≪37≫ 二つの大嵐
その嵐が通り抜けた先に残るのは、ただただ、『無』であった。
地上に存在する全てが薙ぎ払われ、挽き潰され、吹き飛ばされて、深く抉られた地面に溜まった清水だけが残る。
水は命の源と言われるが、そこにあるのは命すら存在せぬ『無』の景色だった。
嵐と言うよりも巨大な竜巻のように、天まで渦巻く大水流をいくつも、幾重にも取り巻いて。
行く手に存在する全てを破壊しながら、暴走する竜命錫は進んでいく。
だがそこに破壊の意思は存在しない。人が歩みを進めるときに、落ち葉や小虫を踏み潰してしまうのと、同じだ。
それは東へ。
東へ。
己を待つものの元へ……
「ぬぅん!」
重厚な踏み込み。水飛沫が跳ね飛ぶ。
そしてティムは、大剣を一閃!
巨人用の鉈みたいなティムの剣が、燃えていた。
斬撃の軌跡が燃え上がり、何倍にも拡大される。
その一撃は、降りしきる雨を蒸散させる。そして、宙をこちらへ向かってくる激流を……打ち払う!
「要領は掴めた。なるほどな」
燃え上がる愛剣を見て、ティムは渋く笑った。
嵐に侵された大地に、ぽっかりと炎の小島が浮かんでいた。
黒灰色をした溶岩石の島に、赫々たる溶岩の小川が巡り、錬鉄の木々が防風林の如く根を張っている。
密生した木々を盾として、冒険者たちは嵐に立ち向かっていた。
分厚い雲と雨垂れに遮られ、日の光は届かぬが、絶え間ない稲光によって辺りは明るい。
こちらに向かってくる嵐の姿がよく見えた。その異常な中核部が、視界いっぱいに広がっていた。
水の流れを幾重にも纏い、それを触手のように放ってくる。
行く手にある全てを嵐に沈めて、無に帰していく。その、圧倒的な力が迫り来る。
「≪爆炎火球≫!」
小さな太陽のような火の玉が、豪雨を切り裂き飛翔した。
それは、向かってくる水流の触手と正面からぶつかり合って、稲光よりも目映い大爆発を起こす。
それは大嵐の風向きが、一時変わるほどの余波をもたらした。
いかなる大魔術師であろうとも、人の身でこんな魔法は使えぬ。本来は。
たかだか中位の攻撃魔法でこんな威力が出るはずもなし。
だがそれはカファルが吐く火球ブレスそのものだった。
「あああ……快感……!
ドラゴンの力が私の中を通り抜けていく……!」
「燃えてるぞお前」
杖を構えたままビオラは、上気した様子でうっとりと嘆息した。
彼女の美しい金髪は途中から黄金の炎と変じていた。
髪が燃えていると言うより、炎と合一しているのだ。ティムのように、武器に力を宿すのではなく、彼女そのものがドラゴンの力を振るうための武器となっている。
彼女ほどの術師だからこそどうにか御しているが、一歩間違えば人の形を保てなくなるだろう荒技だった。
暴走する『慧眼の渦嵐』を止めるには、嵐の中心部に至る必要がある。
だが普通に接近することは不可能。そのためこうして、カファルが作り上げた領域をシェルターとして踏みとどまり、中心部の接近を待っているのだ。
嵐の侵蝕に耐えるため、冒険者たちはカファルの加護を得て、迫り来る力を打ち払う構えだった。これならカファルは島そのものの維持に専念できる。
「基本は私とルシェラちゃんでやるのが良さそうですね。
撃ち漏らしはリーダーにお願いします。剣の方が小回りがきくでしょう」
「引き受けた」
「おい待て、後ろも見ろ!」
気配など読めぬ魔境の、目も耳も制限される大嵐の中で、ウェインはいち早く気づき声を上げた。
溶岩石の孤島の周囲で、嵐になぶられて波打つ水面から、這い出すものがあった。
人のようでもあり、直立したドラゴンのようでもある、奇妙な形をした何かが。
いくつもいくつも這い上がり始めていた。
それらは全て、水でできていた。
東の戦場にも現れたという、水の怪物だ。
「……ニオイが違う!
こっちは『慧眼の渦嵐』じゃない!」
「この魔境の……マルトガルズの竜命錫か」
「なんだって今ここで邪魔しやがるんだ!」
今までも変異体はうろついていたが、こんな風に使い魔の如き怪物が現れたのは初めてだった。
水と水なら力を強め合う、とは限らない。それぞれに法則を作ろうとしているものが、ぶつかり合って打ち消し合う。
水の魔境は迫り来る嵐を阻んでいるのだが、何故だかここで、カファルの側への攻撃に打って出た。
『……【ドコダ】……』
『……【カエセ】……』
水が辛うじて形を成している、のっぺらぼうの人形たちは、ぶつぶつと呟き問いかける。
だがその答えを求めているのかは分からない。返答も待たずに問答無用で襲いかかる構えだった。
水の人形たちは、手に手に、剣とも槍とも付かない何かを携えていた。水が形を取っている。人形の身体と一体化した武器だった。
そして、己の身が蒸発していくのも省みず上陸し、カファルに迫る。
『……【ドコ』
迫り来る水人形を、炎が貫く!
