≪40≫ 凪の空
エフレインと『慧眼の渦嵐』を宙に留めていた、何らかの力が、途絶えた。
モニカは藍色の錫杖を抱えて落ちていく。
だが、モニカはそんな状況を物ともせず、竜命錫をどやしつけていた。
『大馬鹿! 甘ったれ!!』
人間に対してであれば『耳元で怒鳴りつけた』と言える調子。
声の圧で殺そうとしているかのような勢いだ。
モニカはジゼルの指輪を使うことで、ドラゴン語の能力を得ている。
ドラゴン語は、嘶きの如き短い言葉の中に、重層的に意味を孕む。それは色鮮やかで感動的な情報の奔流だ。
だがモニカはそれを、燃え猛る烈火の如く一色に塗りつぶして、叩き付けていた。
それは人間である故の、そしてモニカがモニカである故の、幼稚で純粋な激情だった。ひねくれた態度で己を守っているが、これが彼女の本性だとルシェラは知っていた。
渦巻く水ともつれ合いながら、モニカと『慧眼の渦嵐』は落下していく。
そして遂には、水の巨竜が水を巻き上げたために、水位が下がって泥濘と化した大地に墜ちる。
異常なほどの水飛沫が上がって、その真ん中で、ずぶ濡れのモニカがすぐに立ち上がった。
『人のこと呼ぶだけ呼んどいてポイ捨てしてんじゃないわよ!
ママに会いに行く付き添いなんて居るだけありがたいと思いなさい!』
言いながらモニカは『慧眼の渦嵐』を……そう、よりによって竜命錫を振り回して、何度も地面に叩き付けた。
ぬかるむ地面に、いくつもいくつも、錫杖の突き刺さった跡がついた。
もちろん、この程度では竜命錫に傷一つつかないが。
『だいたい選り好みの仕方すら意味不明だわ!
はぁ? 幸せな奴はお呼びじゃないとでも言うの!? 同じように不幸な相手ならお友達になって傷舐め合えると思った!?
ばーっかじゃないの! 溺れてる人が隣で溺れてる人を助けられる!?
少なくともあなたは人間よりおバカだわ! 気取ってお高くとまって、要らない奴は殺処分!? そんなんじゃ人間どころかドラゴンのお友達だって一生できはしないわよバァ――――カ!!』
さらにモニカは『慧眼の渦嵐』を泥濘の中に投げつけ、思い切り体重を掛けて、勢いを付けて何度も踏みつけた。
藍色の錫杖は無傷だが、踏まれる度に深く泥の中にめり込んでいった。
見ていたルシェラが呆然とするばかりの剣幕だった。人族の歴史は長いと言えど、竜命錫にこんな真似をした者は過去に居ないのではないか。
モニカのドラゴン語には、隠しようのない剥き出しの感情が乗っていた。
それは怒りに近いのに、刺々しくはない。親近感のようでもあり、自分への苛立ちのようでもあった。
モニカは急に、泥の中から錫杖をつかみ出すと、口を寄せて怒鳴る。
『……うるさい!
いいからまずこのバカみたいな嵐を消しなさい! 閉じこもってるだけで救われるなら苦労無いのよ!』
そして次の瞬間、光が射した。
「…………止んだ」
今まで悪い夢でも見ていたかのように、雨雲も雨も、一瞬で掻き消えた。
雨の残滓の飛沫が散って、夕日を浴びて輝き、夕焼け空には虹が架かった。
そして残されたのは、トグルの力で胸に穴を開けられた水の巨竜のみ。
『……【カエセ】……』
『あんたもうるさい!!』
手を伸ばす巨竜に、モニカは竜命錫を突きつける。
巨大なドラゴンの形を保っていた水の塊は、それだけで爆発四散した。
大量の水がドカドカと落ちてきて、泥濘を蹴立てて飛沫を上げた。
そして辺りは静かになった。
ひっきりなしに豪雨と落雷の音を聞いていたから、逆に耳がおかしくなりそうだった。
「持ってって」
「あ、はい」
ルシェラはモニカから竜命錫を放り投げられ、ようやく我に返った。
そのルシェラの手から、ひょいと竜命錫を取り上げる者あり。
『そういうことか……なるほどな。
力を振るうとき、これは世界に繋がる……』
艶めく青髪の貴公子は、青竜王の化身。
トグルは藍色の錫杖をじろじろと観察し、鼻を鳴らす。
『聞くが……この竜命錫はクグセ山に置かれていなかったか?』
「置かれていました。
地脈回路を通じて本国の環境を制御し、かつ必要とあらば戦地に出せるように。
戦闘に使われることもありましたが、適宜戻されて……」
『そのせいだな。
竜気の真っ只中にこれを晒すのでは、酷使するよりも遥かに早く意思を呼び醒ます結果となろう』
トグルの分析にルシェラは、驚くと共に納得する。
そもそも暴走とは、道具に過ぎないはずの竜命錫が己の振るう力を燃料として勝手に動き続けることだ。
