≪16≫ 白い記憶
白。
白く、白く、銀色で、そしてまた白く、風は冷たい。
「うわー、積もったなあ」
冬が来て、クグセ山には雪が積もった。
夜通し降り続けた雪は山を分厚く化粧し、寂しく冬枯れた山を銀世界に変える。
ドーム状の『家』はまるっきり本当のかまくらみたいになった。
『家』の一歩外に出れば、そこは分厚い雪絨毯。
「これもトレーニング……」
『ル?』
「ドラゴンは平気なんでしょうけど、人間の薄っぺらい足の皮じゃ普通は凍傷になっちゃうの!」
深呼吸して気持ちを整える。
ルシェラはこの山で暮らし始めて以来、ずっと裸足だ。さらに少女の姿になってしまったせいで、その足は小さく柔らかくか弱く見える。実際最初は小枝や小石が鬱陶しく、ただ歩くだけでも難儀したものだ。いつの間にやら慣れてしまったが。
雪の上を歩くことにも慣れなければなるまい。やり方はもう分かっている。
――魔力を回す感覚……いや、違うかな。
炎を灯すイメージで体温を保つ方が、負担が軽い……
ルシェラは、身体の中に力を巡らせるイメージを思い描く。
あのカファルの力強い炎の息吹が、自分の身体の中を駆け巡っている様を思い描く。
そして、そっと一歩踏み出した。
「よし、行ける!」
雪の中に突っ込んだ足に冷たさは感じたけれど、刺すような苦痛は無く、命を脅かされる感覚も無い。
『家』の前庭とでも言うべきスペースを歩き、ルシェラは裸足の足跡を付けた。
足首の上まで雪に埋まる。
ふと振り向いて、無垢な雪の上に付いた足跡を見たら、妙にうきうきした気分になって、ルシェラは余計なことがしたくなった。
『ル? ル?』
雪玉をごろごろ転がして大きくしていると、何をしているのか訝しんだらしいカファルが『家』の中から首を出してきた。
「人間の文化だよー。
雪玉を作って転がすのはドラゴンには難しいでしょう」
大きな雪玉を三つ重ねて、ひとまずルシェラは雪ダルマを建造。
「こうして、こうして……」
さらにルシェラは雪の塊をナイフで削ってみることにした。
尖塔のように首を伸ばし、先の方は少し太く。大きな口と角を大雑把に模る。
身体の部分はシルエット優先。畳んだ翼を彫ったところ、良い感じにそれっぽい外見になった。
後は積もった雪を盛り上げて、鞭のように鋭く長くする。
「ほら、カファル!」
『グォウ!』
ルシェラの身長と同じくらいの大きさの、小さくて大雑把なドラゴン雪像が完成した。
カファルはゆらゆらと首を動かし、ためつすがめつ色んな方向からそれを見ていた。
「んっ?」
やがてカファルは、のっそりと『家』から出てくると、まだルシェラが手を付けていない辺りに手を突っ込んだ。
「うわっ!」
雪が爆発した。
と、思ったが少し違った。
魔法で土を盛り上げて岩ハウスを作ったときのように、カファルは魔法で雪を操作して塊にしたのだ。
『グルルル、ルロロロ』
人間ならば鼻歌か何かだろうか、という調子で喉を鳴らしながら、カファルは逞しい爪で雪の塊をザクザクと削っていく。
その作業は意外なほどに細やかだ。
高さ3メートルほどの雪の塊から、ほっそりした少女の姿がみるみるうちに掘り出されていった。
『ル!』
「おお……俺か。カファルよりでっかいけど!」
雪のドラゴンの倍以上の身長を持つ、纏った毛皮まで真っ白な少女がそこに立っていた。
細工は繊細で写実的だった。人が単純化して捉えている部分までドラゴンは正確に把握しているようだ。もっとも巨大なドラゴンの爪は、さすがに器用さでは人間に及んでいないが。
「はー……こんな平和な『雪』もあるんだなあ……」
毛皮を適当に纏っただけという無防備な格好で雪の上を転がっても、ルシェラの身体は平気だった。
ルシェラは雪の上に身体を投げ出し、未だちらちらと小雪を降らす雲を見上げた。
