≪19≫ 人の似姿
ルシェラは日が暮れる前には巣に帰り着き、間もなくカファルの影も夕焼け空に浮かんだ。
「おかえり、カファル」
大きく羽ばたいて着地したカファルは、人間的に表現するなら『血相を変えて』、急にそわそわとルシェラの回りを嗅ぎ回った。
『グォウ……ルルルルル……』
大きなカファルの顔が、ルシェラにぶつかりそうな勢いで前後左右に動く。
口角が引き絞られて、彼女は徐々に牙を剥いていく。
『グルルルル……』
憎むべきものに対する怒りと、己の迂闊さを呪う苛立ちを、カファルから感じた。
ルシェラが人に会ったのだとカファルは気が付いたらしい。
そして山への侵入者は、彼女にとって許しがたい敵であるらしかった。
「あ、えっとね、人に会ったんだけど……大丈夫だから。
何もされてないし、山を荒らしたりもしてないと思うし」
わたわたと手を振ってルシェラは弁護した。
確かに彼らは薬草摘みではあったのだが、魔物一匹に追い回されて遭難するような人畜無害な冒険者だ。
カファルが懸念するようなことは何も起こらない……と、ルシェラは思う。
そんなルシェラを、カファルはじっと見ていたけれど、やがて大きな両手を地面にかざす。
緩く包み込むような形にした手の中に魔力が集って光り輝き、そして、それが終わると。
カファルの手の中に、陽炎のように朧な印象の女が一人、立っていた。
「……誰!?」
それは生き物ではないと、ルシェラはすぐに気が付いた。
破裂しそうなほど大きな力の塊。サイズを無視するならそれは、カファルの気配に近い。
だが、どう表現すればいいものか……『輪郭が無い』と言うのが最もルシェラの感覚に近いだろうか。
灼けた砂を固めて一時的に人の形にしているような、そんな印象だった。
人間で言うなら年齢は三十代後半くらい。
カファルの鬣みたいに長く豊かな赤毛で、揺らめく炎のようなシルエットをした材質不明の真っ赤なドレスを着ている。
肌はカファルの角みたいに白くて、しなやかで、その造形はひたすらに完璧だった。
凛とした印象の顔の中で、透き通るような茶色の目が一際印象深い。その瞳孔は明るいところにいる猫みたいに縦に細長くなっていた。
全体的に言うなら、つまり、今のルシェラが大人になったらだいたいこんな姿になるのではないかという感じの容姿だった。
「これは、魔法で作った幻?」
幻影を見せる魔法というのは、この世界に数多存在する。
光を操作して幻像を作り出す魔法もあれば、標的の認識をいじって実在しないものを見せる魔法もある。
原理は不明ながら、カファルは幻を作る魔法を用いたのだ。
……と、一瞬思ったが。
「るしぇら」
「喋っ……!?」
焚き火の薪がはぜるような、静かで優しい声で、幻の人影はルシェラの名を呼んだ。
「にんげん、きたの?」
「ち、ちょ、あの、そんなことよりなんで!? 人間の、喋っ、言葉っ!」
予想外の出来事にルシェラが狼狽えていると、赤い人影と巨竜は、同時に笑った。
「おどろいた。うふふふ! るしぇら、おどろいた!」
してやったり、という調子だった。
* * *
「じゃあ、狩りで出かけてたんじゃなかったのか。
この魔法を、誰か別のドラゴンから習うために……」
20分くらいかけて話を聞き、たどたどしい人間語を継ぎ合わせて理解したところによると、つまりカファルは知り合いであるドラゴンの所へ出かけていたらしい。
ドラゴンは人に化けるという。
カファルはその魔法を教えてもらいに行っていたのだ。
もっとも、その魔法はドラゴンといえども一朝一夕に習得できるものではないらしく、今のカファルは人に化けるのではなく、操り人形のような『自分を擬人化した幻影』を作り出すことしかできないようだ。
