≪39≫ 奪還
刺すように鋭く冷たい雨が、ルシェラの頬に打ち付けた。
明滅する雷光と、竜巻の如く渦巻く水流目がけ、カファルは雨空を飛翔する。
地上が遠のき、大嵐に揺られる中、上下左右前後の感覚すらも曖昧になっていく。世界の果てまで全てが嵐に呑まれてしまったかのようにも思われた。
嵐の中心へ、カファルは迫る。猛炎の軌跡を空に描いて。
――あれが、エフレイン……?
カファルの背中で目をこらし、ルシェラは、雨に煙る影を見た。
それは人のような形をしていると思ったのだが、人ではなかった。
まるで、ドラゴンを模した意匠の全身鎧を着込んだような。もしくはドラゴンの鱗と甲殻で人を覆ったような。人ともドラゴンとも言いがたい奇妙なものがそこに居た。
右手は艶めく藍色の錫杖と一体化して、それを握った形に固定されている。
「上!」
「っ……!」
エフレインの姿を唖然と見ていたせいで、ルシェラは反応が遅れかけた。
宙を回流する、無数の水流の一つが、まさにカファルを叩き潰すルートでこちらへ向かってきたのだ。
ルシェラの意思に呼応し、別の流れが生まれた。
迫り来る激流に比すれば小川のようにか細い流れ。だがそれによってルシェラは、激流を受け流す。直撃する軌道だったものがねじ曲げられた。
『オオオオオオオ!』
同時にカファルは閃光のブレスで前方を薙ぎ払う。襲い来る激流がまとめて消し飛んだ。
地平まで届くような恐るべき出力のブレスが、寸の間、嵐を晴らして日の光すら呼び込んだ。蓄えた竜気を解放することで、カファルは一時的に、古代竜たる父にも等しい力を得ていた。
『波が来るわ!』
カファルが咆える。
抱擁を受けるエフレインの身体から、奇妙な光が毀れていた。ヒビが入っているかのように。
そこから、力の溢れる気配。
「1,2の……3!」
ルシェラの合図で、カファルとルシェラは同時に前方へブレスを放った。
一直線なカファルのブレスに、ルシェラの炎が纏わり付いて、攻城鎗の如く螺旋に貫く炎の大槍となる。
水の巨竜は、エフレインを抱きしめる。
光が毀れ、亀裂が……広がった。
瞬間、エフレインを爆心として、世界を歪めて握り潰すような破滅的衝撃が迸る!
全方位へ球状に広がるエネルギーに対し、ルシェラたちのブレスは一点突破、穴を開けるように迎撃して突き抜ける。
……はずだった。
意識が飛びそうな衝撃。
ブレスで衝撃を相殺したはずなのに、カファルは、ひっぱたかれた羽虫のように跳ね返された。
背中に乗っていたルシェラも弾き飛ばされる。だがすぐに、宙を蹴って足裏を爆発させ、舞い戻った。
「モニカ、無事!?」
「あなたこそ!」
カファルの背中にモニカを縛るたてがみが、燃えていた。
常人たるモニカでは、あのような力に晒されては、当然に死ぬ。そこでカファルの力がモニカを守っているのだ。幸いにも守り切れたようだが、つまり、攻撃に晒される度にカファルは大幅に消耗するという事でもあった。
『帰り道は考えないで全力で突っ込むわ。いい?』
「分かった!」
カファルが大きく羽ばたき、炎の竜巻となって上昇した。
水でできた巨大な人形……もとい、竜形の、頭を飛び越えてさらに上へ。
水の巨竜はカファルの方には見向きもしない。ただただエフレインを抱き寄せている。
エフレインの身体が軋む音が、大嵐の中だというのに、ルシェラにははっきりと聞き取れた。
「次が来る!」
再度、破滅の波が襲い来る。
二重のブレスが波を迎え撃つ。
波は、しかし止まらない。ルシェラは歯を食いしばっていた。
「う……ぁっ……!」
ルシェラは燃え上がるたてがみにしがみ付く、振り落とされないようこらえた。
衝撃に煽られて大きく飛行軌道を乱したカファルは、炎の螺旋を纏ったまま、勢いを殺さず大きくターン。
さらに高度を上げていく。
翼の炎は、飛び立ったときはカファルの本来の身体を超えるほど大きかったのに、既に半分以下に縮んでいた。
しくじれば次のチャンスは無いのだとルシェラは悟った。
エフレインの真上に来たところで、カファルは頭をまっすぐ下に向け、翼を折り畳んだ。
『ここから落ちるわよ!』
「モニカの守りは任せて。飛び方に集中して!」
打ち返されてしまうなら、それでも届くように飛ぶ。
重力に任せた飛行……あるいは落下によって。
ぐん、と髪の毛を引っ張られているような感覚。加速度が押し寄せる。
カファル自らが炎の穂先となって、水の巨竜とエフレイン目がけて落ちていく。
――貫け!