雪、というものにあまり良い思い出は無いような気がする。しかし、今この場は平和だ。
ルシェラが意味も無く転がっていると、カファルが隣に来て同じように転がった。『家』の回りのスペースは巨大なドラゴンが寝転ぶにはやや狭く、哀れな樹木が何本か下敷きになって薙ぎ倒された。
「……てやっ!」
起き上がりざま、ルシェラは両手一杯に雪を掬い、カファル目がけてぶっかけた。
カファルが大きな目でルシェラの方を見る。ルシェラは、不満や敵意を訴えているのではないということを示すため、すぐにカファルに顔を擦り付けた。
するとカファルの尻尾が薙がれて、大きな雪の波が巻き起こった。仕返しだ。
「うひゃー!」
白い霧に呑み込まれたルシェラは勢いで一回転した。
受身を取って飛び起きると、ルシェラはさっと雪を掬い取り、手早く丸めて鋭く投じた。
白い雪玉は寝転んだままのカファルの横顔にぶち当たり、砕ける。
『ウ?』
「ふっふっふ、これは雪合戦って言うんだぞ」
雪玉を丸め、ルシェラは次々投げ当てる。
するとカファルも起き上がって、雪の中に手を突っ込んだ。
そして、引き抜いた。
周囲の雪を魔法で絡め取ったらしい、直径2メートルほどの雪玉を掴んで。
『ウォウ』
「ごめん待って! タンマ! それは死ぬ! 死ぬから!
もしかして修行だと思ってる!?」
後ずさるルシェラ目がけ、カファルは巨大な雪玉を楽しそうに投げつけてきた。
「わー!!」
風を切り裂いて飛んだ雪玉は木を一本へし折った。
* * *
クグセ山は冬の雪より夏の雨の方が多い気候だ。
だがそれはそれとして、雪が降るときは降る場所だった。
「吹雪いてきたなあ」
轟々と音を立てて雪が降っていた。
ぽっかりと空いた『家』の入り口からは、白い風が全てを薙ぎ払っていく様子がよく見える。
――でも、ここは暖かい。
ルシェラはカファルの首にもたれて、ぼーっと吹雪を見ていた。
こんな天気ではカファルも魔獣を持ってきてルシェラと戦わせたりはしない。ただ時間が過ぎていくだけだった。
『ルゥ?』
「大丈夫。寒くないよ」
案ずる様子で声を掛けてきたカファルの顔をルシェラは撫でる。
ここは静かで暖かく、時間の流れ方は穏やかだった。
風が白く鳴いている。
ドラゴンの娘としての名を与えられたとき、人としての記憶は薄れてしまったけれど、雪とか、雪山というものには、良い思い出が無かった気がした。
――寒い思いをした、ような、記憶が……
雪は、白く。
その女も、白かった。
――『素人がこんな時期のこんな山に登るものじゃない。死ぬ気なの?』――
白と亜麻色のまだらという、奇妙な色の長い髪が、雪風の中で舞っていた。
雪に紛れるような白い服、白い肌。確か、背は■■■■■よりも高かった。少し年上だったという気がする。
手にした剣の刃も白く、しかし、それは凄惨な赤に染まっていて。
――『君は運が良い。普通は凍死する前に魔物の餌になってる。
何より私に出会えたのが幸運だよ。安心して。出会ってしまった以上、命ぐらいは守ってあげるから』――
優しいのか厳しいのかよく分からない、静かな声が、■■■■■の耳を…………
「あ、れ……?」
いつの間にかまどろんでいたルシェラは、はっとして顔を上げる。
夢と現の狭間で何かを見たような気がした。
「何か……思い出せそうな……」
掠れた記憶の欠片。
心臓がドキドキしていた。
それは■■■■■の世界を変えた出会いだった。
心に焼き付けられた強烈な想いは、理由も分からないままに悲しく……
『クルルル……』
「大丈夫、なんでもないよ」
乱れた息を一つ吐きだして、ルシェラは身体の力を抜いた。
カファルに拾われる前、死にかけていたとき、『帰らなければ』と思っていたような気がする。
その理由がルシェラは分かったかも知れなかった。