では、そのサイクルを始めるための最初の燃料は何か。
普通ならそれは、竜命錫の使いすぎによって堆積した力の残滓。
だが、カファルの竜気がその代わりになってしまった。なにしろ竜命錫は、元はと言えばドラゴンなのだから、竜気がよく馴染むのだろう。
「あの暴走が、竜命錫の意思……」
『かつての戦争で人族どもは、ドラゴンの骸から竜命錫を作り出した。
シルニル海に近い竜命錫には、我らが血族たる水竜も含まれておろう。
その中には、もちろん、親仔であったものもおろう』
トグルが何を言っているかは明白だった。
多くのドラゴンの骸から作り上げたアイテム。セトゥレウの竜命錫とマルトガルズの竜命錫の材料が、親仔であったとしてもおかしくない。
「竜命錫を壊して、我が仔を解放しようと?」
『さてな。
こんな残骸がかりそめの意思を宿したところで、まともな思索を持てるかは分からん。
……竜命錫は人の道具だ。私も多くは知らぬ』
トグルは最後に錫杖を一瞥し、ルシェラに放って返す。
ドラゴンたちの死生観は不明な部分も多いが、少なくともトグルは同胞の骸から造られた竜命錫に対して、特に関心を抱いていない様子だ。
『ともかく面倒事を避けたいなら、こいつを二度と目覚めさせぬよう人間どもによく言い聞かせておけ』
「この仔と、お友達になれないでしょうか」
『…………はあ?』
全く慮外の言葉だったようで、トグルは、甘酸っぱ苦辛い珍妙な薬でも飲まされたような顔をした。
竜王の威厳もあったものではない。
「マルトガルズの竜命錫の意図は分からないけど、こっちは……寂しかっただけなんだと、思うから」
ルシェラが聞いた声。モニカが聞いたという声……
つまり竜命錫は母を探して旅をした。
孤独の慰めを求めたる道連れを求めた。
それを、単なる災禍と見なして封じ込めるのは、酷くはないか。少なくともルシェラはそう思った。
竜命錫は人の道具だとトグルは言った。では、これはドラゴンたちではなく、人とドラゴンの狭間にあるルシェラの成すべき事だろう。
トグルはしばし、首を傾げたり髪を掻き上げたりして何か悩んでいる様子だったが、やがて長い溜息をつく。
『好きなようにしろ。結果としてどうなろうが、私は関知せぬぞ』
ルシェラは、トグルが面白がっているようにも感じた。
* * *
清き泥濘が、残照に染まる。
打ち寄せる波の音が、夕焼け空に鳴っていた。
「幸せな家族ってよ……どんなもんなんだろうな……」
エフレインは半ば泥に埋もれ、空を見ていた。
彼の身体は変質していた。全身を覆う鎧のような甲殻は大部分が剥がれ落ちていたが、未だ身体のあちこちに未成熟な藍色の鱗が生えている。右腕は肘の部分で折り取られているが、ひしゃげた甲殻の残骸がぶら下がっているだけで、肉も血も見えない。
泥の上に身体を投げ出し、辛うじて残った人の目で、彼は夕日を見ていた。
「お互い好きな相手と結婚して……子どもが生まれて、いつかは孫もできる……
幼年宿舎の談話室みたいに、みんなで笑い合って……
俺は、そういうものを、探すべきだったのかな……」
「どうかな。定型は無いと思う。家族とか、幸せとか、そういうの全部」
ルシェラは自信を持って、そう言った。
自分がこんな形で家族を得るだなんて……しかもそれで幸せになるなんて、一欠片も想像しなかった。常識外れだという自覚はあるけれど、だとしても。幸せとは決まり切った形ばかりではないのだと、それだけは確信していた。
「家族だから幸せなんじゃない。
幸せだから家族なんだ。
何が幸せか知らなきゃ、求めるものは分からない」
「ああ、なんか……そうだよな……
俺はまた、酷い間違いをしていた……」
「お前は何も間違ってない。
ただ、何も与えられなかっただけ、なんだ……」
エフレインの声に悔恨が滲む。
だが……救われるべき者ほど、救われ方すら知らないのだ。
ルシェラは、運が良かっただけだ。降って湧いたピースが、空白にすっぽり嵌まっただけだった。
エフレインは、傍らのルシェラの方を見た。鱗が軋む首を、ひねって。
「ルシェラ。お前さ……俺の彼女になってくんね?」
「ばーか」
ルシェラはエフレインを覗き込み、すっぱり綺麗に言い捨てた。
「相手は自分で探せよ。
お前はもう、自由だろ。エフレイン」
「そうか。そうだな……」
夕焼け空に、鳥の影が浮かんだ。赤い空に、黒々と。
彼らとて、果て無き虚空を永遠に飛び続けるわけではない。
日が暮れるまでには、何処かの梢に降り立つのであろう。







