≪38≫ 抱擁
打ち寄せる波のような音が、辺りには響いていた。
ルシェラがふと気がつくと、溶岩島が大きくなっていた。
……違う。
島が肥大化しているのでなく、水位が下がっている。
辺り一帯が水没していたというのに、その水位が下がっていき、もはや水面下に地面を透かし見れるほどだった。
水の巨竜のせいだった。
巨大な脚が周囲の水を吸い上げて、渦潮のような流れが生まれていた。水中の変異体が水流に吸い込まれ、すり潰されていく。
水でも、肉でもなく、変異体が集めて濃縮した竜気を取り込んでいるのだとルシェラは察した。
天を突くほどに大きな、ドラゴンの形をした水の塊は、嵐の中心に前肢を差し伸べる。
『慧眼の渦嵐』と同化した、エフレインに向かって。
「うわっ!」
突如、殺人的な突風に見舞われ、ルシェラは吹っ飛んでしまいそうになった。
水の巨竜がエフレインに触れた瞬間、爆発でも起こったかのように、エネルギーが放散されたのだ。
ルシェラたちが無事だったのは、カファルが守りの陣を張っていたからだ。あれをまともに食らったらルシェラやカファルとて無事では済まなかろう。他四名は確実に死ぬ。
水の巨竜は、さらにエフレインに近づき、遂には胸に抱き込んだ。
巨竜にとってエフレインは、ビー玉みたいに小さいが、それを優しく両の前肢で包み込んで。
そして、立て続けに力の波が荒れ狂う!
まるでエフレインが、無限に爆発し続ける爆弾になってしまったかのようだった。
その力は溶岩島を揺らし、鋼鉄の木々を軋ませる。
水の巨竜も揺らぎ、吹き飛んでは元の形に戻る。それでも巨竜はエフレインを抱き続けた。
『まずいわ』
嵐を見上げてカファルが呟く。
『まるで抱きしめようとしてるみたいだけど、結果として起きていることは、ただの力の衝突よ』
「…………壊れると思う?」
『依代は確実に。竜命錫本体も、おそらく』
牙を噛みしめて、カファルは分析する。
ルシェラは全身の血管が凍てついたかのように感じた。
「おい、俺にも分かるように喋ってくれ!」
「竜命錫が壊れるかも知れません!
そしたら……この辺り全部吹き飛んでカルデラ湖になります!」
「はあ!?」
ウェインが裏返った声で叫んだ。
「竜命錫の完全破壊は……歴史上にも稀ですが、どの事例も広域に甚大な被害を発生させています。防御してどうなるようなものじゃ、ないです」
竜命錫が破壊されたら、おそらくこの場に居る全員が死ぬ。ルシェラやカファル、もちろんエフレインも含めて。
そしてセトゥレウ王国は竜命錫を失ったことで滅び行くだろう。
並みの手段で竜命錫を破壊することはできない。
できるのはそれこそドラゴンか、他の竜命錫くらいだ。
だが……この魔境は、マルトガルズの竜命錫『無尽なる淵門』が暴走して作り出したもの。そこで天地の力を竜気と成して、それを変異体に集めさせ、さらには一つに束ねている。
壊しうるはずだ。
ルシェラは知識からそう分析し、カファルは目の当たりにしてドラゴンの知覚でそう分析した。
「じゃ、じゃあどうすんだよ!」
「両方止めるしか……」
「嘘だろ、おい!」
そう、無理だ。
そもそもルシェラたちの作戦は、この場で竜気を蓄えて、さらに『無尽なる淵門』の作り出した魔境も盾にして『慧眼の渦嵐』を迎え撃つというもの。
竜命錫二つ分の力を相手にして、それを鎮める備えなど無い。そんなことは最初から無理だ。
では逃げられるか。それさえ不可能だ。ここは暴走する『慧眼の渦嵐』の勢力圏のど真ん中。力を蓄えた溶岩島を離れ、嵐を突っ切って生き延びる見込みはほぼ無いのだ。
「聞こえた……」
吹き荒れる風の中で、ぽつり、呟く者あり。
「……そういう、事だったんだ……」
モニカだった。
彼女は嵐でずぶ濡れになりながら、それでも空を、雷光の中の竜命錫を見上げていた。
「モニカ?」
「私をあそこまで連れて行って、ルシェラ」
「え!?」
ルシェラは耳を疑った。
血迷ったかと思ったが、モニカは至って真剣な様子で、むしろ怒りに満ちていた。
「指輪を貸して。
……あのバカに一言、言ってやるわ」
* * *
ルシェラとモニカは、カファルの背中の上に居た。
特にモニカは、赤子を背中に括り付ける背負い紐のように、しっかりとカファルのたてがみを結んで身体を括り付けてあった。
「本当に行くの?」
地上からカファルの背中を見上げ、ビオラは心配げに声を掛ける。
「うん」
「本当に……あれを止めて戻ってこられるの?」
「さあ?」
詮無い問いに、モニカは肩をすくめて応じる。
「分かんないわよ。
でも、どうせ死ぬんなら、やり残し無くスッキリ死にたいでしょ」
モニカは落ち着いたものだ。
実際のところモニカは、一撃で事態を解決する銀の矢を見いだしたわけではないのだ。
ただ彼女は、このままでは死ねないからと、ちょっとぶちかましに行くだけだった。その結果も含めてモニカは受け入れている。
それでもルシェラは、モニカに賭けることにした。
理由は、予感だった。モニカの考えが何らかの正鵠を突いているという予感。
ただそれだけだ。
ルシェラにも妙手は無い。ならばモニカの考えは、賭けるに値する。
「……最善を尽くします」
ルシェラはビオラに、決意を込めて言った。
未来を保証する事などできないけれど、それでも最期まで諦めないと。
ビオラは何も言わずに頷いた。
「守れなかったらごめんね」
たてがみの結び目を増やしながら、ルシェラはモニカに語りかける。
モニカは溜息をついたように見えた。
「やる前から失敗のこと考えるのね、あなた」
「冒険者は死と隣り合わせだから、失敗の可能性を見据えて備えるべきなんだ。
それは諦めることじゃなく、覚悟を決めることだから」
「生意気。あんたマネージャーでしょ」
「冒険者の資格は持ってるし!」
『……もしもダメでも謝らないで。
誰かと一緒に死ねるだけで、私は…………幸せだもの』
モニカはルシェラに借り受けた、ジゼルの指輪を使って、ドラゴンの言葉で言う。
いきなり剥き出しの感情を叩き付けられて、ルシェラはひるんだ。
いつも自分の心を誤魔化して隠すような物言いばかりしているモニカが、それを曝け出したのだから。
もう独りじゃない。
モニカにとってはそれが全てだった。全てと言えるほど、彼女は満ち足りていた。
彼女は本当に、死ぬときも誰かと一緒なら、それで幸せなのだ。
『……だいじょうぶ。
いきて、みんなで、かえろう』
ルシェラは啼き返す。
そうだ。
こんな小さなものを、幸せだと思ってほしくない。
彼女は暗闇に差し込む一筋の光を、ようやく見たに過ぎないのだ。
『行くわよ』
カファルが翼を広げた。
熱風が吹き荒れた。
その翼は炎を纏い、本来の彼女の翼の数倍の大きさとなっていた。