再び、爆発。背骨が引きちぎられそうな衝撃。
カファルは、煽られて弾かれるかと思った瞬間、さらに火力を上げて自らの鼻先を捻じ込んでいく。
そして落下軌道を強引に引き戻した。
迫る、迫る、明滅する雷光が。
水の腕に抱かれたエフレインが。
凍てつく視線を、ルシェラは感じた。
エフレインからではない。
流氷の浮いた冷たい海流みたいな、圧倒的な何か。
水の巨竜は今まで、ルシェラたちに気づいてすらいないかのように、ただただエフレインを抱きしめていた。
だが、それが突如、舞い落ちるドラゴンを見咎めたのだ。
巨大な前肢の甲で、払い飛ばす一撃!
「…………!!」
防ぎ、きれなかった。
見た目にはまさに虫でも追い払うように、軽く前肢を振っただけだ。
なのにそれは、海がまるごとぶつかってきたような、絶望的な圧力だった。
撃墜されたカファルはデタラメに回転しながら吹き飛んでいき、その背中からルシェラとモニカも嵐のど真ん中に放り出される。
「ママ! モニカ!」
ルシェラはすぐ体勢を立て直し、宙に水流を生み出し、その上を滑走。
落下していくモニカの下に滑り込んで、小さな身体を抱き留めた。
少なくともまだ死んではいない。少なくとも形は残っている。
ルシェラは寸分も迷い無く、己の左手薬指を根元から噛み千切り、そこから溢れた燃え上がる血液をモニカの喉に流し込んだ。
「……んぐっ! けほっ、うぇほっ……!」
モニカは咽せて、息を吹き返した。
ほっとしたのも束の間。このままでは次の『波』で死ぬ。
カファルは破れた翼を必死に羽ばたかせてこちらに向かってくる。間に合わない。そして、蓄えに蓄えた竜気の炎は、彼女の翼にもはや、無い。
ルシェラは奔った。
エフレイン目がけて。
最期の瞬間までは足掻く。それが実を結ぶと限らずとも。
水の巨竜はエフレインを抱きしめる。
亀裂は、もはやエフレインの全身に広がりつつあった。
今度こそ、地図に空白が生まれるほどの大爆発が起こると、ルシェラは察した。
――あと少し、なのに……!
その時、風がルシェラの背を押した。
「え!?」
奇妙な推進力を得て、ルシェラは加速した。
行く手では、ろうそくの炎を吹き消すのと同じように、嵐が吹き消されていた。
不自然に嵐が止んだ、凪の領域が、細く一直線に発生していた。まるでトンネルのように。
水の巨竜も、水だけの身体に穴を開けられていた。
雨空に響くは、竜の咆吼。
それはカファルの声ではなかった。
『酒代だ』
青の竜王は大きく旋回し、嵐を裂いて引き上げていく。
ルシェラの前には道だけが残された。
モニカを抱いたままルシェラは、自ら生み出した水流を駆け下っていく。
稲光に包まれた、嵐の核に。
「エフレイン!」
エフレインは磔にされたように、じっと、嵐のただ中に浮かんでいた。
そこにモニカは自ら身を乗り出して、遂にはルシェラの胸を蹴って飛び出した。
彼女の手が炎を帯びる。
否……炎そのものとなる!
『このっ……大馬鹿ぁ――――っ!!』
嵐をつんざく大絶叫。
モニカはエフレインに組み付くと、炎の腕で錫杖を掴み、鱗と甲殻を砕きながら、もぎ取った。