流星の如き尾をたなびかせる一陣の炎は、大雑把にナイフのような形をしていた。
炎のナイフが命中した水人形は、風に吹かれた灰の山みたいに消し飛んだ。
攻撃は矢継ぎ早だ。
ぞろぞろと、数えきれぬほどやってくる水人形に対し、それ以上のナイフが迎え撃つ。
「何だっけ、お伽噺にあったよなあ!
矢筒から無限に矢が湧いてくるっつぅバンダナ!」
「鉢巻きじゃないです?」
「帽子だろ?」
ウェインがマントを閃かせると、その下からバラバラと炎のナイフが落ちてきた。
それをウェインは空中で掴み取りながら、狙い違わず投げ放つ!
このナイフも、カファルの力の賜物だ。柄まで炎でできているというのに、ウェインは手袋すら焼けていない。
投擲は信じられないほど正確で素早い。
威力はまさに一撃必殺。
だが相手はひたすら数が多く、いくらでも押し寄せてくるのだ。
「くそったれ!
俺はこっちの護衛に付くぞ!」
「任せた!」
カファルとモニカを中心に置き、ルシェラたち三人は嵐に立ち向かい、ウェインが背後の守りについた。
囂々と唸り、嵐が押し寄せる。
稲光よりもなお目映い炎が、滅びの雨を打ち払う。
雨具など意味が無い豪雨の中、溶岩石の孤島は、乾いては濡れた。
「だんだんっ……! ハァッ……激しくなってねえか!?」
「嵐の中心部が近づいてるんです!」
波濤が、激流が、重力を無視して襲ってくる。
ルシェラは赤熱した不定形の溶岩剣を、鞭のようにふるって波濤を割る。不完全ゆえに普段は使わぬ技だが、吐息にすら炎を乗せて侵蝕を阻んだ。
背後で火山が爆発し、火山灰混じりの雨が降った。
ルシェラの身体は熱を帯びていた。
自分自身の熱に、ルシェラは危険を感じた。内側から自分が焼け壊れていくような感覚だ。
だがそれでも、ここはルシェラが踏みとどまるべき場所だ。ビオラになるべく負担を掛けたくない。彼女の頑丈さは人間の水準だ。ルシェラとは桁が違う。ビオラが倒れたら状況は崩れるし、それはおそらく彼女という存在の消滅を意味する。
『……ミツケタ……』
「え?」
頭の中で炎がガンガン鳴り響き始めた頃だったから、ルシェラは最初、それが幻聴かと思った。
『……【ミツケタ】……』
違った。その声は確かに聞こえた。
判で押したように、一度目と全く同じ声。同じ言葉。同じ気持ち。
まさしく異口同音に、同じ声が、いくつもいくつも。
ルシェラは振り返る。
カファル目がけて押し寄せる水の怪物たちが、一斉に足を止め、空を見上げて呟いていた。
『……【ミツケタ】……』『……【ミツケタ】……』『……【ミツケタ】……』『……【ミツケタ】……』『……【ミツケタ】……』『……【ミツケタ】……』『……【ミツケタ】……』『……【ミツケタ】……』『……【ミツケタ】……』『……【ミツケタ】……』『……【ミツケタ】……』『……【ミツケタ】……』『……【ミツケタ】……』
水人形の見る先には、押し寄せる嵐があった。
人形たちが、カファルもウェインも無視して、突然ふわりと浮き上がる。
網にかかって引き上げられる雑魚の群れみたいに、一つの流れを形成し、ぞろぞろ空へ昇っていく。
「なんだ……?」
気がつけば、凪が訪れていた。
依然として雨は降りしきり、落雷もひっきりなしだったが、島を飲み込む侵蝕の手が止まっていた。
いかなる嵐も中心部には凪が存在すると言われる。それが真実かはともかくとして、その言葉を思い起こさせる状況であった。
奇妙な喩えだが、まるで……嵐そのものが固唾を飲んで、目の前の出来事を観察しようとしている。ルシェラには、そんな風に思われた。
水の人形たちが、ずるずると寄り集まって、徐々に境目をぼかしていく。
粘土をこねるように、大きな一つの塊になっていく。
巨人、ではなかった。
『慧眼の渦嵐』の暴走の折に見た、水の巨人とは似て非なる。
透き通る水でできた、カファルの倍以上は大きな、ドラゴンだ。
ディテールは曖昧だが、長い首やシャープな頭部、広げた翼を見れば、それは確かにドラゴンだ。
水のドラゴンは地を鳴らし、嵐に向かって一歩、踏み出す。
そして、口を開けるような動きをした。咆吼だった。声も無いのに、魂をしびれさせるような圧力があった。胸を締め付けられるような何かを感じた。
嵐の中心部は静かに迫る。
激流の竜巻と、無限の雷光の中に、何かを抱いて。
「エフレイン!!」
明滅する雷光の奥に向かって、ルシェラは叫んだ。
ここからではまだ豆粒の大きさに見えるが、人に近い形をした影が、嵐の中に浮いているのを見て。







