなのだ。
「あ、あぐ、う……」
息も絶え絶えで■■■■■はまた突っ伏した。
辛うじて残っていた生命力まで吐き出してしまったかのような気分で、もう動けなかった。
『……ウ? ウ? ウ?』
ドラゴンは妙な声を上げながら、力無く横たわる■■■■■を鼻先で突っついたり、ミンチ肉の山にもう一回噛みついてみたり、せわしなく狼狽えるような動きをしていた。
『……ウグルルルゥ!』
そして瞬間的な熱風が■■■■■の頬と髪を撫でる。
何かに苛立ったように、八つ当たりのように、ドラゴンが魔獣の死骸に炎を吐きかけたのだ。
魔獣の血の染みた枝葉はぶすぶすと燻って、そして哀れな肉塊は……
油の焼ける良い匂いを漂わせていた。
――これ、は……!?
鼻腔をくすぐる、命の香り。
■■■■■は最後の力を振り絞って身体を動かした。
ドラゴンのブレスを浴びたミンチ肉は、生焼けと言ってもいいような状態だったが、しかし多少は火が通り、表面の油が焦げてシュウシュウと泡立っていた。
■■■■■は肉に手を伸ばし必死で口の中に押し込んだ。
まだ血生臭くはあった。生焼けもいいところだ。
しかし、多少炙られただけでもそれは、人が食える物の味になっていた。
『ルッ?』
ドラゴンは小さく喉を鳴らし、それから用心深く■■■■■の様子を観察した。
■■■■■は、炎を浴びた肉片のみ掴み取っては、叩き付けるように口に運ぶ。
冷たくなりかけていた肉体に熱が染み渡っていく。
そして、食べるのに必死すぎて息が苦しくなった辺りで手を止めると、腹を重く感じて、食欲よりも疲労感の方が勝っていた。
――あれ……? 腹に穴が空いてた気がするんだが……
食べたものが腹の傷から出て行きはしないかと心配して、今更ではあるが■■■■■は、傷が消えていることに気が付いた。
普通なら絶対に死ぬ傷だ。そう簡単には治らない。
もし、魔法の薬やら高位の回復魔法で治療を施せば、たちどころに傷を塞ぐということも可能ではあろうが。
『ルルルルル……クルルルル……』
ドラゴンはゴツゴツした鼻先を■■■■■に擦り付けてきた。先程までは狼狽えていた様子だが、今は落ち着きを取り戻していた。
身動きする元気も無いので、■■■■■はされるがままだ。
『ルォウ……ウルルル……』
ドラゴンは何事か、優しく囁いた。
それは全く意味の分からない言語だったけれど、聞いた瞬間心臓が燃え上がるかのようにドクンと鳴って、焼き印でも押されたかのように強く強く意識に焼き付けられた単語があった。
『ルシェラ』。
女の、というか雌の名前なのだということも、何故かニュアンスで分かった。
ドラゴンは■■■■■を、そう呼んだ。
――ルシェラ? 誰だ、それは。俺は……俺の……名前は…………?
■■■■■は気付く。
自分は確かに人として二十余年の月日を生きたはず。だが、その間使っていたはずの名前がまるで思い出せなくなっていたのだ。
『ルシェラ』。
塗り重ねた油絵の具みたいに、その名が全てを塗りつぶしていく。
それからルシェラはようやく気付く。
「…………あれ……?」
疑問の声はか細く、甲高く。
着ていた服は袖も丈も余り、ブカブカになっていた。
骨張った腰に辛うじて引っかかっているベルトは長すぎて、もはやどれほどきつく締めたところで、ズボンを留める道具として役目を果たさない。
ルシェラは確かに大人の男であったはずなのに、今は子どもの姿になっていた。
それも……存在したはずのモノがどこかへ消え失せて、少女となっていた。