「ひと、の、すがた、なれる、まほう。
かり、の、からだ、だけ、つくる。カファル、が、はいる、むり、まだ」
「そんな仕組みなんだ」
「にんげん、の、ことば、しゃべる。ひつよう。
るしぇら、どらごん、の、ことば、わからない」
ドラゴンであるカファルの巨体を背もたれにして座り、人の形をした『カファル』と話をするのは、カファルが分裂したみたいでなんだか妙な気分だった。
いや、そもそもカファルと話をするということ自体、妙な気分だ。
これまでずっと、声のニュアンスや身振り、絵によって意思疎通を図ってきた。それで充分だった……と言うより、そこで妥協していたと言うべきだろう。
でも本当なら、話せた方がいいに決まっているのだ。
「……やく、に、たつ。いま。
るしぇら、なに、が、あった?」
ドラゴンの表情は、人には読みがたかった。
しかし今、人の姿を手に入れたカファルの表情はルシェラにもよく分かる。
ただただ我が子の身を案じる母の、剥き出しの心配だ。
「冒険者が来た。
薬草を採りに来た。
迷っていたから、途中まで案内をした」
ルシェラはなるべく簡単な言葉で答えた。
「るしぇら、だいじょうぶ?
あんぜん?
いたい、ない?」
カファルは人の手でルシェラの身体をぺたぺた触り、確認する。
雲に触られているような不思議な感覚だった。
――山に冒険者が入ったことを嫌がってるのかと思ったけど、心配なのは俺の方か?
『どうして生かして返した』とか言われるかと、ちょっと思った……
過保護にも思えるほどの心配だった。
ちょっと、くすぐったかった。
「大丈夫。冒険者は、魔獣にも勝てないくらい弱かった」
「そう。よかった」
カファルは安堵した様子で溜息をついて、人の姿を動かしてルシェラを抱きしめた。
ぬいぐるみに抱きしめられてるみたいな頼りない感覚だった。
「……人間の言葉も勉強してきたの?」
「すこし。
でも、ルシェラ、の、ことば、きいて、おぼえた」
さらりとカファルがそう言ったものだから、ルシェラはちょっと驚いたし、少し気まずく思った。
――俺はドラゴンの言葉なんかまだ全然分かんない、ってか覚えようとすらしてなかったのに……
ドラゴンの言葉は難解で、手掛かり無しに覚えるのは無理だと、もうルシェラは諦めていたのだ。
その間にもカファルが人間の言葉を覚えようと努力していたというのは、自分がするべき努力を押しつけてしまっていたかのようにも思えて、なんだか気まずい。
「どうしたの?」
「なんでもない。
……人間の言葉、覚えてくれてありがとう」
とは言え、そんなことをわざわざカファル自身に言っても仕方ないと思い、ルシェラはただ感謝を述べた。他ならぬルシェラのためにカファルは、人間の言葉なんてものを学び、それを喋る手段まで手に入れてきたのだから。
「カファル。俺がこの山に来たとこのこと、聞いてもいい?
俺、なんでかそれが思い出せなくて……」
折角だからとルシェラが聞くと、カファルはちょっと、俯いた。
「これ、とても、むずかしい。
カファル……にんげん、の、ことば……とくい、ちがう。
まちがえる、かも、の、こと、いえない」
「そっか」
「やや、まって。
すこし、とくい、なってから」
込み入った事情があるのか、何か伝えるべきことがあるのか。
それを不完全な形で話すことはしたくないようだった。
「にんげん、の、ことば。ふべん。
ぜんぶ、つたえる、むずかしい。ことば、じょうず、ひつよう」
「そうだよなあ……」
言葉の代わりとでも言うように、切なく愛しく、カファルは人型の傀儡にてルシェラを抱きしめ、ドラゴンの喉で巻き取るように顔を寄せてきた。
彼女がルシェラを大切に思っていることは分かった。
だけど、それでは足りないこともあるのだ。